第14話 見習いアイリス、無理が祟る
それからのアイリスの毎日は忙しかった。
朝目が覚めたら、まずは自分で着替えて髪を結う。それから調理場に行き、ルタスの指示に従って野菜の皮を剥いたり朝食の配膳準備を行う。
朝食を終えたら皿洗いを手伝って、今度はアンと共に屋敷の掃除や洗濯をして回る。そうこうしているうちに昼食の準備のために調理場へ戻って。隙間時間ができたら書斎の本を借り、手際よく働くコツを学習する。
そんなことを朝昼夜と忙しなく繰り返し、夜は早めに就寝をする。
最初こそ慣れぬ仕事ゆえに失敗も多く、前日の疲れが取れずに早起きをするだけでもアイリスは大層苦労していた。けれど、三日、四日と連日同じことを繰り返していくうちに、少しずつながら手際の悪さは改善され、早寝早起きだけは習慣化することができてきた。
「アイリス様も、最近は野菜の皮剥きが上達して参りましたな。本日はほとんど手直しなく調理をすることができました」
朝食の配膳時にルタスにそんな言葉をかけられて、アイリスはぱっと顔を輝かせた。
「ほんとに? 少しは役に立てるようになってきたかしら!」
「そうですな。皿を割る頻度が、あともう少しだけ減るとよいですな」
「ご……ごめんなさい……」
恥ずかしさと申し訳なさから、上げたばかりの顔をゆるゆると俯けるアイリス。その近くで、朝食の片付けを手伝っていたアンがうんうんと無言で頷く。
「アイリス様は意外にも、繊細な作業を苦手とされているようです。掃除も洗濯も、もう少し丁寧に取り組んでいただけるとありがたいです」
「がんばるわ……」
しょんぼりと肩を落とすアイリスに、「でも」とアンは微かに目元を和らげて付け足した。
「本日の身支度はそこまで手直しの必要がなさそうです。髪の結い方を覚えましたら、次は髪飾りをその日のお召し物に合わせて選ぶことを覚えるとよろしいでしょう」
「……! うん!」
この数日間、彼らの教えに従い仕事に励んできたアイリスは、僅かながら彼らとの間にあった溝が埋まっていく感覚を覚えていた。
悲しい過去も確執も無かったことにはできないが、今を懸命に生きるアイリスに、アンもルタスも少しずつ素直な気持ちを伝えてくれるようになった。まだまだ仲が良いとは言い難い関係だったが、軽口を叩いてもらえる程度にはなってきたようだ。
そんな三人の様子を扉の外から見守っていたハイデンだったが、やはり今日も誰にも声をかけないまま、背を向け静かに去っていった。今彼の心の中に渦巻く感情がなんという名前なのか、彼自身にもわからないのだった。
従者達が久方ぶりに見せる明るい顔が、人間の、それも聖女の称号を持つアイリスに向けられていること。二千年前の恨みや憎しみを考えればとてもあり得ない、仲睦まじげな異種族同士の朗らかな笑顔。そして、それを容易く成し遂げてしまうアイリスという少女の力──
(調子が狂う……なんなんだ、あいつは)
これまでの聖女は血の濃さも力量もマートルには到底及ばなかったから、歴代魔王も思い切った接触はしてこなかった。けれどこの二千年間、聖女の称号を持つ者が魔族のために涙を流したり、魔族の痛みを癒したいと願ったことなど一度もなかった。まるで害虫を見るような、冷たい目を向けてくるばかりで。
(あいつは、違うのか。あいつとなら、これまで叶わなかったことにも手が届くのか)
そこまで考えて、ハイデンは力無く首を横に振った。そんな考えがちらつくたびに、いにしえの魔王の記憶と激しい憎悪が込み上げてくる。まるで変化を嫌う防衛本能のように、忘れるな、信じるなと叫ぶように──
「……くそっ」
