03:恩人の名は
程なくして腹部の圧迫感が消え、縄が太ももの上に落ちた。
獣人は邪魔だとばかりに縄を掴んで横に放り、続いて私の背後に回った。
「動くなよ。指が落ちても知らないぞ」
「はい。動きません」
彼が見ていないのをいいことに、私はくすっと笑った。
仮にもし指が落ちたら、私よりも彼のほうが慌てる。
彼とは知り合って間もないけれど、不思議とその確信があった。
「取れた」
ぱさっという乾いた音がした。
恐らく、獣人が取り払った縄を地面に落とした音。
「ありがとうございます」
私は痺れた腕をどうにか動かして自分の前に持ってきた。
見下ろした両手首にはくっきりと縄の跡がつき、血が滲んでいる。
でも、そんなことはどうでも良い。
――やっと、やっっっと解放された……!!
三日ぶりの自由を噛みしめていると、獣人が視界内に戻ってきた。
「本当に、本当にありがとうございました。あなたは私の命の恩人です」
私は深々と頭を下げた。
「ああ。それはいいけど、なんでせっかく自由になったのに座ったまま動こうとしないんだ?」
「動けないんです。不自然な姿勢で長く座ることを強制されたせいか、足腰はとうに痺れて感覚がありません。手も、この有様です」
痙攣している私の両手を見て、獣人はばつが悪そうな顔をした。
「ああ……そういうことか。よく見れば顔色も悪いし、だいぶ衰弱してるんだな。つまらない質問をして悪かった」
「いえ。こうして話す元気はありますし、時間が経てば動けるようになると思います。ご心配には及びませんよ」
私はにっこり笑ってみせた。
「ところで、お名前を教えていただけませんか。胸に刻んでおきたいんです」
「エリオス」
吹きつけてきた風に黒髪と頭の耳をそよがせながら、獣人はそう言った。
「では、エリオスさんはどうしてここに?」
「食料調達のために歩いてたら、あんたの泣き声が聞こえた。何事かと思って確認しに来た」
そうだった、誰もいないと思って大泣きしたんだった!!
ちょっと待って!!
私、泣いて大惨事の顔をエリオスさんに晒し続けてたんですけど!?
急激に恥ずかしくなり、私は手の甲で何度も顔を擦った。ハンカチも何もないのが悲しい。
「食料調達? この森で? 危なくないですか?」
いまさら手遅れとは知りつつも、私はエリオスさんの視線から逃げるように顔を背けて右手を見た。
右手の木陰ではスライム状の魔物がうごめいている。
さっき私の目の前を横切った蝶だって、厳密にいえば魔物の一種。
私がこれまで目撃してきた魔物はみんな弱いけれど、森の奥に進むにつれて、強い魔物がうようよいるはずだ。
「危なくても、食料がなければ生きていけない。村で畑を作ってはいるけれど、瘴気のせいでごくわずかな量しかとれない。森の恵みに頼るしかないんだよ」
「エリオスさんの村は瘴気に侵されてるんですか? どうして? 森の近くに住んでるんですか?」
「近くじゃない。森の中に住んでる」
「ええ!? なんでそんな――」
「おれたちの先祖は住んでいた土地を人間に奪われ、森に追いやられた」
エリオスさんの言葉は、平和ボケした私の頭を殴りつけた。
――なんで危険な森の中に住んでるんですか? 森を出て、亜人の皆さんで力を合わせて新天地を探せばいいじゃないですか――
私は考えなしにそんなことを言おうとした。
エリオスさんの事情も知らないくせに、無神経で、無責任で、失礼極まりない言葉を言おうとした。
「……。察しが悪くてすみません。無神経なことを聞きました」
人間と亜人、両者の間には深い溝があることを痛感する。
その溝を作ったのは人間だ。
大昔、他の大陸から移住してきた人間は先住民の亜人を痛めつけて追い払った。
いや、決して過去の終わった話ではない。
北にあるマルカ帝国では亜人を奴隷として売買していると聞く。
いまこの瞬間も、人間のせいで酷い目に遭っている亜人がいるのだ。
最低だ。最悪だ。つまり全部人間が悪い。
なんで人間は愚かなのか。なんで私は人間なのか。
考えれば考えるほどドツボにハマり、もはや自分が人間であることが申し訳なくなってきた。
「人間ですみません……」
罪悪感に取り憑かれて詫びると、エリオスさんは目を瞬いた。
キョトンとしたように私を見つめて、それから、噴き出す。
「なんだそれ。なんで謝るんだ。変なやつ」
笑った!! エリオスさんが笑ったよ!?
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