君が生きる為の夢

藍ねず

君が生きる為の夢


 優しい話が好きだ。


 ふわふわな綿毛に触れるような、風のない野原で陽光を浴びるような。

 暑い日に吹いたそよ風のような、寒い日に飲んだスープのような。


 そんな、優しい話が好き。


 登場人物はみんなハッピーエンド。満面の笑みを浮かべられる最後に向かって物語は進んでいく。道中でどんな辛い目にあったって、最後は必ず、ハッピーエンド。読んでいたこちらの心に陽だまりを作ってくれるような、話が、


「縺薙s縺ェ縺ョ隱ュ繧薙〒繧区凾髢薙′縺ゅ▲縺溘i蜒阪¢」


 目の前の地面に指で綴っていた文章が消える。ハッピーエンドになるはずだった物語。僕だけの物語が、他人の足に踏み消される。


 藁と土で出来た牢屋の隅。地面が剥き出しの床の端。そこで膝を抱えている僕に、冷たい影がさした。


「譛ャ蠖薙↓菴ソ縺医↑縺?・エ縺?縺ェ」


 与えられた端切れを巻いた体が蹴られる。僕を冷たい影で覆うのは、大きな女。恰幅の良い体についているのは筋肉なのか贅肉なのか分からないけど、力が強くて、僕はいつも殴られる。たまに蹴られる。痛みに蹲っている間に体を引きずられ、沢山の人が並ぶ前に立たされる。


 両手首についた腕輪が重い。両足首にある枷のせいで上手く歩けない。まともにご飯を食べたのはいつが最後か、硬いパンみたいな物を食べ過ぎて忘れてしまった。


 手入れできない髪は痛みながら伸びている。体は骨が浮くほど細くなり、日に当たらないせいで肌が青白くなってしまった。


 僕と同じようにステージへ並べられた子達を横目に見る。年齢層は様々だ。僕と同じくらいの十代っぽい子もいれば、三十代くらいの人もいるし、五十代かなって思える人もいる。


 みんな酷い顔だ。でも、それはきっと仕方がないこと。毎日毎日わけの分からない言語で怒鳴られて、殴られて、じりじりと肌を焦がす照明の下に立たなければならないのだから。


 僕達を見ている人達はみな恰幅が良くて、手を挙げては何かを示す。その度に会場の熱気が増していく。


 何を言っているのかは分からない。僕にはこの世界の言語が分からない。


 ここは、僕が生まれた世界ではないのだから。


 ***


 ある日、僕は生きたくなくなってしまった。


 成績が悪くて親に溜息をつかれたとか。好きだった漫画が実写化されたとか。それが酷評されるネットニュースを見たくなくなったとか。

 写真部に全然顔を出さない奴が課外活動だけは参加するとか。その時の写真が最優秀賞をとって写真に嫌気が指したとか。

 校則を守って生きる自分の方が息苦しさを感じる日々に、期待が出来なくなったとか。


 そんな、色々が積み重なってしまった。


 真面目な奴が馬鹿を見る。素直な人が損をする。規律を重んじた者の首が絞められる。ならば真面目でいることも、素直でいることも、規律を守ることもしたくなくて、でもそれらを「しない」選択をするのは、自分らしさを消すのと同義だから。


