18話 隣に立つ
貴族の婚約が成立すると、互いの家の紋章が入った装飾品を渡しそれぞれ身に着けるようになる。そこから転じて、好きな相手には紋章の中にある草花や宝石などを渡し、告白をするというのが一般的な風習となっていた。
ウルベルトが差し出した花、梔子は彼の家の紋章に使われているものである。彼の二つ名であった「口無し」も、実はそれに掛けたものなのだ。
『たしかに私は以前、お前のことを想ってもいないのに愛を口にした。あれは、間違っていたと思う。……すまなかった。そのせいでお前は私の言葉を信じられなくなっただろう?』
「……はい」
『だから改めて伝えるべきだと思ってな。……今度は冗談の類ではないと、分かってもらえたか?』
さすがにこれは勘違いしようがない。紋章の花と共に愛の言葉を向けられて、理解した。しかしこれまでウルベルトの言葉はすべて冗談だと思っていたので、その変化に自分の感情がついてこない。
戸惑って差し出された花を受け取れないままでいる私を見て、ウルベルトは嬉しそうに目を細めている。
『お前のそんな顔は初めて見たな。伝わったようで何よりだ』
「……あの、やはりからかっていますか?」
『ははは。そうだな、今のは気恥ずかしくてからかった。……だが私の気持ちには嘘はないぞ。お前が好きだ』
知ってしまったからなのか、彼の紡ぐ『好き』という言葉には熱があるように感じる。先ほどからずっと、魂を揺さぶる音でそんな言葉を注がれるから、私は全く落ち着けないままだ。
『改めて婚約も申し入れよう。返事は……急がない。だが、お前とお前の家にとっても悪くない話のはずだ』
貴族の結婚はお互いの家が納得していて、お互いに利益があればいい。この婚姻は我がディオット家に大きな利益を生むもので、こちら側に断る理由はない。ノクシオン家の利益といえば、彼の声を聞くことができる妻が手に入る、というくらいで。……いや、それもまた彼やノクシオン家にとってかなりの利益になるだろうが。
ただ、ウルベルトは家同士の利益だけを考えて結婚を提案しているわけではない。そこに私と彼の感情の開きがあるのが、私の戸惑いの大部分を占めている。
『そもそも貴族の結婚にこんな感情は必要ないからな。……お前は、私を愛さなくても構わない。今まで通り隣に立ってくれればいい。だが、この気持ちだけはどうか受け取ってくれ』
私の戸惑いの理由を見抜いたのか、ウルベルトはそんなことを言った。彼の台詞でさらに困惑しつつも、懇願されるように差し出され続けている梔子を受け取る。
それだけのことでウルベルトは柔らかい笑みを浮かべた。雨上がりの庭に残る水滴と彼の白銀の髪を照らす日の光の輝きは、まるで彼の喜びでも表しているように見えてくる。
(……ウルベルト様は……今までもこんな表情をしていたのかしら。気づかなかったわ)
私は彼を見ているようで、何も見えていなかったのかもしれない。……彼と出会った頃に、悪人だと決めつけて見ていた時のように。
『今日は疲れただろう? もう休め。ホテルまで送ろう』
「ウルベルト様も同じように水晶を探したのですから、ゆっくり休まれてください」
『ははは。疲れは感じないな。……今は気分が良い』
清々しいほどの笑顔をまっすぐに見ていられず目をそらした先に、二つの精霊の姿があった。風の精と水の精がじっとこちらの様子を窺っている。すっかり仲直りしたらしい二人は、楽しそうに手を取り合ってお喋りをしていたようだ。
『いちゃついてるなぁ。いいなー』
『仲が良くていいわねぇ』
とても居た堪れない。あまりにも居た堪れない。精霊には私の声が聞こえなくても、ウルベルトの台詞は聞こえている。あの熱のこもった言葉の数々を聞いていればそのような反応にもなるだろう。……一刻も早くこの場から、彼らの視界から消えたい。
私はその後、逃げるようにノクシオン公爵邸を後にして、ホテルで入浴をすませた後は夕食も取らずに眠ってしまった。
翌日目を覚ますと、ベッド脇のテーブルに昨日貰った梔子の花が飾られており、部屋には甘い梔子の香りが漂っている。それらは昨日の出来事が夢ではなく、現実だったということを如実に伝えてきた。……ああ、やはり落ち着かない。
「お嬢様、おはようございます。本日のご予定はどうなさいますか?」
「……帰るわ」
「……帰られるのですか?」
ユタが驚くのも無理はないだろう。せっかく観光の名所であるノクシオン領まで来ておいて、仕事を終らせて即帰還などもったいないと思っているに違いない。
私とて、余裕をもって仕事を終えたら観光をするつもりだったのだ。しかし今はおそらく、何も考えずに楽しむことはできなさそうなのである。
(……早く家族に相談して、じっくり考えたい。……落ち着かないもの)
ウルベルトの告白を受けてから私は妙に落ち着かない気分になっていた。頭も心も整理したいし、そのために家族と早く話がしたいのである。
