第2話 豪邸が10軒以上立つようなお金
「ごめんなさいね、大声上げちゃって。瑠璃乃ちゃん、外国の人なのに、家の中で靴脱いでベッドに寝てたから感心しちゃってね~。偉いわ~」
「えへへ~」
瑠璃乃は富美子に褒められたのが嬉しくて、頬をほのかに染めていた。
永遠と瑠璃乃、富美子の三人は、一階の居間まで下りてきていた。そしてテーブルで向かい合い談笑する。永遠ひとりを除いて。
「わたし、日本のルール、詳しいんですよ! それがし? なにがし? ……あっ! わびさび! わびさびだからどんなに寒くても下駄は素足で履かないとダメだって、ヘンノビーキュウリさんって人が言ってたってのを見たことあるから、ブーツは脱ぎました!」
瑠璃乃は正座のまま、拳を膝の上に、自慢気に話す。
(へん伸びキュウリ? 股割れした大根みたいなキュウリ? …………あ、千利休のことか)
多少日本語に難がある瑠璃乃の言動を、永遠はこれからのことも考えて出来るだけ速やかに解釈していこうと決心した。
「まぁ! そんなことまで知ってるなんて! 瑠璃乃ちゃんは物知りね~」
富美子が小さい子供を褒めるように瑠璃乃に小振りな拍手を送る。瑠璃乃は表情を蕩けさせた。
「……あ~~、瑠璃乃、母さん、昨日のことなんだけどさ……」
二人のコミュニケーションに水を差すのも何だったが、このままでは終わりが見えない気がした永遠は小さく挙手して二人に呼びかけた。
「……昨日の記憶が曖昧と言うか、家に帰ってきた時間とかも覚えてないんだけど……」
「そうなの? 昨日は永遠、凄い顔して帰ってきたのよ?」
どんな顔で? と永遠が富美子に続けてもらうよう、眉間にしわ寄せ、首を傾けて促した。
「そうねぇ……心ここにあらずって感じで、まるでこの世の終わりみたいな顔だったわ」
「公然ニヒルだったよ!」
「そう、茫然自失だったわ」
(母さん、翻訳速いなぁ)
瑠璃乃の意味を計りかねる発言に対して、永遠は咄嗟に真意を汲むことに失敗する。そして母に先を越される。富美子に感心しつつ永遠は少し、瑠璃乃のパートナーそして自分が情けなくなった。
「夕方ぐらいにね、たまたまよ? たまたまなんだけど、家の前で草むしりして二人の帰り待ってたら、坂道をトボトボ歩いてくる永遠と、永遠の背中を押してくれてる瑠璃乃ちゃんが見えてね」
(さすが僕。無意識でも瑠璃乃に頼ってるヘタレぶり……それと母さん、心配ばっかりさせてごめんなさい)
恐らく、三年もの間ひきこもっていたのに、急に女の子と出かけた息子が心配になって家の前でずっと待ち続けていたのだろうと永遠は推測し、心の中で詫びた。
「おかえりって声掛けたら、今にも泣き出しそうな、とんでもなく申し訳無さそうな顔で、わたしの顔見てね」
(そりゃそうだよ。だって……)
とんでもなく申し訳なさそうな顔で、永遠が回顧を開始した。
話は遡って昨日。
瑠璃乃と共に強大な存在を退け、仕事を全うし、満たされた気分でいた時に、永遠はとんでもない事実を知らされた。
瑠璃乃が満面の笑みを永遠に向け、永遠は気恥ずかしさから困ったように笑顔を返していると、ハルジオン社対特殊自然災害部隊隊長の赤木が、
「あの~~……壊しちゃいけない空気をぶち壊すようで本当に悪いんだけど……」
とても申し訳なさそうな顔でやってきた。隣には今にも泣き出してしまいそうな博士もいた。
弥生は博士の隣に立ち微笑みを浮かべている。とても無理ありげな微笑みを。
何かあったのだろうかと永遠が小さく口を開けると、赤木がバツが悪そうに永遠に歩み寄り、後ろめたいのか彼を直視できないまま、一枚の用紙を、まるで表彰状を渡すように腰を曲げて丁重に差し出した。
「……今回のおあいそになります」
何のことか分からない永遠は、とりあえず赤木に倣って腰を曲げて丁重に用紙を受け取ると、その文面に目を落とす。
「っ⁉」
そしてすぐ、言葉を失った。
まず用紙の頭にはしっかりと御請求書と書かれていた。そして林本永遠様とあってからハルジオン本社の住所、細かく仕切られた欄の中には見慣れない名前の“商品”とそれぞれの単価。
「じゅ、17億⁉」
