第42話 床を濡らす君を通り抜けたスポーツドリンク



    ――弱くなるならダメだよ?――

 



 瞬間、瑠璃乃の視界は通常の色を取り戻し、鼓動は消え失せた。


 全く予期していなかった返答に、瑠璃乃は瞬き一つせずに永遠とわの顔を確認する。


 まるで戦慄おののいているような瑠璃乃の変化に、永遠は動揺した。


 パートナーの優しさを守れなくなってしまうかもしれない。


 永遠を信じていない訳がない。


 ただ今とは違う存在になった時、今と同じように彼を支え、様々に迫る脅威から彼を守れるのか? それが確信できない。


 もし弱くなった場合、拒まれるのではないか。

 正体は分からないが強烈にこびり付いているイメージの中の誰かに拒絶されたように、永遠に嫌われる恐怖に瑠璃乃は震え上がる。


 恐る恐る永遠の顔を改めて窺う瑠璃乃は彼と目が合い、いつも通りの、悪く言えば間の抜けたような顔を見て安心を得ることが出来た。


 彼の言った言葉ではない。

 自分の心が勝手に放ったことだったのだと理解すると、瑠璃乃は堪らないほど安堵した。


 だが、心の凪はすぐに去ると直後に嵐に姿を変え、瑠璃乃に覚悟を促すように訴えかけた。


 いちばん守りたいものは何なのか?


 そんなこと、はじめから分かっていたことだった。


 瑠璃乃は心を正し、構え直す。


 自分のわがままを通すより優先すべきことがある。

 それが自分の幸せに繋がっている。

 だから自分の選択は間違っていない。

 瑠璃乃は確信する。

 しようとしている。


 だが、自分を慮ってくれる人にどうやってそう伝えればいいのか。


「……え、えへへ~~……」


 だから、無理ありげに笑うしかできないでいた。


 その笑顔が見る者にどれだけ寂しげに映っているのかも分からないままに。


 永遠も富美子も胸が締め付けられそうになる。


「…………そうだっ! 食べれな……じゃなくって、ダイエット中ならカロリーゼロのジュースならいいんじゃないかな⁉ もしかしたら体も変わってるかもしれないし、予行練習みたいにさ⁉ ……いや、あのっ……胃を! 断食明けの胃を慣らすみたいに……」


 今の空気を破らなければと、使命感にも似たモノに駆られた永遠が提案する。


「そうね! せめてジュースだけでも飲んでみたらどうかしら?」


 富美子に悪気は無い。

 ただ、瑠璃乃の無理ありげな笑顔を見ていると堪らず、息子に賛同し、スリッパをパタパタ鳴らして台所に向かい、常温の常備されている新品のスポーツドリンクをコップに注ぐと踵を返し、瑠璃乃の前に差し出した。


 勧められ、期待に満ちた目で見つめられると、瑠璃乃は困った様子を悟られまいと顔に力を入れる。


 食事ができない事を不幸だと思った事はない。

 そうやって生まれたのだから当たり前に受け容れている。

 ただ、そのせいで優しい人達に気を遣わせてしまうのが忍びなかった。


       ――もしかして――


 永遠と富美子に見守られていると、あるかもしれない可能性が瑠璃乃の頭を過ぎった。


 これを永遠達のように口にして飲み込めば、ちゃんと体の中に入っていくかもしれない。


 淡い、もしかしたらの可能性。


 瑠璃乃はギュッと目を閉じるとコップを両手で包み、飲み込むという行為に挑戦する。


 コップは口に触れ、傾けられたスポーツドリンクが瑠璃乃の中へ流れ込んでいく。

 のどを鳴らすという現象も試みる。

 これで間違ってないはずだ。飲み込むという行為はこれで良いはずだ。


 出来たのではないか? 

 飲み込めたのではないか? 

