第三章 床を濡らす君を通り抜けたスポーツドリンク
第29話 見知った天井
目を開けると見慣れた天井の木目が目に入った。
目覚めた
意識が戻っても、頭はボーっとなってハッキリと物事を考えることができない。思考がまとまらない。
だから仰向けのまま、今は彼にとっての――ひきこもりにとっての――いつもの朝なのだと錯覚して窓に目を向ける。
少し開いたカーテンの隙間から光は入ってこない。
(今日は天気悪いのかな?)
そう思いながら何気なく壁掛け時計に目を移すと、針は6時を指していた。
(……え?)
それを見て、ようやく永遠の頭に血が巡り始め、今がいつもの今ではないことを理解させた。
(そっ、そうだ! 50円もらってから僕は……)
記憶も巡ってきて、自分が何故この時間にベッドで寝ているのか瞬時に思い出すと、上半身を起こして部屋を見回す。
反射的に瑠璃乃を探すが部屋にはいない。
いままでのことは全部夢だったじゃないかという不安にも駆り立てられ、永遠はまだふらつく足で一階を目指す。
風邪の時のような怠さを背負いながら一階まで下りてくると、台所の方から良い匂いがしてくる。
台所に足を向けると、富美子が鼻歌交じりに晩御飯をこしらえていた。
ここにはいない。
でも母なら何か知っているだろうと、永遠は富美子の背中に話しかけた。
「あの……母さん?」
「あっ、永遠。起きて平気なの?」
「う、うん……」
「酷い寝不足だったのね。気付かなかったわ。でもダメよ? 瑠璃乃ちゃんがいて嬉しいのは分かるけど、ちゃんと寝なきゃ」
そういう事にしてくれてあるんだなと永遠はすぐに理解した。倒れている理由としては微妙に納得しかねる理由でも、永遠はそれはさて置く事を選ぶ。
「……あははっ、そうだね。……ところで瑠璃乃は?」
「瑠璃乃ちゃんね、何だかサポーターとしての調整がなんとかかんとかで、会社から来た大きな車に居るわよ」
「調整? 車?」
「あ、車は家の前に停まってるわよ」
「……そっか」
永遠はホッと息を吐き出した。
(良かった。いなくなっちゃったんじゃないんだな)
「すぐ終わるって会社の人も言ってたし、瑠璃乃ちゃんならすぐに戻ってくると思うから、それまでにお風呂入ったら? もうすぐ晩ご飯できるから」
息子の心配を見通していたのか、富美子が鍋をかき回しながら言った。
「うん。わかった」
風呂に浸かって落ち着いて考えたいこともある。
永遠は富美子が言うように風呂へ向かうことにした。
ただその前に一階にあるタンスに向かう。
永遠の部屋に洋服ダンスの類いは無い。ひきこもりの彼に服は必要なかった。
永遠の場合、おしゃれをしようとすると「誰に見せるでもないのに何かっこつけてるの?」と激しい空虚感と虚しさに苛まれ、年中ジャージが基本。夏場になるとTシャツにハーフパンツだけで過ごしていた。
だが今日からは違う。今まで通りという訳にはいかない。
ただ服はジャージしかない。どうするべきかと悩みながらタンスを引くと、見慣れない服が見て取れた。
それはとても無難で当たり障りのないもので、永遠の年代に相応しい白のパーカーと青のスキニーパンツだった。
(こんなのあったっけ?)
