第5話 住めば都の温泉村
買い物が済んだアルクとスフィアは、村の広場を他愛もない会話をしながら歩く。
「ねえ、スフィアは昔、帝都に住んでたんだよね」
「そうだけど」
スフィアは7年ほど前に、レガルド帝国の帝都メディスからライス村へ引っ越してきた。それまではずっと帝都で暮らしていた。
「どんなところ?」
「どんなって…」
急に帝都の事を聞いてくるアルクに、スフィアは先ほどのやり取りを思い出す。
(まあ確かに帝都は帝国の象徴よね)
「…そうねえ、大きなお屋敷がたくさんあるわ。見渡す限りお屋敷よ」
「ええっ?」
スフィアの住んでいた屋敷は、帝都の貴族街にあった。
帝都の中心部にほど近く、広い通りに大きな庭のある邸宅が並び、普通の市民は立ち入ることができない場所だ。
「帝都ってどのくらい広い? キルハの町に比べて」
「キルハの町って…」
隣町のキルハの人口は約3000人。確かに人口約200人のライス村よりはるかに大きいが、帝都とはまるで比較の対象にならない。
「えーっと、デセイルの都を覚えてる?」
「すごく大きいよね」
アルクが見たことがある都市は、レーヴェル侯爵領の都デセイルくらいだ。
デセイルの人口は約5万人で、この辺境では一番大きな都市に違いない。
だが、帝都メディスの人口は70万人以上。
「帝都の大きさは、デセイルの10倍以上あるわよ」
「……」
何倍どころではなかったので、アルクは言葉を失う。
大きなスレイ湖のほとりに広がる湖都デセイル。
そのスレイ湖をデセイルで埋めていっても、10倍にも届かないだろう。
アルクには帝都の大きさが想像できなかった。
「見渡す限り一面が帝都ね。帝都の中央北には皇帝のお城があって、はるか遠くには城壁。高い塔もあちこちにあるのよ」
「帝都って、凄いんだね…」
「アルクも一度は帝都に行ってみないとね。きっと良い経験になるわ」
集落は遠くなり、二人は野原の道を並んで進む。
やがて木々の向こうに、スフィアの住むアゼルフォート家の屋敷が見え始めた。
「…スフィアはこの村に来て良かったの?」
「良かったわよ」
アルクからの質問にスフィアは即答する。アルクは思わずスフィアの方を振り向いた。
スフィアはそんなアルクを横目でちらりと見ると、そのまま言葉を続ける。
「今のお家の方が眺めも良いし、この村の方が帝都より全然快適よ」
「えっ?」
「この村は凄いのよ。温泉はいいわね」
帝国では入浴の習慣がある。衛生的な理由はもちろん瘴気を祓い身を清めるという意味もあり、帝国も推奨していた。
だが湯を沸かすにも燃料が必要だし、それなりの規模の町でなければ銭湯はない。
湯量の豊富な温泉があるライス村では、そのような負担はまったく無かった。
「だいたい全部の家に水道と温泉が引いてあるなんて、帝都でも考えられないわ」
「そういうものなの?」
「…そういうものなのよ」
帝都で個々に上下水道が整備されているのは、貴族街や高級邸宅街など一部の地域だけだ。
それ以外の場所も衛生面から下水道の敷設はされてはいるが、水は共同の水汲み場から運ばなくてはならない。
「この村が暮らしやすいのは、ディアスさんのおかげね」
ライス村が快適で住みやすいのは、ディアスの功績だった。
村の場所は、源泉の位置を考慮してディアスが選んだ。
山間の開けた高台に位置し、全体的に非常になだらかな傾斜地になっている。
もちろん村の家は傾かないように水平器で厳密に測って建てられていた。
広場、会館、各家の配置も考えられており、計画的に村は作られた。
水道は太い配水管が村をいくつか通してあって、そこから各家に給水されている。温泉も同じだ。
また、水を流すための下水道もちゃんと埋設されていた。
そのまま川へ流すのではなく、村の下の森の中には浄化槽もあった。
これらは、すべてディアスが設計した。
「村長もよく言ってるよ。師匠と出会ったから、今の村があるって。でも村長がその話を始めると長くて…」
「気持ちは分かるわ。ディアスさんがいたから村長の夢が叶ったんだし」
オルゲンは時々、懐かしむように昔の事をアルクへ語り出す。
ディアスへの感謝の気持ちを自分にも知ってもらいたいのかも……と思うとアルクも無下にできず、話に付き合うのだった。
不思議な力と様々な知識や技術を持つディアス。
この謎の男とオルゲンたちの出会いは、温泉を見つける前にまで遡る──
温泉を求め旅をするオルゲンたちは、話し合って決まった「しっとりとして透明な湯」を探して帝国の辺境までやってきた。
