第5話 行ってきます!

 瑠璃乃の動きが止まった。


 彼女の異変を感じ取った永遠とわは、頬を膨らませながら振り向く。


 すると突然、ピーピー、という警報音のような騒がしい音が瑠璃乃のどこかから鳴り響く。


(な、なんだ⁉)


 警報音を聞きつけた富美子もタオルを持ったまま駆けつけ、親子で瑠璃乃を注視していると、瑠璃乃の胸の辺りから30センチ程離れた空中に、警報音が止んだのと同時にA4サイズの薄い紙のようなものが出現した。


 はじめは実体を持たない立体映像だったのに、永遠と富美子が目を凝らしているうちに、しっかりと一枚の書類になっていく。


 餌を詰め込んだハムスターのような顔のまま永遠は立ち上がり、おっかなびっくり宙に浮く書類を手にした瞬間、瑠璃乃が動き出した。


「ったいへん、永遠! エイオンベートが出そうだって! 行かなくちゃ!」


 エイオンベート。その言葉に永遠は血の気が引き、口いっぱいのモノをゴクンと飲み下す。


(……在宅の仕事、こういうふうに来るんだな)


 永遠は震える自分を誤魔化すように平静を装う。が、効果は無かった。


 昨日のとてつもない恐怖を伴う仕事について話は聞いていた。


 災害を対処可能な形で変換した異形の存在、エイオンベート。瑠璃乃と永遠はペアを組み、それを処理しなければならない。


 思い出していると永遠の脳裏に優しげで綺麗でかわいい女性、タイトスカート越しのお尻が魅力的な弥生の姿も浮かんできた。


 だが、そんな邪な思いを一瞬で一蹴するかのように覆い被さってくる圧倒的恐怖。


 逃げ出したい。


 あれだけひきこもりから脱したいと願ったはずの永遠に、部屋にひきこもることを再開したいと思わせるだけの巨大な暴力。


 あれの下へ駆けつけなければいけない。永遠の体が自分の意思とは関係なく震え始める。


「永遠、無理しちゃダメだよ?」


 パートナーの恐れを、パートナーの永遠の心を支援するアザレアージュとしての能力で他人より敏感に感じ取った瑠璃乃が、無理して出て行かなくてもいいという思いも込めて永遠に問いかける。


「……だ、大丈夫だよ……大丈夫。仕事だもんね。行かなくちゃ……」


 強がってみせているが、見ている方が気の毒になるほど無理のある強がりだった。


 呼吸は速く浅く、歯がカチカチと打ち鳴らされている。


 富美子は息子の顔にありありと浮かぶ怯えに心が張り裂けそうになる。不憫とさえ感じた。


 何がそこまで息子を怯えさせるのか? 

 聞き慣れない単語は何か? 

 どこかへ行かないとならないのか? 


 永遠のためにも訊きたいことはあった。


 だが、それよりもどうにかして息子を安心させるよう、息子に駆け寄り支えたい。


 それでも、すぐに震える息子に駆け寄らないのは理由があった。


 瑠璃乃が一番に永遠の手を優しく包んでいたのだ。


 何も言わず、包み込むような温かい眼差しと同じように、優しく優しく、それでいてギュッと永遠の手を両手で瑠璃乃が握る。


 瑠璃乃の温かな優しさに触れ、何度も彼女に与えてもらった感覚……体の中心に火が灯り、体中に温かさが染み渡り、最後にこめかみの辺りにじんわりと染み出してくるような多幸感。

 永遠がそれをしっかりと自覚できた時にはもう、体が震えることを忘れていた。


 永遠は助けてくれたパートナーに改めて向き合う。


「あはは……昨日の今日で本当、格好つかないね、僕……」


 情けないところを何度も見せてゴメンといった苦笑いを浮かべつつ、永遠は瑠璃乃の目を見て礼を言う。


「ううん。そんなことないよ。わたしが永遠の役に立ちたいだけだもん。だから“タイトウ”だよね?」


 瑠璃乃が朗らかに笑って応える。


 その笑顔を前にした永遠の胸に安堵が少し去来する。瑠璃乃に伝えた昨日の言葉、彼女はそれを覚えていてくれるだけでなく、パートナーである自分を気遣う素敵な言い訳にしてくれていると思うと、やはり出てくる言葉は、


