第4話 責任

 全部、あいつのせいだ。


 憎しみを宿した柄の悪い少年が目の前にはいない“あいつ”を睨めつける。


 睨み付けるのは、自分より圧倒的に下と定める人間だった。


 派手な色の頭髪に行儀の悪さ。外と内、雰囲気全体で跳ねっ返りを主張する少年が舌を鳴らす。


 滑らかだが冷たいコンクリートの壁にもたれかかり、い草の匂いが僅かにするだけの薄畳の床に片足あぐらで座り、「チッ」と、数え切れない程鳴らした音だけ響く。


 憎しみを存分に向けても許される“あいつ”のことを考えると苛立ちばかりが募る。


 あいつのせいで、自分は天井付近の壁にある鉄格子つきの小窓からしか時間を計ることができない檻の中に拘留された。


 冷えた食事が届けられる時間にしかお茶を飲むことができなくなった。


 存在自体が罪だとしても、あのひきこもりは曲がりなりにも自由に茶ぐらい飲んでいるだろうに。


 シャワーも許されない。ひきこもりと同じ臭いがしてきたらどうしてくれる?


 ヘアワックスがなければ髪も決まらない。底辺とは真逆の位置にいる際立った存在だと周囲に知らしめるために髪を立たせることもできない。


 スマホなどのガジェット類も全て没収され、慣れない環境を強制された。


 自由を奪われた。何も悪くない自分が。


 ただ開き直っている底辺に身の程を教えただけなのに。


 憎しみを宿す柄の悪い少年は顎に徐々に力を入れ、歯を剥き出しにして歯噛みする。


 全部あいつのせいだ。


 壁の一点を睨み付けてはいるが、その眼差しと敵意は、すべて林本永遠に向けられていた。


 少年は復讐を誓い、睨むのを止めなかった。






「うっぷ……」


 永遠は胃から迫り戻ってくる野菜ジュースと格闘していた。


 富美子が作った朝食は、醤油ベースの卵焼き、焼き鮭、たくあん。それにご飯と味噌汁という永遠が食べ慣れた朝食と変わりなく、適量で、味はもちろん逸品だった。


 が、朝食を食べる永遠と富美子を笑顔で眺めていた瑠璃乃があることを思い出す。しまい込んでいた野菜についてだ。


 瑠璃乃が「大きなお皿ありますか?」と、尋ねると、富美子はすぐに大皿を用意した。


 感謝を述べてから、瑠璃乃は野菜をしまい込んでいた場所、スカートのポケットに両手を突っ込むと、ポケットから大量の野菜達を取り出したのだ。


 昨日、フードコートのビュッフェで瑠璃乃が山盛りに盛っていた野菜だ。


 確かに目にしたイリュージョン。


 薄くてヒラヒラでしかないであろう布の中に本当に仕舞われていたとは。某猫型ロボットのような収納力に永遠は目を丸くするしかない。


 二つのポケットから出てきた、こんもりとした大量の色とりどりの野菜を大皿に載せると、富美子は手品を目にしているように感心して小さな拍手を鳴らした。


 訊けば、やはり野菜はビュッフェから持ち帰ったもので、富美子へのお土産だったと瑠璃乃が伝えると、富美子は大喜びした。


 昨日のもの、しかも布一枚を隔てて肌に触れていたというのに野菜の鮮度は保たれていた。けれど、生ものだから悪くならないうちに何とか頂こうと富美子はミキサーで野菜ジュースを作ることにした。


 日頃の野菜不足を補おうということで永遠にも飲むように促し、瑠璃乃と母の手前、拒否できないまま、とてつもなく青臭いジュースを食後に二リットルほど飲んで現在に至る。


 永遠の額には大量の脂汗が滲んでいた。


「ご、ごちうぷっ! ……ごちそうさまでじたっ」


 逆流してくる野菜を強引に留め、永遠は小刻みに震えながら声を絞り出した。


「すごいね永遠! 野菜きらいなのにジュースぜんぶ飲んじゃうなんて!」


 瑠璃乃がキリリと眉を上げ、永遠に賞賛の拍手を送った。


「スイカとポテトチップスぐらいしか食べないぐらい野菜嫌いなのに……瑠璃乃ちゃんのおかげね!」


「え? わたしは何もしてないですよ?」


「ううん。そんなことないわ。瑠璃乃ちゃんがいるから、永遠もがんばれたんだし……」


 息子が野菜を食べてくれた。喜ばしい事実。息子が格好付けざるを得ない状況をくれたのは、あなたなのよと富美子は瑠璃乃に何度目かの心からの礼をする。


「瑠璃乃ちゃん、永遠のパートナーになってくれて本当にありがとう」


 包み込んでくれるような富美子の目に、瑠璃乃は心地良さを覚えた。


 目に宿る光だけで理解できる。富美子の心からのありがとう。それに応えなくてはと、瑠璃乃も姿勢を正し、


「富美子さんも、永遠のお母さんでいてくれてありがとうございます!」


 咄嗟に出てきた感謝の印を朗らかに笑いながら伝えた。


 受けた富美子は少し時間を置いた後、涙腺を崩壊させた。


「ううっ、こんなにいい子がうちに来てくれるなんて……。空の向こうのお父さん、見守ってくれてありがとう、ううっ……」


(それじゃあ父さん死んじゃってるみたいになってるよ……うっぷ!)


