第15話 世界で一番美しい夕陽

 ハイデンに抱えられ彼の屋敷に戻ったアイリスは、ルタスとアンから大層手厚い看病を受けた。

 ぐったりと彼の腕の中で目を閉じるばかりのアイリスに、アンは珍しく焦った様子で部屋をあたため寝具を整え、ルタスもいつも以上の手際で薬湯と胃に優しい食事を作ってくれた。言葉にこそされないが、いつもよりあたたかな部屋とベッド、手厚い看病の手つきがアイリスと皆の関係性の進展を感じさせてくれた。


「疲れが出ただけでしょう。しかし、無理は禁物です。まずは療養なされよ」

「今ばかりは何でも私共を頼ってください。夜中であっても気になさらず何なりとお申し付けください」


 そう言って、ルタスとアンは寝具をアイリスの肩まで引き上げ、一礼をして下がっていった。


(二人とも、本当にとても優しい。勝手に頑張って、勝手に具合悪くなって、こんなに迷惑をかけてしまったのに)


 早く体調を治してまた屋敷のために貢献しなければ。まだ熱でぼんやりとする頭で、アイリスは一人そう誓った。少し熱が出ていること、頭痛と怠さがすること以外は症状もない。きっと薬湯を飲んで少し寝ればすぐに体調も戻るはずだ。

 けれど、熱の日の夜はどこか落ち着きがなくなるものである。なかなか眠気が訪れず、アイリスは何度もベッドの中で寝返りを打った。

 疲労は蓄積されているはずなのに、逆に目が冴えて眠れない。漠然とした心細さが胸を支配しており、ルタスもアンももう少し一緒にいてくれたらよかったのにと無い物ねだりをしてしまう。


(魔族に、側にいて欲しいと願うなんて……)


 きっと結婚前のアイリスなら気分が悪くなるような話だった。今はもう、彼らに全く嫌悪感などない。むしろ誰か、どんな用事でもいいから部屋の扉を叩いてくれやしないかと心待ちにしているくらいで──


 と、そんなことを思っていると、本当に誰かが扉をノックした。熱で夢と現実の境目がつかなくなったのかと混乱していると、扉の外から聞き慣れた低い声がそっと聞こえてきた。


「俺だ。まだ、起きているか」

「ハイデン……?」


 この屋敷の中で尤もアイリスの部屋に訪問することがなさそうな人物の声に、アイリスは更に驚いて少し上擦った声を出した。入室を促すと、暗い顔をしたハイデンが音もなく静かに部屋に入ってきた。暗い──というよりは、どこか気まずそうな。


「……寝ようとしている時に、邪魔をしてしまったな」

「え? …………あっ」


 自分が今無防備な寝間着姿であったことを思い出し、アイリスは慌ててガウンを手に取り胸元を隠した。夜更けに夫が妻の部屋にくる、というシチュエーションに全く夢を見なくなっているあたりに、アイリスの思考の変化が表れている。

 ハイデンはアイリスの枕元に適当に椅子を近づけると、そこに腰掛け、けれどしばらくは何も言葉を発しなかった。

 一体何をしにきたのかとアイリスは気になって仕方がなかったが、彼が口を開けたり閉じたりしている様子を見て、急かさず気長に待つことにした。


「……すまなかった」


 やがて静寂の中に落ちた言葉に、アイリスは一瞬聞き間違いかと思ってすぐに反応ができなかった。口も性格も悪いこの魔王が、聖女である自分に謝ることがあるなんて思わなかったのだ。


「……何故?」

「屋敷のために尽くしてくれていたことはわかっていた。温室育ちには過酷な仕事をこなそうと無理をしていることも。だが、それを止めることを俺はしなかった」


 アイリスは、今目の前にいるこの男は、本当に結婚初夜に自分の首を絞めてきたあの男と同一人物なのだろうかと目を疑った。まるで落ち込んでいるかのように複雑そうな顔をしているハイデンに、アイリスは慎重になりながらそっと尋ねた。