 生きる気力が失せてしまった。


 自分が自分を好きでいる為に歩いていただけだったのに、周りの方が輝きを放っていて、自分の喉は圧迫されるばかりで。


 自分が正しいと思った道は、結局のところ、損をする結果ばかり生んでしまうのだと感じてしまって。


 生きたくなくなった。


 僕が僕を認められるように生きるには、この世界は優しくなさ過ぎる。


 だから物語の世界に逃げたかった。自分の気持ちを温めて、時には涙腺を刺激して、読んだ後には息を吐ける物語が好きだったから。


 大切にしている本を抱えて、部屋に籠って、食事をとらず、学校に行かなくなった。そんな生活を何日か続けて、誰の声にも答えないまま眠ってみたら、どうだろう。


 目覚めた時、僕は着の身着のまま、知らない道に寝そべっていた。


 周りを取り囲んでいたのは恰幅の良い者達。大柄な人間に勝てる筋力がない僕は、さっさと枷をつけられて、熱い照明が降り注ぐステージに立たされた。


 訳の分からない言語を聞いて、地面を踏んでいる気もしなくて、これは夢なのだろうと思っていた。本を抱えて眠ってしまったから、奇想天外な夢を見ているのだと。


 何やら会場をざわつかせる手の挙げ方をした奴に襟を掴まれ、引きずられ、小綺麗な家に連れて来られても夢だと思っていた。


 そこで服を剥かれ、冷たい石の台に張り付けられた時は夢であれと思っていた。


 僕を連れてきた奴がナイフを持った時は、早く覚めろと願っていた。


 でも、夢は覚めなかった。


 そこからの記憶は曖昧になっている。いや、多分、僕の頭が曖昧にしたのだ。人間の脳は騙されやすいから。


 腕を切られて、筋肉に生で触れられた。どれだけ暴れても、喚いても、逃げられなかった。

 足を切られて、骨が空気に触れた。どれだけ叫んでも、泣いても、やめてもらえなかった。

 腹を開かれ、視界が一気に暗転した。よかった、これでもう、僕は夢を見なくて済む。


 どこも傷つけられていない。どこも開かれていない。喉は潰れていないし、自分の血の生温さなんて知らないんだ。


 次に目が覚めた時、僕は冷たい牢屋の隅で丸まっていた。


 端切れのような布の服を着て、手足を枷で封じられて。唇が渇き切っているのに、脂汗が浮いていた。


 牢屋に入る微かな光は、鉄格子の向こうにある松明の明かり。


 その松明を背に立っている、恰幅の良い女。それは、僕をステージまで引きずった女だった。


 体はどこも傷ついていない。でも明確な痛みを頭も体も覚えている。言葉に出来ない悲鳴を上げた、自分の声が耳にこびりついている。


 寒い牢屋で奥歯が鳴るほど震え始めた僕を見ても、女は口角を上げるだけだった。


 それから、地獄のような夢が続いている。


 毎日牢屋で目が覚めて、時間が来るとステージに連れて行かれ、その日に僕を連れて行く誰かを決める。


 その誰かに連れられて行った先では、十中八九、喉が裂けるほど叫ぶことになる。


 何をされているかなんて、思い出すだけでも痛くて耐えられない。


 熱い涙で眼球が溶けると錯覚した日もあった。

 鎖の音が耳から離れなくなったのはいつからか。

 逃げようとして捕まった時に骨を折った回数は数えきれない。

 自分の内臓を見たのは何回だっけ。

 皮膚が剥がされる音は二度と聞きたくないんだけど。


 叫んで叫んで、叫びが切れた時に暗闇の安息へと逃げられる。しかし安息は瞬きの間に終わってしまい、気づけば再び牢の中。


 分かっていた。これは夢ではないのだと。

 自分がいた世界とは違う場所に迷い込んで、恰幅がいい者だけがいる世界で、自分は遊ばれている。


 毎日上がるステージはオークションの会場とでも言えるのか。そこで売り買いされて、遊ばれて死んで、その度に僕は何度も生き返らされているのではないだろうか。


 僕が一体何をしたと言うのか。どうして僕がこんな目に合わなければいけないのか。


 体が治っても気持ちが追い付いていない。こびりついた恐怖が僕の心を埋めている。


 最初の頃は、ステージに連れて行かれると分かれば過呼吸になっていた。涙が止まらなくて、暴れまわって、それでも無理やり売られてしまった。僕が叫んでいる方が客席は盛り上がっていたように感じる。売られる為に一緒に並んでいる人達は、僕から目を逸らしていたな。


 そんな抵抗と拒絶の日々も無駄なのだと悟った時、涙が止まった。呼吸が凪いだ。全てどうにも出来ないのだと理解してしまった。


 それからは抵抗することなく、黙ってステージに連れて行かれた。牢屋で殴られてもそこまで痛みを感じなくなった。


 黙って並び、黙って買われて、死ぬまで傷つけられて生き返る。


 それだけの日々で、僕の心は殺されたのかしれない。


 ステージに並んでいる人の中で、新顔を見ても意識を向けなくなった。喚いてる声も耳が留めておかなかった。そちらを見るのも億劫で、無駄だよと伝える気力もなくて、早く今日も安寧の闇で眠りたいと漠然と考えている。


 その日もまた、僕の意識は何処かへ沈んだ。そのまま浮上しなければいいのに、僕はまたこの世界へと戻ってくる。


 目覚めた牢屋は今日も冷たい。こんな悪夢は見たくないのに、悪夢が現実で、地獄が今の居場所だ。


 あぁ畜生、畜生、畜生……畜生が。


 僕が一体何をしたと言うのか。どうして僕がこんな目に合うのか。真面目に素直に育ち、規律を守って生きてきたのに。


 少しばかり生きたくなくなって、息をするのがしんどくなったからってさ。こんな罰を受けるほどの事は何もしていないだろ。


 どうして僕なんだ。どうして僕が選ばれた。どうして、なんで、ふざけるな。


 動かす気力が湧かない指では、ハッピーエンドの物語だって書けやしない。文字を綴ることが億劫で、自分の中から湧き出る物語なんてありはしない。


 死んだら楽になれるのか。死んだら僕はどうなるのだ。もしも今の状況が天国へ行く為の修行なのだとすれば、あまりにも酷過ぎる。死にたい、死にたい、でも死んだ時に「自殺したから」という理由で天国に行けないのは最悪で最低だから。