首をかしげながらとりあえず服を取ると、袖を通してみる。
着てみて永遠は驚いた。サイズが仕立てたようにピッタリだったからだ。
(3年前より僕も大きくなった……3センチぐらい。体重も増えた……主にぜい肉。昔の服が着られる訳ない。じゃあ何で……)
真っ先に思いついた可能性に、永遠は胸が締め付けられる思いがした。
何となく永遠は悟った。
母が用意してくれていたのだと。
いつでも家から出られる準備をしておいてくれたのだと。
社会の一員に復帰するという息子の望みを理解しつつも叶えてやることはできない歯痒さ。
子のことを誰よりも理解しているからこそ、励ますことも背中を押すことも出来ず、ただ息子の心の傷が癒えるのを待つことしかできないもどかしさ。
ならばせめて服ぐらいは用意しておこう。
慣れない外で挙動不審になっても浮かないよう、普通の少年に見える普通の装いだけでも用意しておいてやろう。
様々な母の想いを想像すると、永遠は申し訳なさと情けなさで目鼻の奥に痛みを覚えた。
それを堪えて鼻をすすると、永遠は気分が沈み込んでいく前に改めてパーカーに目を落とす。
サイズは目測で、ほぼ当て推量だったが、子供を毎日見守る母の目に狂いはないようで、こうして永遠は適切なサイズの服に袖を通すことが出来ていた。
きっと昨日、瑠璃乃と出掛けた際に服のことを伝えられなかったのは、母のうっかりなのだろうと推測してから、永遠は台所の富美子に向かって小さく一言お礼を言った。
母のためにも自分のためにも、そして瑠璃乃のためにも、これからはなるべく前向きに努めようと姿勢を正し、試着したパーカーは脱いでタンスにしまい、着慣れた寝間着を持って風呂を目指すのだった。
「ただいま~!」
ガラガラと玄関の引き戸を勢いよく開け放ち、瑠璃乃が声を張り上げた。
「おかえりなさ~い」
瑠璃乃の元気な声に、富美子が台所の暖簾からヒョコッと顔を出し、少し離れた瑠璃乃に少し声を大きくして応えた。
「調整? ……は済んだの?」
少し心配の覗く様子で富美子が問う。
「はい! ちょっと診てもらうだけだから楽ちんポンでした!」
「そう。よく分からないけど、楽ちんポンなら良かったわ~。ところで瑠璃乃ちゃん。会社の人はまだ外に居るのかしら?」
「はい。まだ車の中でピコピコしてます」
「そうなの。じゃあこれから永遠がお世話になることだし、ちょっと挨拶させてもらおうかしら」
そう言って富美子は台所から玄関まで小走りに駆けてきて、玄関の石張りに降りると床に置いてある段ボールの中からイチゴの詰まった袋を取り出した。
「あ、すぐにうがが……うかがが……うが?」
伝えたいことが上手く伝えられなくて、首を傾げてしまった瑠璃乃に富美子が助け船を出す。
「伺います?」
「そう! うかがいますって伝えておいてって頼まれたんだった」
「あら、そうなの? じゃあ、ここで待ってた方がいいかしら?」
「うん! すぐ来ると思います」
快活に言う瑠璃乃とのやりとりがおかしくもあり、富美子は穏やかな笑顔を湛えていた。
「じゃあ、わたし、永遠のとこに行ってきますね!」
瑠璃乃が上がり端に背を向けて丁寧でも勢い良く靴を脱ぐでいると、
「あ、永遠なら、さっき起きてきたわよ?」
「そうなんですか⁉」
「うん。瑠璃乃ちゃんが行ってから少しして下りてきたわ。寝不足は治ったみたいだったわよ」
「よかった~~……」
気掛かりがスッと取れた瑠璃乃は安堵の息を吐く。
富美子はまた嬉しくなる。
こんなにも息子を心配してくれる人がいることが、また彼女の笑顔に磨きを掛ける。
「あ、そうだ。丁度良いことだし、瑠璃乃ちゃん、あの子の背中でも流してあげたらどうかしら?」
「流す?」
「ええ。あの子、今お風呂に行ってるから」
「お風呂に?」
「あの子も大喜びで、パートナーの絆が深まること間違いなしよ? うふふ♪」
「そうなんですか? じゃあ行ってきます!」
何の迷いもなく、ものすごい速さで風呂を目指す瑠璃乃を止める暇は無かった。
富美子にとっては、ご機嫌になりすぎてしまった末の軽い冗談のつもりだった。年頃の女の子がまさか本気にする訳がないと。
「……まさか……ねぇ?」
万が一そんなことが起これば、気の小さい永遠にとっては殴り込みに等しい衝撃を受けて卒倒してしまうかもしれない。
心配になった富美子が様子を見に行こうとすると、ちょうど来客を知らせる玄関のチャイムが鳴った。
「あ、は~い!」
お客様に応対するべく、富美子は踵を返した。
引き戸を開けると、そこには、姿勢良く佇む柔和な笑みを浮かべるスーツ姿の女性と、何故か白衣を着た猫背気味の背の高い男性が立っていた。
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