「つまり……私が倒れたことに、あなたは負い目を覚えているということ?」

「意外なことのように言っているのは嫌味か?」

「そうじゃないわよ。そうじゃないけど、だって…………それじゃまるで……」


 まるで心配をしてくれているようじゃないか。そう続けようとしたアイリスは、ハイデンの顔を覗き込んでハッとした。

 いつも険しい顔をしている彼の頬が──少しだけ赤い。気恥ずかしさを堪えるように、唇を横一文字に引き結んでいる。

 その姿を見た瞬間、本当に何故か、アイリスの頬もかぁっと赤くなってしまった。薬湯は飲んだというのに、まるで熱が更に上がってしまったかのようだった。

 慌てて顔を逸らしつつ、アイリスはドキドキと煩く鳴る心臓を必死に上から押さえつけた。


(今の、何? 何でそんな顔するの?)


 混乱しながらも、アイリスは彼の、言葉以上に素直な表情を思い出さずにいられなかった。

 相変わらず口も悪ければ性格も悪い。偽りのキスをするばかりで夫婦らしいことなんて一つもしたことなんてなかったのに。

 かつて、聖女である自分に向けられることは決してないのだと、痛い程に痛感した彼の笑顔。それと同じだけの素直な彼の感情が、今はこんなにも近くから自分に向けられている──


(可愛い、なんて。嬉しい、なんて。そんなことを思ってしまうなんて……)


 しばらく二人、それぞれに気まずさと驚きに沈黙していたが、やがてハイデンの方が先に口を開いた。


「感謝は、している。屋敷のために、アンやルタスの助けになろうとしていること自体には」


 慣れないセリフだからだろうか、ハイデンはやや拙い言葉遣いでたどたどしく話し続けた。


「だから、謝罪と礼を言いにきた」

「……それだけのために来てくれたの?」

「悪いか」


 吐き捨てるようにつっけんどんに言うハイデンだったが、まだ微かに赤い頬のせいでいつもほどは怖くなかった。アイリスはくすくすと笑うと素直に彼の謝罪と礼を受け止めることにした。


「ありがとう、気にしてくれて、伝えてくれて。あと、大樹からここまで私を運んでくれて」

「まったくだ。外で倒れられるのが一番迷惑だ。今度からはアンやルタスに心配をかけてくれるなよ」


 先程までのしおらしさはどこへやら、彼は怒った風な口調で腕を組みながらそう言った。一言余計なところは今も気になるが、彼が従者思いなことは伝わってきたから、アイリスも文句は言わないでおいた。


「うん。ありがとう」


 もう一度礼を言う。そんなアイリスをハイデンはしばらくじっと見ていたが、やがてアイリスの頬に大きな右の手のひらをあてがってきた。


「まだ、熱いな」


 言いながら、頬に添えられた手をするりと顎まで滑らせて、アイリスの顔を上向かせる。ゆっくりと迫り来る唇に、アイリスは久しぶりにどきりと胸を高鳴らせた。


「待って。聖歌は怪我は癒すけど、病は癒せないのよ」

「知っている」

「何か癒して欲しいものがあるの?」

「ないさ、そんなものは」


 言いながら迫ってくる唇はもう今にも触れ合いそうなほどに近く、アイリスは「ならば何故」と問い返すこともできずにぎゅっと目を瞑り、最後の悪あがきとばかりに声を張った。


「う、う……うつっちゃうわよ! 病気……!」

「俺はお前ほどヤワじゃない」


 そういう話ではない、と言い返す間もなく唇にやわらかな感触が宿る。いつもの強引なそれとは違う、労り深い優しいキスに、アイリスは声もなく驚きに目を丸くした。ゆっくりと、彼の力が重なった唇越しにアイリスの中に流れ込んでくる──

 いつもよりたっぷりと時間をかけて、二人は唇を離し正面から向き合った。


「今の……何したの?」

「魔族が病人に施すまじないだ。薬の回りが良くなるように、魔力を受け渡して弱った体の巡りを助ける。お前達神子が病人に祈ってやるような、ほんの気休め程度のものだがな」