 あぁ、いや、もしかしたら、ここは死後の世界なのかもしれない。


 僕が生きたくないと思ってしまったから。

 ちょっと部屋に閉じこもってしまったから。


 息をしたくないと、反抗してしまったから。


 食事を取らなかった僕は餓死したのかもしれない。そうして神様が僕を地獄へ落としたのか。生きたがらないなんて、なんて罰当たりなのかって。


 もう既に、天国へ行けるか否かの審判が終わっているのだとしたら。

 ここは地獄で、僕は今、罰を受けているのだとしたら。


 許せない。


 許せない。


 許せないだろそんなこと。


 今に耐えきれなくて、耐えようと藻掻いて、やっぱり駄目で。諦めた結果選んだのが生きることの放棄だった時、どうして天国へ行けなくなってしまうのだ。


 正しくあろうとすればするだけ息が出来なくなっていく。そんな世界だった。だから仕方がない。世渡り上手だけが楽しく生きられる社会だったのだ。僕は何も悪くない。息をしたくないと思ったってしょうがない。


 なのに、それなのに。息をしたくないと思ったらこんな地獄へ放り込まれて、罰を受けているだなんて。


 もしもそれが事実なら、僕は神を許せない。


 人間を不出来に作った神の怠惰が社会を壊した諸悪の根源であるくせに、いつまで人を裁ける立場にいると思い上がっているのか。


 全ての人に等しくハッピーエンドを与えろよ。

 真面目に生きる奴を救えよ。

 素直な人を泣かせるなよ。

 規律を守ることが普通であれよ。


 許せない、許せない、こんな世界が許せない。こんな今が許せない。こんな世界を作った神が許せない。


 乾いた唇を噛めば血が流れた。何度も舐めた僕の味。目尻から流れた涙が耳へ入るのは何回目だろう。数えるのなんてとうの昔にやめてしまった。


 死なせてくれ、殺してくれ。


 そんな願いすら叶わないのであれば、


「殺したいかい?」


 ふと、部屋に入っていた松明の光が遮られた。


 久しぶりに理解した言語は、叫びでも喚きでもない。こちらへの問いかけだ。


 一瞬、夢が覚めたのかと錯覚した。


 しかし顔を上げて見えたのは、松明の光を背にした、天使だったから。


 僕の悪夢は終わっていない。


「この言語で通じているだろう? ほら、もう一回聞くから、答えてくれよ」


 身長と変わらない大きさの翼を背中に生やして、天使が牢屋に入ってくる。鉄格子をするりと抜けて、まるでそこには何もないかのように笑って。


 身綺麗な衣装を纏い、長く細く編まれた三つ編みが向かって左側の肩口から前へ流されている。硬そうな靴を履いているのに一つも足音を立てない天使は、倒れたままの僕の前へしゃがみこんだ。


「この国の者を殺したいかい? 憐れな子羊」


 細い指が、痛んで伸びた僕の前髪を払う。目が合ったのは黄金色の瞳で、深い青色の髪は深海のようだ。


「たまにいるんだよ、君のように違う世界から来てしまう子羊が。しかもこの国に落ちるなんて最悪でしかない」


 温かな指先が僕の目尻を撫でる。その温度に緊張しっぱなしだった僕の皮膚は緩み、こぼれる涙が止まらなくなった。


「この国は、君たち子羊の悲鳴を求めているんだよ。子羊が上げる悲鳴の周波数が、この国の者達を活性化させるらしくてね。体力も魔力も、君達の悲鳴を聞けばみなぎってくる。生活を豊かにしてくれる子羊は良い玩具なのさ」


 枯れ枝みたいになった指先が地面を掻いた。天使が落とす言葉を一つ残さず拾おうと、意識を集中させながら。


「この世界には神がいるよ。世界を俯瞰して、空で胡坐をかいてる暇な存在。かの人は君の様子も見ていただろうに、救ってはくれない。でも、私のような使いを寄越して、選択肢を増やす事だけはしてくれる」