 喜ぶべき結果になったのではと瑠璃乃が笑おうとしたのも束の間、富美子が瑠璃乃の変化を感じ取った。

 彼女のというよりも他の。


 水分が椅子を伝い、床を大きく濡らしていたのだ。


 永遠もそれに気付いて言葉を失った。


 富美子も当惑する。

 体験したことの無いことだったからだ。


 粗相をしたのだろうか? 

 だが無色透明で匂いも上ってこない。

 何が起こったのか? 


 富美子は疑問が浮かんでもすぐに振り払い、瑠璃乃を気遣って、永遠を遠ざけるように彼にタオルを取ってくるように促した。


 気を利かせてくれた母に詫びつつ、永遠は、廊下に出ると、あえて歩いて向かった。


「瑠璃乃ちゃん、大丈夫?」


 息子が行ったのを確認すると、台所棚にある折りたたまれた布巾を取り出し、瑠璃乃に駆け寄って心配そうに尋ねた。


「あっ……えっ……えへへ~……ごめんなさい。ちょっと、こぼしちゃって……」


 飲み込んだと思った。

 成功した。

 これなら今のままで〝いっしょ〟が出来る。


 だが飲み下し、自分の臀部が濡れていく感触を覚える頃になって、瑠璃乃は迫ってきた諦念を受け容れるしかなくなった。


 味も感じることができなかった。


 だが、ただ絶望することだけはしてはいけない。 いっしょに食事が出来なくても、いっしょになら居られるからと、瑠璃乃はすぐに切り替えて笑顔に努める。


 床を拭き終わり、富美子が上を向くと、瑠璃乃は立ち上がって富美子に向き直り、眉を寄せて申し訳なさそうに笑っていた。


 心配させないように。

 そうやって努めた笑顔は、見る者にとってはやはり不自然で、富美子は深く訊くことが出来なくなった。


「……ごめんなさい」


 眉間にしわを寄せて笑いながらの瑠璃乃の呟くような謝罪に、


「いいのよ、いいのよ。零れちゃったならしょうがないものね。ささっ。女の子が体を冷やしちゃ大変だから拭きましょうね」


 そう言って笑いかけると、富美子は、瑠璃乃の濡れたスカートや下着を優しく叩くように拭いていく。


「……瑠璃乃ちゃん」


 柔らかい手つきで布巾に水を吸わせながら富美子が呼びかける。

 小首を傾げる瑠璃乃に、


「ごめんなさいね? 次は食べやすくて美味しいもの作ってみるから、今は許して?」


 手を止めず、頬笑みながら富美子は謝罪する。


 訳を話さず、話せず。

 いきなり永遠のパートナーであるという宣言を受け容れ、許してくれた富美子という存在。

 今日もまた今、瑠璃乃は彼女に救われていた。


 全て受け止め、包み込んでくれそうな富美子に、瑠璃乃の胸は温もりに満たされていく。


 永遠から与えられるものとは違っても、それは瑠璃乃に大きな安らぎを与えていた。


 ただ同時に、それ以上に涙が出るほど申し訳なくて、瑠璃乃はやはり困ったように無理矢理笑った。





 タオルを取りに走っている永遠は母に感謝しながら、自分の軽はずみな行為を猛烈に恥じていた。


 飲み物ぐらいならどうにかなるだろう。

 そんな心持ちだったのかもしれない。

 軽率と言わざるを得ない。

 よく考えもせず、彼女のためとは言え咄嗟に出た言葉から来た今現在。

 どれだけ彼女を傷付けたのか。


「バカヤロウバカヤロウ……僕の馬鹿野郎……っ‼」


 永遠は静かに叫び、後悔した。


 バスタオルの置いてある洗面所に着いて、鏡に映る自分の顔を覗くと強張り、青くなっていた。


 このままどんな顔で戻ればいいのか。


 決まりが悪く、ここに一人で誰もいないというのに落ち着かない様子で部屋中を見回して迷っていると、台所の方からエイオンベート出現の報が鳴り響いているのを永遠の耳が拾った。






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