第10話 社長の猫かぶり

「お疲れ様でした」


 感情を極力押さえ込み、冷淡にもとれる声色での労い。

 スピーチを終えて降壇した四月一日わたぬきを彼の秘書が出迎える。


 長い黒髪に、涼しげな視線。凜とした佇まいが美しい女性だった。


「ははっ。少し失敗してしまったよ」


 促す四月一日に秘書は頷き、歩き出す彼を追い越して先導する。


 まだ総理の声が響いているホールから延びる渡り廊下を、穏やかな笑顔を浮かべる四月一日とニコリともしない秘書の二人が気持ち早足で歩く。


 一分強ほどで本社ビルに到着し、車止めスペースから正面玄関をくぐり、広大なロビーに入ると、受付の女性が二人に会釈を向ける。


 四月一日は柔和な笑顔で手を挙げることで返すと、秘書が先乗りするエレベーターカーゴに乗り込む。


 ビルの傾きに合わせて斜めに昇降する特徴的な菱形のエレベーターが二人を載せ、秘書が行き先を口頭で伝えると、上品な了解の返事が返ってきて扉が閉じた。


 エレベーターは静かに音も無く、非常に滑らかに二人を斜め上方向に運ぶ。

 ビルをスライドするように昇っている途中、前面ガラス張りのカーゴ内からジオフロント内の景色を見渡せる高さまで来た頃、四月一日が少し気まずそうに咳払い一つ済ませて口を開いた。


「……今日の予定を教えてもらえるかな?」


 秘書は胸元に抱えるようにA4サイズの端末を持っていたが、そんなものは彼女に必用ないようで一瞥もせずに即答した。


「14時より、加盟国ネット・ゼロ達成1周年記念式典が東京で開催されます」


「日帰りできると思う?」


「無理です」


「片道10分なのに?」


「はい。式典が終わり次第、出席者との懇談会が続きます」


「じゃあ、それが終わってからすぐに帰れば――」


「翌日には、ワシントンにて大統領との会食の席が設けられております」


「え、聞いてないよ?」


「社長が自分への投資として、書類確認というオサルさんでもできる簡単な仕事さえ放棄し、余暇活動に精を出している間、社の利益になると判断して私が取り付けました」


 秘書の言葉の端々に棘があった。


「そんな勝手に。キャンセルはできな――」

「無理です」


 恐る恐るといった直訴は強制的に遮られる。


「……だって、飛行機苦手だし」


「三時間ほどです。我慢して下さい」


「耳がツーンとなるのが苦手で……」


「水か唾でも飲み込んでおいて下さい」


「最近、腰が痛くて。慣れない椅子での長い移動はつらいなって――」


「なら、天井から吊して差し上げます」


 もう何をどう足掻いてみても無駄に終わることを悟った四月一日は、潔く秘書の取り付けた務めを受け容れることにした。


 そんな二人の関係性がよく分かる日常のやりとりの間に、目的地に着いたことを知らせるベルが鳴った。


 エレベーターの扉が開き出したと同時に、四月一日がネクタイに指を掛ける。


「それにしても……」


 社長室前のエレベーターホールに敷き詰められた上質なカーペットを踏み締めた瞬間、顔つきが180度変化した。


 そしてホールから右に曲がり、社長室の扉が開くと、首を左右に鳴らし、佇まいに品が無くなる。


 本社ビルの最上階に位置し、巨大な一枚ガラス越しにジオフロント全景を見渡せる社長室に入るやいなや、


「あ~~っ、めんどくさっ!」


 粗暴な口をきいた。


 目尻を下げ、穏やかな笑顔を絶やさなかったのが、まるで毒蛇のような鋭い三白眼を見せている。

 その目つきは聡明というより、狡猾、ずる賢さを思わせる。

 とても他人から好感を持たれるような人間の面ではない。


 社長室に入って本性を晒した今はもう、自分の机すら遠くて歩くのが面倒くさい。そんな態度が表に出たように自分の椅子に向かって闊歩しながら背広を脱ぎ捨て、Yシャツの袖をまくり、ネクタイも緩めて、だらしない格好に変貌する。


 かろうじて保っていた清潔感が無くなり、だらしない中年そのものの風体になってしまった。


「演じるってのも大変だ。なぁ、かい?」


 椅子に勢いよく身を任せ、行儀悪く脚を机の上に放り出して組んだ四月一日は、社長室のソファに腰掛けて彼の帰りを待っていた長身痩躯の白衣の男性、式條魁しきじょうかいに同意を求めた。