 すぐにでも洗面所に駆け込みたいのを押さえながら、永遠は母につっこんだ。


 瑠璃乃は大慌てで突然大泣きしてしまった富美子に擦り寄る。


「富美子さん、だいじょうぶですか⁉」


「ううう……だいじょうぶよ、ごめんなさい。……瑠璃乃ちゃん、これからも永遠のことお願いできるかしら?」


 富美子は手近にあった台ふきんで涙を拭うと、瑠璃乃に尋ねる。


「はい! 永遠がどうしてもって言うならしかたなく、ずっと一緒にいますから!」


「お、およよよよ……。永遠、永遠は幸せよ。こんな子に、およめさっ――家に来てもらえるなんて……」


(何てことを口走るんだ母さん! ……うぇっぷ)


 永遠は青くなった顔のまま、静かに母に抗議した。


「瑠璃乃ちゃん、この子をお願いね。これからも嫌いにならないでいてやってね?」


 悲しくて泣いている訳ではないと分かっていても、泣いている人を放っておけない瑠璃乃は富美子を励ます意味も込めて、


「嫌いになんて絶対なりません! これからもずっと永遠のこと、好きですから!」


 正直な気持ちを口に出して少し、瑠璃乃の顔が真っ赤に染まる。自分の口から出てきた言葉を後から認識すると、羞恥が遅れてやってきた。 


 そして今にも胃のなかのものを吐き出しそうな永遠に擦り寄って、


「わ、わたしは永遠なんて好きじゃなくって、大好きなだけですから~~‼」


 目を食い縛って頬を赤らめた瑠璃乃は、恥ずかしいのを隠すため、永遠の背中をボフボフ優しく叩いた。


 が、そんな柔らかな刺激でも、永遠のせきを切るのは簡単だったようで。


 血色の悪くなった頬が膨れ上がり、ぶちまけ……そうになりながらもテーブルに突っ伏し、物理的に口を塞ぐことで限界越えを抑え込んだ。


「あら、たいへん!」


 富美子が惨状寸前を察知して直ぐに立ち上がり、タオルなどを取りに向かう。


「ごっ、ごめん、永遠! だいじょうぶ⁉」


 自分の叩き方が強すぎたせいだと責任を感じた瑠璃乃は、何はなくとも介抱しなければと永遠の背中を擦った。が、その擦る速度が速すぎて、永遠はまた戻しそうになる。


「胃薬! 胃薬持ってくるわね!」


 息子の限界は近い。息子の窮地に富美子は迷いなく胃薬を取りに向かった。


 胃がいろいろとまずい。けれど気分は良い。永遠は、喜色満載の母の百面相を目にしながら口元を緩める。そして、


「……ありがとう。瑠璃乃」


 動き回る母の方を向きながら瑠璃乃に礼を述べた。


「え? もっとお野菜食べたい?」


「違うよ⁉ 勘弁してくださいね⁉」


 小首を傾げる瑠璃乃に、永遠は、ややあってから困ったように笑い、続ける。


「……母さんがあんなに楽しそうにしてるの見るの、久しぶりなんだ。それはきっと、君のおかげなんだ。だから……ありがとう」


 永遠の率直な感謝を受けて、瑠璃乃の頬が染まる。


「べ、べつにお礼言われてもうれしくもなんともあるけど……わたし、富美子さん大好き! だから、わたしこそ、お家に呼んでくれて、ありがとうだよ!」


 明朗に言いながら、瑠璃乃が笑う。


 逆に感謝されてしまった。永遠は呆気にとられて瑠璃乃の方を向くと、彼女のその笑顔に目が惹き付けられ、さらに呆気が加速した。


「あっ! とっ、永遠のことも仕方なくだけど好きでいてあげるから安心していいからねっ! な、なんちゃって~~!」


 ツンデレ発言で自分が恥ずかしくなって、瑠璃乃が堪らず永遠の背中を手の平でパシパシと叩いた。


(あっ。まずい)


 少しの刺激で大惨事になる胃が、トドメをくらって内容物をせり上げていく。いよいよ頬が膨らみ、両手で口を押さえなければいけない窮状に永遠は追い詰められた。


「胃薬なかったけど、青汁の素あったわ!」


 そこに水が注がれたコップと青汁の素をお盆に載せた母が帰ってくる。


(違うよね⁉ 今は絶対違うよねソレ⁉)


 永遠は目を剥きながら首を横にゆっくりと振って拒否する。


「永遠、青汁は体に良いっていうから飲んだほうがいいよ、きっと!」


 無邪気に瑠璃乃まで勧めてくる。


 これ以上は入らない。出そうなのにさらに入れる意味が分からない。


 もしかして、今ここで自分の味方を出来るのは自分だけなのでは? 


 永遠は、せり上がってくるものに耐えながら、ひょっとしたら孤立無援なのを嘆いた。


 そんな慌ただしいドタバタの最中、永遠の後方でアタフタしていた瑠璃乃の動きが突然、止まった。

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