残念そうな顔をしたユタだが、私の様子がおかしいのも理解しているのか、私の身支度を終らせた後はテキパキと帰り支度を始めた。
ウルベルトにも帰宅することを伝えなければ、と思った矢先に部屋の扉がノックされ、人が訪ねてきた。……もしや本人が来たのではないか、と背筋を伸ばしてしまったが、来訪者はホテルの人間だった。
「ディオット様にお手紙とお荷物が届いております」
「はい。どなたからでしょうか?」
「ノクシオン公爵様よりお預かりいたしました。お受け取りをお願いいたします」
ユタが対応し、ウルベルトからの荷物とやらを受け取ることになったのだが――なんとカートで複数の箱が運ばれてきた。一体何事かと思いながら、手紙の方を確認する。
要約すると『お前はすぐに帰ろうとするだろうから、家族や使用人に贈れる手土産をいくつか選んでおいたので、好きなように使え』というものだ。……気遣いができすぎている。
「公爵様は本当にお嬢様のことをよくわかっていらっしゃいますね」
「……私も今、それに驚いているところよ」
帰り支度を終えたら公爵邸に挨拶に向かう予定だったのだが、それよりも先にホテルへと帰りの馬車が到着し、今度こそウルベルト本人がやってきた。本当に全く何もかも先回りというか、仕事が早いというか。
(そういえば……最初から仕事が早い人だったわね。パーティーの後も気づいたら逃げ道が全部なくなっていて……なんだかあの頃が懐かしいわ)
ホテルのロビーで私を待っていたらしい彼は、目が合った途端に太陽のように輝かしい笑みを浮かべる。……それがなんだか本当に普段通りのせいで、私も緊張が解けていった。
正直、彼を見るまでどんな顔をしていいか分からなかったのだが、昨日のウルベルトの言葉通り今まで通りでいいのだろう。
「ウルベルト様、ご機嫌麗しいですね」
『ああ、お前に会えたからな。お前を見ると私は幸福な心地になる』
「……あまり、人前でそのようなことを言わないでください。どういう顔をすればいいのか分かりません」
『ははは。どうせお前以外に聞こえないのだから気にしなければいい』
そういう問題ではないのだが、まあこれもいつも通りではある。ウルベルトの様子は今までと何も変わりがない。……本当に、私が気付いていなかっただけだったらしい。
「此度もお疲れさまでした。……今回はもう、帰宅しようかと思います」
『ああ。次にゆっくりと観光をすればいい。その時は私が案内してやろう』
「では、その時はお願いいたします。家族への手土産まで手配していただき、本当にありがとうございました」
『何、お前の家族への印象を良くしようという下心だ。気にするな』
「……私の家族は、ウルベルト様には良い印象しか持っていないように思いますが」
帰って家族に相談するつもりではいるが、結果はすでに出ているようなものだ。ウルベルトと話しているうちに私の心も少しずつ落ち着いていく。
私が気にしていたのはおそらく――彼の言葉に一部、嘘を感じられたからだろう。その声は魂に響くからこそ、気づけたようなもの。それがずっと引っかかっていたせいで落ち着かなかったのだ。
(あの時……『お前は私を愛さなくていい』という言葉だけが苦しかったから、あれはウルベルト様の本音ではないわ。でも……私に気持ちを強制するつもりがないのは、本心なのね)
私はずっとウルベルトを頼もしい相棒として見てきた。このまま死ぬまで二人でこの仕事をやり遂げたいとは願っていたが、夫婦になることや夫婦として支え合うことは考えたこともなく、ましてや彼に恋愛感情を持てるかどうかなんて全く分からなかった。……何せ、私は思春期を家に引きこもって過ごしたのだ。恋愛経験などないのである。
(私もウルベルト様を愛せるという自信がなくて……この話を本当に受けていいかどうか、迷っただけ)
たしかにウルベルトは私にも自分を愛してほしいとは願っているのだろう。けれどそれを私に迫ることを、彼はしないと思う。それならば私は身構える必要はないと、こうして話しているうちに理解できた。
私はこれからも彼の隣に立ち、相棒として過ごす。そのうちに気持ちの変化があれば彼は心底喜ぶだろうが、そのまま変わらなくてもそれはそれで構わない、ということだ。
「それではウルベルト様、またお会いしましょう。……何か問題が起きた時は、すぐにでも呼んでくださいませ。いつものように、共に立ち向かいますから」
『本当にお前は頼もしいな』
「それはお互い様ですよ」
彼と別れる時には穏やかな気持ちでいられたし、馬車に乗り込む際に見た顔が寂しそうに見えた時にはくすりと笑えるくらいになっていた。
おそらくこの婚約はすんなりと成立するだろう。両親は大喜びするに違いない。……そう思っていたのだが、それどころではない騒ぎが起きてしまい、私とウルベルトは再び問題解決へと駆り出されることになった。
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