20話 怒りの理由
体を襲う浮遊感。落下の恐怖で絶叫しながら、とにかく近くのものにしがみつく。あの風の精霊は障害物を避けられる場所まで飛ばすことしか考えていなかったのでは――と思ったが、地面にぶつかる前に下から吹き上げる風の抵抗があり、無事に着地することができた。
とはいえ私は足腰が立たない状態になっており、しがみついていたウルベルトが立っているおかげで地面に座り込まずに済んでいるだけなのだが。
『大丈夫か?』
「……足に力が入りません……」
森の中で抱き合っているような恰好だが、それを恥ずかしがる余裕すらなかった。……落ちていた数秒はとても長く感じ、その間は死を覚悟していたくらいだ。
一応自力で立てないかと考え、背中に回していた腕をゆっくり解いてみたが無理だった。ウルベルトが腕で支えてくれているから立っているように見えるだけで、脚はがくがくと震えている。一歩でも踏み出せばかくりと膝が落ちるのは間違いない。
『座れるような場所があればいいんだが森の中ではな……私を支えにしていても辛いだろう。抱えてやる』
何を言われたのか理解するより先にひょいと体が浮き上がる。その一瞬で先ほどの恐怖を思い出してついしがみついたのは、ウルベルトの首だった。……つまり今度は抱き上げられている状態、らしい。
「ウルベルト様、この格好はさすがに……」
『しっかりと掴まっていてくれるなら私としてもそちらの方が楽だ。遠慮するな』
「遠慮している訳ではないのですが……いえ、やはりお願いします」
一人ではまともに立つことすらできず、足手まといでしかない私は、支えてもらい方に文句を言える立場ではない。ウルベルトが抱き上げる方が楽だというなら従うべきだ。
動けるようになるまで彼の腕の中で大人しくしていることにした。しっかりウルベルトに掴まって体勢を安定させると、私を抱いている腕にも力がこもる。落とさないように気を付けてくれているのだろう。
『ひとまず森の王の社に向かってみるか。……そこに居てくれればいいんだが』
私を抱えたまますたすたと歩き出したウルベルトは、恐怖で足がすくむということもなかったようだ。……なんだが自分が情けなくなってきた。
私と彼では精霊に対峙してきた場数が違うとはいえ、ここまで差が開くとは。
「ウルベルト様は……怖くなかったのですか?」
『いいや、お前を失うかと思うと怖かった。いざという時は私が下敷きになってでもお前を生かすつもりだったがな。ははは』
笑って冗談のように言っているけれど、おそらくこれは本気の言葉である。何故なら無事に地面に降りるまで、いや、降りてもしばらく彼の腕は私を離すまいときつく抱きしめていたから。……自分を犠牲にしても私を守るつもりだったのだ。
(……王弟で公爵であるウルベルト様の方が、私の身よりも大事でしょうに)
精霊と対峙すれば何が起きるか分からない。この先も私に危険が迫ったら、ウルベルトは身を挺して庇ってくれるのかもしれない。
それは嬉しい気持ちと同時に不安を駆り立てる。私たちの武器は言葉だが、それだけでしかない。超常を操る精霊に、人間の身で出来ることは本当に少ないと感じる。
「ウルベルト様。……ご自身も大事になさってくださいね」
『愛しい女を守りたいと思うのは仕方ないだろう?』
「……それでも、ですよ。大事な相棒を置いていなくなるなんて、絶対にしないでくださいませ」
私たちは二人で一つの能力を持った相棒でもある。どちらが欠けてもいけない。私がウルベルトに抱いている感情は、やはり同僚への尊敬や信頼感といった好意で、男女の情とは違うと思う。それでも彼が大事な存在なことは確かだった。
彼の首に回している腕にも自然と力が籠ってしまう。そのせいなのか、ウルベルトの歩みがピタリと止まり、紅色の瞳が静かに私を見下ろした。……こんなに近くで見つめられるのは初めてで、少しどきりとする。
『……そこは婚約者と言ってほしかった』
「まだ婚約していません」
『この仕事が終わったら婚約するんだから似たようなものだと思うがな』