 土を掴んだ手に添えられたのは、一輪の花。天使の髪と同じ、深い青に花弁を染めた見知らぬ花。


 僕の頭を撫でた天使は、閉じることを忘れた瞼を指先で下ろさせてくれた。


「選ぶのは、君だよ」


 温もりが僕から離れ、立ち上がる気配がする。


 それを引き留めたくて顔を上げたけど、そこにはもう、誰もいなかった。


 松明の火が揺れている。


 冷たい牢を照らしている。


 残された花を掴んだ僕は、汚れた空気を吸い込んだ。


 ***


 天使がくれた花を布に隠して、今日もステージに立つ。


 今日も地獄が続いている。今日も地獄が広がっている。何度も挙がっては下ろされる手の数々を眺める僕は、腹の底でくすぶる熱を感じていた。


 僕らの悲鳴が好きな奴ら。自分達を満たす為だけに命を玩具にする奴ら。自分のことしか考えない、こちらの意思など見向きもしない、愚者の集団。


 コイツらが飽きるまで我慢すれば、僕は地獄とさよならが出来るのだろうか。

 ここで舌を噛み切れば、僕は自由になれるだろうか。


 いや、そんな選択間違ってる。


 どうして僕が我慢しなくてはいけないんだ。

 なんで僕が死を選ばなくてはいけないんだ。


 自分勝手なアイツらばかり楽しくて、自由で、玩具で遊べる環境だなんて。

 こちらの痛みを理解しない奴らの方が生き続けるだなんて。


 そんな理不尽、許せない。


 許してなどなるものか。


 僕と同じだけの痛みを感じろ。

 僕以上の苦痛にもがけ。

 生きたくないと、死にたいと、何度も何度も思ってみろ。


 手が挙がる。歓声が起こって、僕の服が引っ張られる。


 傷んだ髪を掴んだのは、僕を最初に殺した奴。


 戻ってきた。また僕の叫びを聞きに来た。傷を抉れば、よりよい悲鳴が聞こえるとでも期待しているのだろうか。


 もう痛いのは嫌だ。血なんて見たくない。暴力なんて消えてしまえ。


 穏やかな日常がいい。優しい日々がいい。特別なことなんてなくていい、普通に平和が欲しい。


 僕の道はどこへ続くのか。


 僕の人生は、ハッピーエンドにならないのか。


 布から落ちかけた花を見る。美しく瑞々しい花を掴めば、目の前に、花畑の光景が浮かんだから。


 あぁ、良いなぁ、あったかい景色だ。


 柔らかな日差しと綺麗な花々。眠たくなるような微睡みの時間。


 生きるなら、そんな光景の中で、生きていたい。


 花を握り締める。天使がくれ選択肢を、力いっぱい。


 何かしてくれるなら、さっさとしてくれ神様よ。


 渇いた唇がひび割れる。


 目尻から涙が落ちる。


 望む優しい光景が現実に上書きされそうになった、その時。


 手の中にあった花が、突如として巨大化した。


 恰幅の良い奴の背を越す程の大輪。太く鮮やかな緑の茎は、僕の右腕に巻き付いた。青い花弁は目の前の奴を見下ろす形で、大きく開く。


 と思えば、奴の頭が消えたから。


 閉じる花弁に巻き込まれ、そこにあったはずの頭が、無くなったから。


 周囲に撒き散らされたのは、青い花弁。


 奴の体から血潮が溢れることはなかった。代わりと言わんばかりに溢れた花弁は、濁流のように勢いがいい。


 裸足の爪先に生温い花弁が触れた。周りに座っていた奴らが聞き取れない言語を叫びながら走り始めた。


 青い花が奴らを追随する。


 茎をどこまでも伸ばし、背中を向けた奴らに食らいつく。


 青い花弁が舞った。撒き散らされた。床も壁も青一色で染められていく。


 赤を見飽きていた僕の視界が、鮮やかに変わった瞬間だ。


 青い花が会場を蹂躙する。しかし恰幅の良い奴らの息の根は直ぐに止めない。致命傷を与えて、動けないほど瀕死に状態で放置して、呻きがあらゆる方向から上がっている。


 僕がステージを見た瞬間、いつも牢屋で殴ってきた女の左半身がなくなった。


 鎖に繋がれた人々は動かない。青い花弁だらけになった会場に向けた目には、光が戻らないから。


 逃げる者も抵抗する者もいなくなった時、僕の足は青い花弁に浸っていた。


 花が鎖を壊してくれる。右腕に巻きついたままの茎は剥がれない。


 僕を見下ろした大輪は、次の命令を待つように花弁を傾けた。


「スッキリしたかい?」