「ははっ。でも誠実でさえあれば、コミュニケーションを円滑にするために時として便利だと思うよ」


 尋ねられた式條は、四月一日の事情を知っているようで、にこやかに笑って返した。


 式條の隣には、助手の弥生が同じように和やかに腰掛けている。


「だよな? だから俺もこうしてるんだ。俺が素を出しちゃうと、たぶん……」

「いえ、たぶんではなく絶対です」


 四月一日の横に付き従う秘書が、もしかしての可能性をすかさず先回りで否定した。


「おや、手厳しい。そう、絶対に敵だらけになるからさ。腰を低く、謙虚に慎ましくいかないとな」


「そんなことないさ! 少なくとも僕は、君の率直な物言いを友達として尊敬しているよ?」


 式條は立ち上がり、自虐するふりをする四月一日の意見を力強く否定した。


「ははっ、気持ち悪いぞ、魁。でも俺もお前のそういう素直なところ、認めてるぞ?」


 二人の中年男性が認め合っている。一方からは真剣に友を尊敬する熱視線。片方はそれを諦観を持ちながら斜に受け止めている。


 そんな二人の様子を受けて、時計を気に掛けながら社長の言動を見守る秘書の視線に込められた刺々しさが増した。


 棘を感じ取ることができた四月一日が、机の上に投げ出していた足を引っ込めて姿勢を正す。


「……で、その白衣は?」


 そして、自分のYシャツの襟を握るジェスチャーで式條の纏う白衣について尋ねる。 


「ああ。これは若い子達に親しみを持ってもらおうとして博士になってるんだ」


「博士か。マッドサイエンティスト寄りだけど、間違っちゃいないな。で、肝心の瑠璃乃の“次”には気に入ってもらえたのか?」


 その言葉に対し、投げかけた四月一日、聴く式條共に、顔から軽々しさが消えていく。


「…………ああ」


 式條の歯切れが悪い。それは瑠璃乃の新しいパートナー――林本永遠はやしもととわについて語るのに迷いがあるようにも映る。


「……次の奴は瑠璃乃を見限ったりしないのか?」


「それは……」


「瑠璃乃の真実、お前は新しいのに話したのか?」


 四月一日の人を見透かすような眼差しに、式條は無言を示す。


「話してないんだな? 新しいのはどんな奴? 歳は?」


「17歳の男の子だよ。3年もひきこもっていたのに、瑠璃乃の願いを聞き届けて外に出てがんばってくれて――」

「――魁。筋を逸らすな」


 見据えてくる四月一日に、式條は眼鏡のつるに触れた後、静かに答えていく。


「……彼を見る限り、異性愛者であるのは間違いない」


「なら、なおさら話さなくちゃ駄目だろう? 後々困るのはお前達だけじゃないんだぞ?」


「でも……」


「でもじゃない。期待持たせて引っぱって、いざってなった時、自分の望みが絶たれる青少年の絶望は計り知れない。叶わぬ愛が裏返って大きな憎悪になるのも少なくない。お前だって理解しているだろう?」


「……ああ……うん……」


「なら、すぐにでも真実を見せてやらなくちゃだめだろう?」


 覚悟を決めろ。真実を晒せ。そう促してくる友人の鋭い視線を受け、式條はソファに腰を下ろしてから、ゆっくり大きく息を吸い込み、目を伏したまま、


「……でも、信じてみたいんだ」


「何を? 彼を?」


「永遠もだけど……彼と瑠璃乃……二人の絆が裏返らないことを……」


「出たよ、ロマンチスト。いくつになっても夢見やがって」


 式條の口から出た言葉に、四月一日はウンザリといった表情で盛大に溜め息を吐き出した。


「明恒、君は瑠璃乃の性格を覚えているかい?」


「性格? ツンデレだろ? いつもペネトレーターに対してだけプンスカ怒ってて、やきもち焼きで高飛車にも見える。目の離せない、めんどくさい女の子ってところか」


「ふふっ……そうだったね。でもあの子は永遠の影響で変わったよ。対等になるために」


「変わった?」


「……永遠は自分の望んだ理想の女性像ではなく、瑠璃乃が決めた、なりたい自分でいてくれればいいと言ってくれた。自分の思う通りの瑠璃乃ではなく、ありのままの瑠璃乃であっても受け容れるって。これは凄いことだよ」


「凄いと言うか、単に可愛い女の子に傍に来てもらうためのその場限りの詭弁にも聞こえるけどな」


「いや、アザレアージュはペネトレーターからのエルイオン供給をスムーズにするためにペネトレーターの内部表象など無意識下のアニマ・アニムスをエルイオンを介して汲み取り、現ブレーンに顕在化する。好意などの快情動を糧にするために効率的な運用を――」

「――魁、いつも言ってるだろう? 解りやすく簡潔明瞭に頼む」


 四月一日が式條の話を遮って促した。


 また自分の悪いクセが出てしまったと式條は咳払いをしてから続ける。


「つまり、瑠璃乃は心身共に永遠の理想像ではない。接触前のチャットでのやりとりでもそれは明らかだ。実は、彼は胸の大きい年上の美人が好きなんだ!」


 悪意の無い第三者によってつまびらかにされた少年の個人情報。四月一日は眉間にしわを寄せて永遠に同情した。





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