それはその通りなのだが。やはり、無事にこの仕事を終わらせなければその未来もやってこないだろう。事件解決のため、力を尽くすしかない。
覚悟が決まったからか、気持ちが落ち着いたからか、だいぶ体に力が戻ってきたように感じる。もう自分で歩けそうなのでウルベルトに降ろしてもらおうとした。
「ウルベルト様、そろそろ自分で歩けそうです。降ろしてください」
『……無理をしなくてもいいぞ。私はこのままでも一向に構わない』
「何故、そこでしぶるんですか。歩けそうだと言っているでしょう?」
『……この格好だとお前の愛らしい顔がよく見えるんだがな……』
そう言いながらしぶしぶといった様子で私を降ろしたウルベルトに、ここまで運んでくれた感謝を述べるべきか、こんな時に何を言っているのかと叱るべきか迷い、運んでもらったのは事実なので前者を選んだ。……声には少し不満が漏れてしまったが。
そうして二人で並んで森の王の社を目指す。社は森の王の住処として国が建てたもので、実際に使われているらしい。元々は木造の建築物だったが、変質して現在は巨木の中に洞があるような状態だという。
『森の王は鹿の姿であったり、人の姿であったりするという。それらしい精霊が居てくれるといいが』
「そうですね。……それに……会話にも応じてくださるとよいのですが」
先ほどからざわめき声のようなものが聞こえてくる。小さな声で、精霊たちが話をしているようだ。すべては聞き取れないが「よそもの」「侵入者」「王」「知らせる」という単語を耳が拾って、なんだか不安になってきた。
「ウルベルト様、森に棲む精霊たちが……おそらく森の王へと私たちのことを報告しに行っています」
『……ならば相手がどう出るかで状況が変わるな。社はもうすぐそこにある』
侵入者の存在を知って、姿を現してくれたなら会話ができるかもしれない。しかしもし、逆に顔も見たくないと隠れられてしまえば、かなりまずいことになる。
焦燥を感じながら、歩みは自然と早くなった。だが、それは杞憂に終わる。やがて見えた巨木の社の前に、その精霊は堂々と立っていた。
『精霊の力を借りて入ってきた人間はどのようなものかと思うたが……』
立派な鹿角の生えた、人の男性のような上半身。そして下半身は四つ足の鹿の姿。半獣半人のその精霊が、どうやら森の王であるようだ。
目にするだけで気圧されるような、圧を感じる。これが強大な精霊というものだろう。呼吸が浅くなり、息苦しい。
そんな私の背中に大きな手が触れた。ちらりと隣を見れば、まっすぐに森の王を見つめるウルベルトがいる。共に立つ相棒の存在を思い出しただけで縮まりかけていた背筋が伸びた。……二人でいれば大丈夫だ。
『お初にお目にかかります、森の王よ。……どうかお怒りをお静めいただきたく、お話を伺いにまいりました』
『ほう……? これは珍しい。我らと同じ声を持つ人間か。話を聞きたいというのなら……もう片方はもしや、耳か?』
「……声と耳が揃っているか、確認しているようです。私に耳かと尋ねています」
『はい。彼女には精霊の声が聞こえます。どうすれば怒りを静めていただけるか、お教えくださいませんか』
『……この怒りを静める方法か』
森の王が静かに歩み寄ってきた。そうすると、見上げる程に大きい体から再び重圧を感じるようになる。彼は私たちの目の前までやってくると、ウルベルトの目と鼻の先まで顔を近づけてにんまりと笑った。その横顔を窺いながら、口元とは違い目が全く笑っていないことに気づき、寒気を覚える。
『攫った我が子を返せ。我が子が無事に戻れば、考えてやる。しかしもしできなければ……森の茨を外へ外へと広げてやろう。我の力の及ぶ限りの土地へ、人間が二度と入れぬようにな』
――最悪だ。犯人はなんてことをしてくれたのだろうか。私は生まれて初めて毒吐きたくなるくらいには、他人を責めたくなった。
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