白竜川の向こう側には、いくつもの隠し湯があるとの噂を聞いたからだ。
そして白竜川を越えて探索をしている時、オルゲンたちはディアスと出会う。
この辺りでは珍しい黒髪の男で、長い髪を後頭部で纏めていた。
スッと通った鼻筋に目力があり、190cmを超える長身で体格も良い。だが不思議と威圧感はない。
それでも魔物の出る危険な森の中を一人で彷徨う男……オルゲンたちも最初は訝しんだ。
とはいえ温泉を見つけるためには一人でも協力者が欲しい。
オルゲンが自分たちの経緯を話し協力を申し出ると、ディアスは快く引き受けた。
オルゲンたちは、すぐにディアスが普通ではないことに気付く。
疲れ知らずの体力、豊富な知識、そして何よりも感性が際立っていた。
勘が良いなどというレベルではない。天候、動物の動き、水場の位置、魔物の襲撃……すべてディアスの言う通りだった。
まるで天から見ているような不思議な力。
そんなディアスの力に助けられ、オルゲンたちは遂に温泉を見つけたのだった。
やがて村づくりが始まる。
森を切り開いて村を作る……開墾、整地、基礎作り、資材となる木材、石材の切り出し、重労働はいくらでもある。先の見えない困難な作業だった。
それでも同じ目的のために力を合わせて働くうちにお互いの気心も知れ、信頼関係も生まれる。
オルゲンたちが早く村で暮らせるように、ディアスもあまり力を隠さなくなった。
何百kgもあるような資材をたやすく運び、それを光る短剣一本で器用に加工する。
いや、器用どころではない。測ったように正確で、もはや人間業ではなかった。
それをオルゲンたちが組み上げて形にしていく。
最初の小さな集落ができるまで、一月も掛からなかった。
ディアスは村に必要な施設も次々と建てる。
屋根の付いた作業場、貯蔵庫、資材倉庫…
だがそれだけでは済まず、川幅200m以上はある白竜川には、いつの間にか立派な石造りの橋まで架かっていた。
オルゲンたちは、目の前の光景が信じられなかった。
幻かと疑い、文字通り叩いて渡ったほどだ。
流石にこれは、どうやってごまかすか真剣に話し合われた。
仕方ないので今まで使っていた道の一部を封鎖し、新しい別の道を通す。その間に旧道で橋の工事を行っていたことにした。
橋の存在が公になったのは、村ができてから3年後の事だった。
もちろん事情を知る関係者は橋を渡って行き来していた。
ディアスは自分の事を伏せ語らなかったが、その不思議な力と深い知識から、オルゲンたちはディアスは古代人の末裔ではないかと思うようになる。
世界が一度閉じる前、人類は高度な文明を築き、その繁栄は夜空に輝く月にまで届いたとされている。
恐ろしい天変地異により、その文明は滅んだ。
だが古の業は失われてしまった訳ではなく、今でもそれを伝える存在がいる。
【古代人】──人類の歴史を記した〝世歴記〟にも、古代人の記述はある。
長い寿命を持ち、不思議な力を使う。現在の人類を超えた力を持つ、超人だと伝えられていた。
ディアスはその知識でも猛威を振るう。
農業、養蜂、醸造、製紙、ガラスの製法、金属の精錬、鋳造、鍛冶……魔導合金の素材も製法も知っていた。
今では大抵必要な物は村だけで賄える。
ディアスの存在がなくては、今のライス村はなかった。
村人たちはディアスの正体をうっすらと察しつつも、静かに暮らしたいというディアスの意思を尊重し、余計な事は言わない。
帝国に知られたら面倒な事になるのは分かっていたからだ。
オルゲンたちのディアスへの恩は、計り知れないほど大きい──
そんなディアスの逸話は、村の七不思議として時々語られている。
特に白竜川に架かる橋は一番の謎だった。
「ねえ、アルクはディアスさんがどうやって橋を架けたか知ってる?」
「まだ秘密だって教えてくれない。ただ石を切り出した場所が川の下流の方にあって、それは見せてもらったよ」
「じゃあ魔法で架けたわけじゃないのね」
「師匠もさすがにそんな事はできないと思うよ…」
魔物が出る危険な土地故に、ライス村を訪れる人は稀だ。
だが村は安全で過ごしやすく、ゆっくりと暮らすのならこれ以上の環境はないだろう。
住んでみないと判らないライス村。
そんな温泉村に、スフィアたちアゼルフォート一家は引っ越して来たのだった。
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