「……ありがとう。瑠璃乃」


 受けた瑠璃乃の頬がみるみる赤くなって、


「べっ、別に永遠のことなんてどうでもいいわけないけど、ただ寒かったから握っただけなんだからね⁉」


 多少、用法を間違えているツンが今の永遠には心地よかった。


 落ち着きをわずかばかり取り戻した永遠の視線が、瑠璃乃に触れていない方の手に掴まれている一枚の書類に移される。


「それで、これは何なのかな?」


「あ、その紙にエイオンベートのことが書いてあるみたいだよ? あと、もらえるお金がどうとか」


「なるほど……」


 教えられ、書類の文字を追っていく。目的地はどこかと書面に目を這わしていると、永遠の目を釘付けし、絶句させる数字があった。



 出現タイプ 天災

 脅威度 不明または最大

 報酬額 7億9000万円~

 


 この数字を見た途端、抱えてしまった絶望的な負債の桁が現実的な金額に思えてしまう。


 けれど、信じられない数字に、見間違いじゃないのかと瞬きを繰り返してから、どこまでも自分を信じられない永遠は瑠璃乃に尋ねる。


「るっ、瑠璃乃さん瑠璃乃さん! 本当にこの紙のとおりのお金をもらえるんだよね?」


「うん。なんだかね、くわしくは分かんないんだけどね、エイオンベートに変わる前の数字が大きいほど、たくさんもらえるみたいだよ?」


(地震とか災害がエイオンベートになるんだよね? ってことは……)


「……もしかして、この脅威度? ってのが大きいエイオンベートをやっつければ、この報酬額をもらえるってことかな?」


「う~~ん……たぶん?」


 小首を傾げ、自信の無い答えを瑠璃乃が返す。が、今の永遠にはそれだけで充分だった。


(憂鬱さん、一泊二日でさようなら!)


 お金への欲望が恐怖を凌駕した瞬間、永遠の目が¥を宿した。その目のまま、まるで紳士のように自信に裏打ちされた余裕のある声色で、


「で、場所はどこかな?」


 瑠璃乃に問うと、彼女は返答に少し間を置いた。その間微動だにしないので、まるでどこかから電波が飛んできて、それを受信しているように写らないこともない。


「……えっとね、昨日のショッキングモールからそんなに離れていないみたい」


 瑠璃乃は永遠でもなく、富美子でもない虚空を見ながら言った。


「あっ、電信柱の隣に、お地蔵さんが三人いる。その向かいの酒屋さん? の近くの神社みたい」


 親切なカーナビのように、目印になるものを挙げていく。少なくとも彼女には道が見えているようだ。


「……三人のお地蔵さん……あ、三叉路のとこじゃないかしら?」


 思い当たる場所があるのか、一番に富美子が告げる。


「あっ、春霞はるかの家のそばか!」


 富美子の見通しに永遠も同調して声を上げた。


 そして、つい放ってしまった同級生の名を自分の耳で聞いてから、永遠の胸中に懐かしさと切なさが過ぎった。


 理由があり、止むに止まれずひきこもって一番傷付くのはもちろん、ひきこもり当事者だ。


 しかし、周囲の人間にも多かれ少なかれ影響を与えてしまうのも事実。


 そのうちの一人、いろいろあって傷つけてしまったであろう幼なじみ。


(……元気……なのかな? 変わってない……かな?)


 彼女と過ごした思い出が駆け巡る。


 楽しかった幼少の記憶。

 だからこそ申し訳ない今現在。


 それらに混ざって、同じ年頃の女子と比べれば、ずんぐりむっくりした幅の広い幼馴染みの笑顔が浮かんでくるものだから、永遠は切なくて苦しかった。


(……僕が外に出てきたこと、春霞は許してくれるかな?)


 幼なじみと顔を合わせるのを拒み、会話さえ拒否した永遠の今を知って、彼女はどんな顔をするのか? 


 社会との接点を自分から絶とうとする永遠を毎日、外に連れ出そうと試みてくれた幼なじみ。


 そんな彼女の厚意を無碍にし続けた日々。


 それが今になって、いけしゃあしゃあと女の子といっしょに社会に復帰しようとしている。永遠は、それを知った彼女が、都合の良い自分に軽蔑を向けるんじゃないかと怖くなり、これ以上考えないように頭を横にブンブンと振って、今ある意識を追い払おうと努める。が、それは逆に意識を強くする行為でもあった。