「気休め…………」


 呆然と繰り返して、アイリスはとあることに気がついて眉を顰めた。


「それって、別に呪いを解く必要もないから、キスの必要はなかったんじゃ……」


 何のために力の受け渡しを唇と唇でしたのか。訝しむアイリスに、ハイデンはさらりと何でもないことのように答えた。


「すでに刻印が舌にあるんだ。そこに力を流した方が手っ取り早いだろう」

「そういうもの……かしら?」


 気休め程度のまじないであれば、陣を書く必要も刻印を使う必要もなさそうなものだが。

 小首を傾げるアイリスに、ハイデンは何故かしてやったり、という顔でにやりと微笑んだのだった。


「ああ。そういうもの、だ」






 それから三日後。

 アイリスはハイデンの力を借りて、もう一度大樹ラクナの前に来ていた。

 薬湯と栄養のある食事、そして手厚い看病のおかげで二日目には熱も下がっていたのだが、ハイデンを含む皆が「大事を取ってまだ休め」と言うので、大樹の元に来るのは今になってしまった。

 心配のしすぎだとは思ったが、皆がアイリスのために怒ってくれるのは本当に嬉しい変化であったから、ありがたくベッドで数日分の疲れを癒させてもらった。

 その分今日のアイリスは調子が良く、いつも以上に澄んだその声は大樹だけでなく傷ついた土地を、人を丸ごと癒していくようだった。

 のびやかな、清らかな歌を微笑みと共に歌い終えて。大樹にそっと手を押し当てたアイリスは、満足げに一つ頷いた。また少し傷は癒え、大樹が活性化したのがわかる。本当に地道なことだが、この調子で僅かずつでもアイリスが歌い続ければ、魔素の枯渇は防げるだろう。


「終わったわ、ハイデン」

「ああ。感謝する」


 言いながらハイデンが右の手のひらを差し出してくる。転移魔法を開くのだろう。アイリスが左手を重ねるのを待って、ハイデンが口を開いた。


「もう一箇所、着いてきてほしい場所がある」

「え? 別に構わないけど……」


 屋敷と大樹ラクナ以外に行く場所を知らないアイリスは、不思議がりながらも了承した。一体彼はどんな場所に用事があるのだろうか。

 二人の足元に血色の魔法陣が展開し、ハイデンの瞳が魔力を受けて燃えるように輝き始める。

 頭の中であれこれと行き先を想像していたアイリスは、次の瞬間目の前に広がった景色に思わず息を飲み込んだ。



 傷つき乾いた荒れた大地。赤茶の土ばかりが広がる殺風景な景色。それは、大樹ラクナがある場所と変わらない。

 けれど。アイリスの足が降り立った転移先。その数歩先は崖のように大地が断たれており、眼下には広大で美しい渓谷がどこまでも広がっていた。


 崖際まで歩み寄ったアイリスの金髪を、足元から吹き上がってきた風が強く掻き混ぜていく。夕暮れを控えた空の雲間から、幾筋もの薄明光線が降り注ぎ、渓谷を流れる川の水面をキラキラと輝かせている。

 頭上を渡り鳥の群れが駆けていく。その彼方には、遠く、天高く伸びる大樹ラクナの姿が微かに見える。大樹の枝葉が茂っていたのであろう空を見上げれば、力強い風に吹かれてぐんぐんと雲は流れ、空の表情が刻一刻と変わっていく──

