第5話 アルブレヒトの遭遇

 悪魔界の刑務所のひとつ。重厚な鉄の扉が軋む音を立てて開く。悪魔ファルネウスは、付き人のインクを従え、薄暗い廊下を進んでいく。

「先生、彼はそれほどの大物なのですか?」

 小柄なインクが後ろから小声で尋ねる。

「彼は魂の深淵に触れた男だ。会っておいて損はない」

 インクは律儀に彼の台詞をメモに書き込む。

 ファルネウスは罪人に取材をするのが常であった。冷ややかな笑みを浮かべる。「芸術は時に最も暗い場所から生まれるものだ」というのが彼の哲学だ。人間界で連続殺人を犯した囚人の伝記はベストセラーになった。

 彼らは最奥の独房に到着する。そこには、かつて人間界で暴れまわった悪魔、オットーが収監されていた。

「やあ、ファルネウス殿」オットーが薄笑いを浮かべる。「私にも作家の取材が入るようになったか、出世したのものだ。新しい本のネタ探しか?」

 ファルネウスは優雅に頷く。「まあ、そのようなものだ。しかし、昨今下らない三文小説ばかりが幅を利かせている。リアリティこそ、神髄だというのに、そこで君の経験は非常に興味深い」

 二人は人間界での出来事について語り合う。オットーの企みや、それがどのように失敗したかを。

 話が終わりに近づいたとき、オットーが真剣な表情で言った。

「なあ、ファルネウスよ。人間界に行くなら、一つ忠告がある。エレオノーラには気をつけろ」

 ファルネウスは眉を寄せる。

「エレオノーラ?リッツェンシュタインの跡取り娘か」

 オットーは暗い笑みを浮かべる。

「そう。彼女は予想以上に人間界に溶け込んでいる。それに天使を味方につけた反逆者だ。厄介な存在だぞ」

 ファルネウスは沈思黙考する。

「興味深い……ありがとう、参考にさせてもらおう」

 彼は立ち上がり、去り際にオットーを振り返る。

「良い物語を書けそうだ。楽しみにしていてくれ」

 重い扉が閉まる音が響く中、ファルネウスの目に野心的な光が宿る。

「ふん、私は敵陣に中央突破するような戦い方はしない。これからは情報戦の時代だよ、オットー君」

 ファルネウスは葉巻に火をつけ、煙の輪を吐いた。

「インク、旅の準備だ」

 ファルネウスの背後で重い施錠の音が響いた。


 アルブレヒトは重い足取りで川辺を歩いていた。もう家に着かないのではないかと思うほど、歩みは遅かった。頭の中では、先ほどのできたばかりの書籍商の、自分より若い徒弟に言われた言葉が繰り返し響いていた。

「こんな物語、誰が読むんですか?もっと分かりやすく、面白く書けませんか?」

 彼は原稿の売り込みのために新調した羽付きのフェルトハットを脱ぐと、太陽を仰いだ。自分の職場の印刷所で着ている、疲れたワイシャツとつなぎズボンをごまかすためのスカーフも乱暴にとって捨てた。

 彼は苦々しい表情で手の中の原稿を見つめた。何ヶ月もかけて書いたものが、ただのゴミのように思えてきた。突然の衝動に駆られ、アルブレヒトは原稿をヴェーザー川に向かって投げ捨てた。

「くそっ!」

 原稿は風に舞い、ゆっくりと水面に落ちていった。羊皮紙に水が広がってゆく。

 その瞬間、驚くべきことが起こった。水面から一人の紳士が現れたのだ。シルクハットをかぶり、黒のジャケットを着た長身の中年男性。ステッキを持ち、優雅な立ち振る舞いで水の上に立っている。

 紳士は軽やかに水面を歩き、水に浮かぶ原稿を全て拾い上げた。そして、岸に上がるとアルブレヒトの元へと近づいてきた。

「これは、悪くない作品だと思うがね。捨てるにはもったいない」

 紳士は微笑みながら原稿を彼に返した。水の濡れはなくなっている。

 アルブレヒトは言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすばかりだった。

 紳士は続けた。

「私も文学を志す者として、君の気持ちはよくわかる。無知な人間に理解されないことほど腹立たしいものはない。彼らは何も生み出せないのに、批判だけはしっかりする」

 彼は優雅にアルブレヒトの甲に手を重ねた。

「才能ある者が報われない世の中とは、なんと残酷なものか」

 アルブレヒトは震える手で原稿を受け取った。

「あなたは……誰なんです?」

 紳士は軽く帽子に手をやり、にやりと笑った。

「私?ただの文学愛好家さ。君の物語に興味を持った。もしよろしければ、他の作品も読ませてくれないか」

 紳士はアルブレヒトの周りをゆっくりと歩き始めた。その動きは優雅で、まるで彼を品定めするかのようだった。

「君の主人公は……興味深いね。完璧なヒーローではない。欠点があり、葛藤している」

 アルブレヒトは驚いて目を見開いた。

「え?どうして内容を……」困惑しつつも、興味をそそられた。「でも、書籍商は……」

「彼らに何がわかる?」紳士は鋭く言い放った。「真の芸術は、時に理解されるまでに時間がかかる。だが、それこそが価値あるものだ」

 紳士はアルブレヒトの目をじっと見つめた。

「君には才能がある。その才能を開花させ、世界を驚かせる準備はできているかい?」

 アルブレヒトは、先ほど目の前で起こった超自然的な出来事を不思議なほどあっさりと受け入れていた。ファルネウスが水面を歩いたことなど、まるで幻だったかのように彼の記憶から薄れていった。代わりに、この紳士の言葉が彼の心を強く捉えていた。

「あなたの言葉……本当にそう思われますか?」

 アルブレヒトは、希望と疑念が入り混じった表情で尋ねた。

 ファルネウスは満足げに微笑んだ。

「もちろんだ。実は、私は才能ある若い芸術家を支援することに興味があってね」

 アルブレヒトの目が大きく見開いた。

「まさか……パトロンとして?」

「そう言ってもいいだろう」ファルネウスは優雅に頷いた。「私の名はファルネウス。芸術や文学に造詣が深く、新たな才能を見出すことに喜びを感じる者だ」

 彼は懐から名刺を取り出し、アルブレヒトに差し出した。

「明日の午後、この住所に来てくれないか?君の才能について、もっと詳しく話し合いたい」

 アルブレヒトは震える手で名刺を受け取った。初めて触れる高級な紙に金色で刻まれた文字が、夕日に輝いていた。

「は、はい!ぜひ伺います!」

 アルブレヒトは興奮で声を震わせながら答えた。

 ファルネウスは満足げに微笑み、帽子に手をやって軽く会釈した。

「では、明日を楽しみにしているよ」

 そう言うと、彼はゆっくりと立ち去っていった。やがて彼が陽炎の中に融けてゆく。

「種は蒔いた。あとはどのような花を咲かすかだ。物語の作り方は心得ている」

 ファルネウスは夕食とワインを楽しみにしながら、ステッキを弄んだ。

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