第35話 鼓動は消え失せ、いつも通りの、元通りの彼女が悲しげな笑顔でそこにいた

 

 盗み聞きするつもりは無かった。


 ただ、自分のことについて最愛の彼が話をしている。彼はとても真剣なようで居間に入っていくのが躊躇われた……。


 ……永遠の話を聴いた瑠璃乃の心を今、多幸感が占めている。


 自分の存在を肯定してくれるばかりか、食べられないことを苦しみととり、気遣ってくれている。それがとても、ありがたかった。


 富美子に渡された茶菓子の詰まった木製菓子鉢を抱えながら、この中に入っているものを永遠といっしょに食べて美味しいと感じられたら、どんなに楽しいだろう。


 いっしょに喜んでくれるに違いない。


 そうやって想像するだけで幸せだった。


 瑠璃乃は声が漏れないように気をつけて目を引き絞るようにして笑った。


 だが同時に、それは今の自分では絶対にできないことなのだということも知っていた。


 それを思うと永遠への申し訳なさと自分への口惜しさも大きく感じた。


 できることなら人間になって、生き物になって彼と真の共感を得たい。




      ――人間になりたい――




 そう強く望んだ瑠璃乃の体が淡い輝きを帯び始める。


 何事かと、落とさないように片手で菓子鉢を抱え込み、もう片方の手で自分の体を確かめるように撫でてみる。


 体を縁取るように薄桃色の粒子が滲み出て、霧のようになって空気に溶け込み、上に向かって消えていく。

 この光景は瑠璃乃にとっては慣れたものでもある。

 ただ、この現象は目を凝らすなど、集中して視て初めて意識に上り、目に映るようなものだった。


 しかし、今は何も意識していないのに自分の体から濃い桃色の粒子が漏れ出るように立ち上っている。

 それだけ通常とは比較できないほどの濃度と量だという事を意味していた。


 エイオンベートとの戦闘や、体内のエルイオンが足りなくなった時、似たような現象を伴って体が構成できなくなってしまうことがあるものだから、瑠璃乃は少し動揺する。


 永遠のところへ駆けつけようにも真剣な話し合いを邪魔してはいけないと遠慮してしまう。 

 

 だが、自分一人では対応策も解決策も分からない。


 不安になり、無意識に菓子鉢を両腕で抱きしめると、瑠璃乃の耳が今まで聞いたことの無い音を拾った。


 トクン――トクン――と。規則正しい調だった。


 それが鼓動だとすぐには分からず、瑠璃乃は首を傾げる。


 規則正しいリズムは次第にテンポを速め、全身を這うように駆け巡っていくのが分かる。


 普通の人には血というものが通っていて、それが命の印になる。

 

 その情報を知っていた瑠璃乃は、全身から滲み出る暖かく心地良い流れを感じると直感した。



      ――人間になれる――



 どんな事象が作用してそうなっているかは分からない。

 ただ、瑠璃乃の体が人間としての機能を現すために身体構成を生物に変化させているのは確かだった。


 これで永遠と同じように物を食べ、眠り、いっしょに笑い合える。

 瑠璃乃が大きな期待に胸を躍らせていると、ふいに彼女の思考に博士の一言を過る。



  ――調脳力にも影響が出るかもしれない――



 瑠璃乃の目が見開かれる。


 自分の第一義は永遠の笑顔。

 彼の心から不安や恐れを取り除くこと。

 それがもしかしたら難しくなるかもしれない。

 瑠璃乃は何よりもそれを恐れた。


 彼のために人間になりたい。

 だが、彼のためには人間ではできないこともある。


 揺りかごの中で眠っていた時に見た夢。

 いつも誰かに向かって怒っている自分。

 それを望まれていたから、もどかしくても出来たこと。

 誰かは分からないが、その誰かに望まれた不変であるべき天邪鬼な自分。


 林本永遠という最愛に望まれた、包み込むような優しさを持った女性像。


 その真逆にあるかのような、夢の中で望まれ、気付けば出てきてしまう本音に反した天邪鬼を実行しなければならない今の自分の在り方に瑠璃乃は一時、苦しんだ。


 だが、苦しんだ末に、林本永遠は瑠璃乃が自分で決めた自分でいてくれるのが一番うれしいと伝えた。

 その言葉は、瑠璃乃の中から二律背反でいるような苦しみを取り除いた。


 過去のことは分からない。

 けれど、最愛が望んでくれるのなら、自分は自分のありたいように、いたい自分でいようと瑠璃乃は自由を手に入れた。


 だから。

 

 永遠なら、自由をくれたパートナーなら自分の選択を祝福してくれるかもしれない。


 ただ、それを選んだら彼を守れなくなるかもしれない。


 嫌われるかもしれない。


 目を伏せ、唇を巻き込んで苦悶する瑠璃乃の一番大きな恐れ。


 その恐怖を思った時、彼女は霞んでぼやけた、だが強いイメージを脳裏に視た。


 顔も分からない誰かに〝うざい〟の一言で激しく拒絶されているイメージを。


 瑠璃乃自身は永遠と出会って目覚めるまでの記憶を失っている。

 あえて蓋をしたというほうが正しい。 

 顔も分からない誰かが前パートナーであるとは思いもしない。


 だが、理解できていなくても、それが記憶であると分からなくても、瑠璃乃は胸が痛かった。

 イメージだけでもこんなに苦しいのだ。

 その誰かはきっと、自分にとって大切な人なのかもしれないと瑠璃乃は想像する。


 そんな想像の中の不確かな誰かに嫌われただけでもこんなに辛い。

 

 ならば最愛の永遠に拒絶されたら自分は生きていけない。


 確かな人間となって喜びを共にすることを選ぶか。


 共感を捨て去り、人間とは異なる存在のままペネトレーターを支え続けることを選ぶか。


 苦悩する瑠璃乃の意思とは関係なく……いや、むしろ彼女の本心を汲み取っているのか鼓動が大きく解き放たれ、全身を駆け巡る脈動を伴って生物に変貌を遂げようとしていた。


 このままなら人間になれる。

 このままなら人間になってしまう。


 自分はどうすればいいのか。

 どうすれば永遠にとっての最愛になれるのか。


 瑠璃乃は目を力一杯閉じて考える。


 すぐに答えは出た。


 最初から決まっていたのだ。


 ただ、それを選べるほど、自分を第一に考えられなかった。


 瑠璃乃は悲壮な面持ちで、無理矢理笑う。


 彼女から立ち上っていたエルイオンの光と、鼓動は消え失せ、いつも通りの、元通りの彼女が悲しげな笑顔でそこにいた。





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