 壮大で美しい絶景に、アイリスはハイデンと繋いだ手を離すことも忘れてほぅっと一つ吐息を零した。


「きれい…………」

「お前にも、そう見えるか」


 アイリスの隣でハイデンが微かに笑う。黄金の光に縁取られた雲と谷の輪郭を、彼もまた楽しんでいるようだった。


「昔から、ここは気に入りの場所なんだ。大樹からも離れていて民家もない場所だからな。ここだけは二千年前の傷を感じなくて済む」


 少しだけ間をおいて、ハイデンはもう一言付け足した。


「どこにいても魔王であることを求められるが、この景色の前ではそんな悩みも些細なものに思えてくる」

「とても荘厳な景色だもの。少しだけその気持ち、私にもわかるような気がするわ……」


 大自然が作り出す絶景を前に、アイリスは風の中笑顔で目を閉じた。幼い頃のハイデンもここにきていたのだと思うと、アイリスにも愛着が湧くようだった。


「どうして、この場所に私を?」


 隣に目を向けると、ハイデンは少しだけ言い淀んだ後、ぽつりと小さく呟いた。


「婚儀の後、夫婦は景色の良い場所に出かけるものだとルタスから聞いた」


 何の話かわからずに、アイリスはただ静かに薄荷色の瞳を一つ瞬かせた。


「だが、俺は生まれた時からずっと魔王で、この亡国と、あの屋敷しか知らない。……俺の知る限りで、この景色が一番〝景色の良い場所〟だったから、だ」

「……それって…………」


 向き合った二人の横顔を、沈み始めた夕陽の光が眩しいくらいにきらきらと輝かせていく。世界の全てが優しくあたたかな橙と、黄金の色に染め変えられていく。


(ああ、この人は…………)


 繋いだままの手に、知らず力が籠る。

 ハイデンという男は、魔王であること以外の何も知らないだけで、きっと本当は口も性格も悪くはないのだ。人との接し方を知らず不器用なだけで。アイリスは今この瞬間、確信を持ってそう思えた。


(だって、こんなに素敵な新婚旅行を提案できる人なんだから)


 嬉しさが込み上げてきて、アイリスは溢れんばかりの感情のままに、想いを込めた歌を口ずさんだ。

 聖歌とは違う、なんの力も持たないただの歌。アイリスの想いだけを紡いだ、なんの意味もない即興の歌。

 それは清らかさこそ聖歌には及ばなかったが、まるで赤子を癒す子守唄のような、人生を終えた人へ送る鎮魂歌のような。どこまでも優しくあたたかで包容力を感じさせる、慈愛に満ちた歌声だった。

 壮大な渓谷を臨むこの場所で、黄金の光を一身に受けて。聖女らしい純白のドレスに身を包み、大地を抱きしめるように歌うアイリスは、まるで本物の女神のような神々しさであった。


「かつて…………この世界には様々な種族が共存していたらしい。鍛治を得意とする者。腕力が優れた者。魔術に長けた者。歌を用いて癒しを与える者──」


 まるで独り言のようなハイデンの声に振り返る。強い夕陽の光のせいか、ハイデンの瞳に、一瞬きらりと輝く何かが見えた気がした。

 ハイデンは堪えるように懸命に瞬きをしないままで、目の前の大地をじっと見つめていた。


「けれど共存は叶わなかった。何度となく争いは起こり、多くの種族が潰えていった。……そんな話が魔族には残っている」

「私も……かつてこの地上に他の種族がいたらしいという話は、聞いたことがあるわ」


 最も優れ、最も神に近い種族が聖女や神子を生み出す人間である。

 そう習ってきた。アイリスはずっと、それを信じてきた。けれど。


「もしもそれが本当なら。共存をしていたことが本当にあるのなら」


 繋いだままの手に力を込めて、アイリスは目の前の景色に向かって祈るように囁いた。


「もう一度、同じ世界で生きていくことはできるんじゃないかしら」


 沈みゆく太陽が、こんなにも大きく燃えている。陽の傾きに合わせ表情を変えていく美しい渓谷を前に、アイリスの瞳にもじわりと感情のさざなみが押し寄せてくる。


「だって、今日の夕陽は世界で一番美しい夕陽だって。私、今、本当にそう思っているのよ──」


 アイリスの声に、いつまで待っても返事は返ってこなかった。

 けれど、太陽が沈みきり、空に星が輝き始めるまで。ハイデンはアイリスの手を、決して自分から振り解こうとはしなかった。

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