 息子が何を思い、何で憂いているのかすぐに把握した富美子は、


「……そうね。春霞ちゃんの家のそばの酒屋さんの前の坂を登った神社じゃないかしら? そういえば最近、その辺りの空き地が神風用になったって聞いたわ」


 幼馴染みの様子。

 元気か。

 どこの学校に行ったのか。

 それらをあえて伏せて、こともなげを装って見当を言った。


「……そうだね。ってことは、ここからだと歩いて30分以上掛かるね」


 母の気遣いを察し、永遠も気にしないように努める。


「じゃあ、車出すわね」


「あ、うん、ごめん。頼むね」


「あ、だいじょうぶですよ!」

 車に向かおうとする富美子を瑠璃乃が止めた。


 パートナーの痛み、瑠璃乃も当然感じ取っていた。


 ペネトレーターである永遠の脳内を駆け巡るあらゆる信号がエルイオンを介し、アザレアージュである瑠璃乃にぼんやりとした視覚イメージとして届けられる。


 そのため、永遠以上に永遠の痛みを具体的に把握できてしまう瑠璃乃は、だからこそ、自分も少し切なくなっていた。


 永遠の思い出の中に自分はいない。


 そんな当たり前で仕方の無いことも、瑠璃乃にはつらかった。


 つらさの最大の原因は、立ち位置。


 瑠璃乃の心に自分でも自覚できていない、永遠の幼なじみの女の子への小さな嫉妬が生まれていた。


 その位置に居られたのが、わたしであったらよかったのに……と。


 渦巻くネガティブな感情の正体が掴めず、瑠璃乃は苦悶する。


 どちらにしろ考えていると嫌な気分になってくるそれを、瑠璃乃は外に押し出したかった。


 永遠に悟られないように。変なことを考えて嫌われないようにと。


 だからいつも以上に元気な声で、

「車は、だいじょうぶです!」


「二人で行きたいなら自動運転でもいいのよ?」


「それもだいじょうぶです!」


「でも歩いてだと間に合う? 時間は?」

 永遠が訊ねると、


「う~んと……あと5分ぐらい?」


「5分⁉」


 小首を傾げながら答える瑠璃乃に愛らしさを感じつつも、永遠は焦った。


 今からだと目的地まで空でも飛ばない限り間に合わない。


 間に合わなければ恐らく、多くの人に迷惑を掛ける。当然、報酬は貰えない。


(無理だ! 間に合わない! どうしよう、あわわわわっ……このままだと最悪在宅職の契約も取り消しで負債だけ残って瑠璃乃ともさよなら僕は確実にただ無気力に天井の木目を右から左に目で追うだけのひきこもり生活に突入母さんは僕のせいで竜が如くの街みたいなとこで熟女版夜の蝶になって昼間はドカタのアルバイト――)


 などの悲惨な可能性が永遠の脳内を一瞬で染め上げた。


 すかさず、アタフタと挙動不審になっている永遠の腕を瑠璃乃が掴み、自分の方に引き寄せる。

 工業機械に巻き込まれるようなイメージを想起させる力で抱き寄せられたものだから、永遠は目を剥いた。おかげで妄想は止まったけれど。


「だからね、永遠! 空、飛んでいくよ!」


「……え?」


 瑠璃乃は、とりあえずの断りを永遠に伝えて、彼を小脇に抱えると、

「じゃあ、富美子さん、行ってきます!」


「え? あ、うん……いってらっしゃいね!」


 行ってきますの挨拶に応えるのに、富美子は少し時間を要した。


 なにせ瑠璃乃の足が床に着いていない。息子を抱えて宙に浮いている。


 それを認識してからだったので、元気いっぱいの行ってきますに、元気をのせての行ってらっしゃいを返すのに時間が掛かった。


 手を小さく振って送ってくれる富美子に笑顔で返すと、瑠璃乃は、穏やかな春風に揺れるレースのカーテンを抜けて縁側に滑っていく。そして、開け放たれたままの引き違い戸を抜けて庭に出た。


(飛ぶ? ……はっ! そうだ、この子は――)


 目を丸くしたまま、借りてきた猫のように押し黙って瑠璃乃の言ったことを咀嚼していた永遠は、心地良い風が頬を撫でる外に出てやっと、彼女のやろうとしていることが理解できて、


「飛べるんだった~~~~~!!!」


 そう絶叫を上げた頃にはもう、家を遙かに見下ろす高さにいた。


 縁側に出た富美子は、あっという間に空へ吸い込まれるように点になった二人と、息子の尻すぼみに小さくなっていった悲鳴を耳にしてから、感心したように呟いた。


「最近の子は空も飛べるのね……外国は進んでるのね~~!」


 ズレて偏った外国観を巡らしながら、富美子は二人を見送ったのだった。



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