 背後から声がする。振り返ると、翼を広げた天使が、倒れた肉塊の上に立っていた。


「その花は凄いだろう。君の中にある感情を養分に、君の感情のままに育ってくれる。穏やかであれば静かに咲き、悲しければそっと寄り添い、怒りがあればこの通り」


 両手を広げて天使は破顔する。青い花弁の海を一瞬だけ見た僕は、すぐに天使へ意識を戻した。


「君の目にはこの状況がどう映っているのかな。その花を返してくれた後に現実を見てご覧。まぁ、これだけ暴れさせたら君も疲れただろうし、一眠りした後でも、――」


 天使の首を大輪が千切る。


 悠々と喋っていた相手の首から花弁が飛び散る。


 見開かれた黄金色の瞳は、僕と目が合う前に花が食べてしまった。


 天使の体が青い海へ倒れ込む。美しい翼を青が彩る。


 深海の毛先を消した大輪は、また、僕の方へ戻ってきた。


「……終わるわけ、ないじゃん」


 久しぶりに、本当に久しぶりに、声を出す。言葉を落とす。悲鳴しか上げていなかった舌は少しばかり動かしにくかったけど、これから治していけるかな。


 天使だった奴を踏み越えて、僕は会場の扉を開ける。外にはまだ恰幅の良い連中がいたから、僕の感情は冷えを知らない。


「許さないよ」


 大きく震えた花が再び蹂躙を始める。この会場にいた奴らも、関係した奴らも、ここに生きる奴らも。等しく許してやるもんか。


 ねぇ天使。貴方は俺が想像していたよりもずっと普通の存在だったんだね。神々しいだけ。天使っていう生まれなだけ。僕の感情を読み違えて、怒りの矛先を勘違いして、ほいほいと神様の指示のまま花をくれたんだから。


 僕の感情が終わると思うな。この煮えたものに終わりがあるなどと思うな。


 真面目な奴が馬鹿を見る。素直な人が損をする。規律を重んじた者の首が絞められる。


 そんな世界が許せない。

 そんな世界にした奴らが許せない。


 僕は、真面目な人に優しくて、素直な人が得をして、規律を重んじた人が報われる世界がいいから。


 あたたかな昼下がりの、花畑みたいな世界にしたいから。


「……作ろう、花畑」


 青い花弁の絨毯を踏み越えて、美しく舞い散る青を目に焼きつける。


 それはとても、綺麗な光景だった。


 荒れた空気を浄化する、幻想の青。


 終わりのない感情が咲かせた青い花。燃え尽きる前に火種が増えて、燃え盛ってしまう僕の花。


 阿鼻叫喚の通りを歩く。青い花を撒き散らして。通りを鮮やかに染めていく。汚い世界を美しく彩っていく。


 あぁそうだ、今の僕にはできるんだ。


 世界を花畑に、変えることができるんだ。


 お腹が鳴った。何か食べたい。まずは水から。固くない食べ物も欲しい。


 パンみたいな物が並んだガラスのケースが目に入る。花の暴挙を背にして、ショーケースに映った僕を見る。


 見えたのは、黒くなくなった僕の目。黒目は白く染まり、瞳孔が青い大輪を描いている。


 傷んで伸びた髪も、こけた頬も、色が悪くなった肌も。この目があれば気にならない程に、僕の瞳は綺麗だった。


 振り返って、広がっていくのは青い海。生温く、鼻につく嫌な匂いなのに、見た目ばかりが綺麗な血潮。


 これは、花が僕に見せる夢なのだろう。


 綺麗な瞳を守るための、夢なのだろう。


 だったら僕は、その夢に浸っていよう。この夢を利用しよう。生きる為に、僕の感情が燃え続ける間、僕は夢に生きてやろう。あたたかな夢が、いつか現実になるように。


 青い花が僕の道を開く。


 裸足で僕は進んでいく。


 僕の人生を、ハッピーエンドにする為に。


 僕が大輪の奴隷と呼ばれ、血潮の魔女と共に旅をし始めるのは、まだ先の話。


「行くよ」


 僕の先に広がる道は、輝く陽光が照らしていた。


――――――――――――――――――――


真面目な人が馬鹿を見る世界なら、素直な人が泣いてしまう世界なら、いっそ壊してもいいじゃないか。


真面目で素直な人が、笑える世界にしたいじゃないか。


夢に溺れることを選んだ少年の道は、どこに続いているんでしょうね。


彼を見つけてくださって、ありがとうございました。

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