第2話 黒猫
____3年前
澄んだ秋風が街を吹き抜け、乾いた空気が頬を伝う午後、僕は耳が冷えないようマフラーをぐるぐるに巻き、リュミエール学園からの帰路で石畳に散在する枯葉を踏んでいた。割れた枯葉は軽やかな音を響かせた。
空は灰色に煙り雲間から漏れる光が街を淡い金色に染めていく。
家路を急ぐ人々が横をすり抜けていく中で僕は一人、歩みを遅め市場通りへと目を向けた。
市場では魚やパンの香りが鼻をくすぐり、人々の声や荷車の軋む音が混じり合い、喧騒に包まれていた。
果物の鮮やかな暖色が山となり衣類を売る露店の布地は風に揺れ、シルクの滑らかな光沢が陽光を反射していた。
絶え間なく人々の声が響き渡る中、商人たちは熱心に顧客に声をかけ値引きを求める人々との交渉が続いている。
馬車がゆっくりと通りを横切る音や屋台の金属製のカウンターにコインを叩きつける音が市場全体に活気を与えていた。
歩みを進め、市場通りを抜ける頃
――にゃあ……。
不意に風に紛れる、か細い声を耳にした。
僕は石畳の上で足を止め、声の方向を探した。再び聞こえたその声は通りの端にある狭い路地裏からだった。
市場の裏手、薄暗い場所に積まれた木箱の隙間で、一匹の黒い猫がうずくまっている。視線の先で震える小さな体は泥と埃にまみれ、片方の目は半分しか開いていなかった。
僕は路地に入り、しゃがみ込んでそっと手を差し出した。猫は逃げようともせず、かすかに頭を擦り付ける。それから小さく甘えた声を漏らしたが、力尽きたように横たわってしまった。
僕はそっと抱き上げたが手のひらに伝わる体温は頼りなく、今にも消えてしまいそうだった。軽い体躯は抱えている実感さえも薄い。僕は慌てて首に巻いていたマフラーをほどき、小さな体を包み込んだ。
ポケットから取り出した真紅の魔石を猫の腹にそっと乗せ、僕は走りだした。腕の中で感じる微かな鼓動は、小さくも確かに命が灯っていることを伝えていた。
僕は白い息を漏らして、街路樹と建物の間を走り続けた。冷たい風が鼻をかすめ耳を痛くする。僕は市場を背に喧騒が遠ざかるのを感じながら不安感を胸中に秘めていた。
ーー母は家にいるだろうか
薬剤学、魔法学に精通した母は、ほとんどの時間を家で過ごしていたが月に数回ほど大学へ講義をしに行っていた。母が不在であることを考えては僕の心は不安と焦燥に駆られていた。
すぐ、そこの角を曲がると見慣れた灰色の建物が目に飛び込んできた。玄関までの石段を登り、杖をドアにかざて勢いよく開けると同時に、僕は叫んだ。
母さん‼︎
沈黙が続く玄関で温かい空気に包容されたまま僕は立ち尽くした。
おかえりなさい、ルカ
リビングの方から母の声がした。
玄関まで顔を覗かせた長髪の女性は僕の方を見て状況を悟ったのか、
すぐに寄ってきて衰弱した猫を僕からとりあげた。
僕は目が潤み、鼻水をすすっていた。
そして、いまにも崩れそうな顔面で震えた声を口にした。
たすけてあげて
不安定な声は掠れていたが、母には伝わったようだった。
母は黙ったまま、僕の頭にそっと手を置き、猫を抱えたまま奥の部屋へと向かった。
その背中にかかる黒髪は淡い光を受け、揺れていた。母の背中は不思議と胸のざわめきを静かにし、僕はわずかに安堵した。
雪解け テキトー @chokoneko
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