極めつけはゼロが大量に並び、17億8000万の額の下に、在宅(乙)職にこれを請求するとの、永遠の目から見ても明らかな不穏な文字が記されていた。おまけに支払いは銀行口座で手数料は自己負担らしい。
「……あわ、あわわわわっ……こ、これってどういう……⁉」
今にも泣き出しそうな顔で永遠が赤木に尋ねる。
「落ち着け落ち着け! 気持ちは分かる。簡単に言うとこれは……請求書……だな。今回の予期しなかった事態で使用された装備の修理費は全部、在宅乙職のペネトレーター……つまり君に請求されるってことになっててな……」
「そっ、そそそそんなっ⁉」
額が余りに大きいものだから、永遠は大きな上擦った声を漏らす。赤木は永遠の心情を充分に察して同情しながら彼をなだめるように請求書について説明する。
そんな中、弥生は博士の耳に向けて背伸びしていた。オロオロしていた博士は弥生の耳打ちを聞くと、二回大きく頷く。
「こっ、こんなお金、とてもじゃないけど払えないですよ! 仕事だって今さっき決まったばっかりで、これからのことだって分からないのに! ……みなさんどうしたら――」
永遠は青冷めて涙ぐみながら、救いを求めて博士の方を振り向いた。だが、博士がいた場所からは、その長細い体がいつのまにか消えていた。請求書を握りしめながら周囲を必死に見回すと、宙に五メートルほど浮いたトレーラーの中に博士と弥生の姿が確認できた。
「あっ! 博士! あ、あああの! これなんですけど――」
「永遠! 請求に応えるための心当たりがある…………たぶん。私は今からそれに当たってみようと思う!」
「ほら、博士、早く逃げっ――じゃなかった。行きますよ!」
「だから永遠、また会おう…………いつの日か――」
トレーラーは車体を上に向けたかと思うと目にも留まらぬ速さで空へ走り去っていった。博士の言葉は途中で途切れ、尻すぼみに車体と一緒に消えてしまった。
瞬く間に永遠は打ちひしがれてしまう。再会を現実的な意味で切望する、先程まで非常に心強かった大人が、再開がいつとも知れない言葉を残して行ってしまった。
永遠の目が自然と、もう一人の大人へと移される。
「……君も大変だな。俺で良かったら何でも言ってくれよ! 力になるぜ!」
赤木は永遠の、すがるような視線に少し身構えてから、永遠のことを哀れに思ってか、先輩社員の責任感からか、大人としての甲斐性を見せる。
ポンっ。
赤木の力強い手が永遠の肩に載せられる。そんな彼に頼もしさを感じた永遠の目尻に涙が浮かんだ。
「あ……赤木さ――」
「――ただし金は貸せないぜっ! おまえら、撤収だーー‼」
赤木は親指を立てて永遠にウインクしてからすぐ、部隊員に引き上げを呼びかけて走り去っていった。
永遠は一瞬持ち上げられてから、すぐに谷底に落とされた気分だった。
空き地を囲んでいた膜も、それを生み出していた重機も、隊員達も何もかもが輸送機に搭載された。輸送機は音も無く飛び上がり、静かに山あいに飛んでいってしまった。
ただの広大な空き地の中心で一人取り残されたような孤独感が永遠を襲う。だがそれは錯覚だと、自分の手を包み込む温もりが教えてくれた。
「だいじょうぶだよ、永遠!」
永遠自身もいつの間にか忘れていたが、瑠璃乃はにこにこと笑いながら永遠の手を両手で握ったままだった。彼女は沈痛な面持ちのパートナーを元気づけようと試みる。
「わたし、弥生さんから聞いて、お仕事のこと知ってるけど、お金、返せると思うよ?」
「ほっ、ほんと⁉ そんなにハルジオンの仕事ってお金凄いの⁉」
「うん! 毎日エイオンベートと戦わなきゃいけないけど、一〇〇〇回ぐらい戦ったらきっと返せるよ!」
永遠の顔が絶望に染まる。今日だけでも疲労困憊なのに毎日はとても無理。一縷の望みは呆気なく絶たれた。ただ瑠璃乃はいたって大真面目に永遠を力付けたつもりのようで、その顔は紛れもなくドヤ顔だ。
「…………ははっ……はははははは………………」
何かが吹っ切れた永遠の口から自然と笑い声が漏れてくる。笑うしか無い永遠は思った。
もう、ひきこもりではいられない。
(豪邸一〇軒以上建つような借金背負っちゃたんだから)
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