口汚く吐き捨てて、ハイデンはぐしゃぐしゃと自身の前髪を掻き混ぜた。聖女でも貴族でもない、一人のメイドのように甲斐甲斐しく働くアイリスを見ていると、複雑な感情が溢れてあふれて、何故か冷静ではいられないのだった。
その日の午後。アイリスは隙間時間を縫って屋敷の書斎で勉学に励んでいた。最近読んでいるのは、もっぱら使用人のノウハウが書かれた教本である。
夕方の涼しい風が窓の隙間から吹き込んできて、アイリスはぶるっと身震いをした。動きやすい軽めのドレスを着ているからか、少し背中がひやひやとする。
「そろそろ、お夕飯の準備のお手伝いにいかないと……」
読みかけの本を閉じ、書棚の中に片付ける。屋敷の書物はやはり魔族所有のものというだけあって、魔術の基礎や応用について書かれたものも散見される。アイリスも興味本位でその内の何冊かをぱらぱらとめくってみたことがあるが、まったく内容がちんぷんかんぷんで、解読は早々に諦めた。
(呪いの解き方がもしわかれば、ハイデンの苦しみも少しは和らげてあげられるかもしれないのに)
そこまで考えて、アイリスは自らの思考に微苦笑した。きっと数日前までの自分なら、書斎があるとわかるや否や、自分の舌に刻まれた呪いの解き方だけを探していたことだろう。
多くのことを見て、知って。いつの間にかアイリスの頭の中は、アンやルタス、そしてハイデン。この屋敷のために少しでも何かをしていきたいという気持ちでいっぱいになっていたのだった。
「……っくしゅん!」
盛大なくしゃみをして、アイリスは冷えてきた肩を両手でさすった。調理場の炎のあたたかさが今は少しだけ恋しい。
と、そんなくしゃみの音に引き寄せられるかのように、書斎の扉がノックもなしに押し開かれた。現れたのは今日も貴族らしく、美しい刺繍が施されたベストと真っ白なシャツに身を包んだハイデンであった。貴族の仕事をしていたからか、今の彼ははちみつ色の髪に空色の瞳となっている。
「こんなところにいたのか。忙しなくあちこちを移動するから捜すのに困ったぞ」
「ああ、ごめんなさい。何か私に用だった? 私に出来ることならなんでも言ってちょうだい」
にこりと微笑むアイリスに、ハイデンは微妙な顔を作って口元を歪めた。これまで彼女から滲み出ていた〝愛されて当然〟というオーラはどこかへと消え、さっぱりとした表情からは真摯さと健気さが見えるようになっている。
しかしその真面目で懸命な面持ちからは、どこか焦りにも似た、行きすぎた努力が見え隠れしているようにも思えた。
「そろそろ大樹ラクナを癒しに行って欲しいんだが…………頼んでもいいか?」
「当たり前じゃない! でも私、そろそろ夕食のお手伝いをしにいかなきゃならないの。だから今すぐ行きましょう!」
長い金髪を高く一つに結えなおしながら、アイリスはてきぱきと笑顔のまま答えた。その間もぶつぶつと、「帰ってきたらルタスの手伝いをして」「夕食の前にアンの手伝いにも行かなきゃ」と今後のスケジュールらしきことを呟いている。
「…………別に今からでなくても構わないんだが」
「いいえ。魔素が無くなってしまう方が大変だわ。少しでも早く癒した方がいいと思うの」
「それは、そうだが……」
ハイデンもそう思ったからアイリスを捜していたのだ。異論は勿論ない。けれど、彼女はハイデンが思っていた以上に慌ただしそうに──そして危うそうに見えた。
「本当に……大丈夫なのか?」
「大丈夫!」
らしくもなくそう聞いてしまったのは、流石に何か怖いものを感じ取ったからだった。
しかしアイリスがさっさとハイデンの手を握り転移を急かしてきたので、それ以上は何も言わずに転移魔法を展開することにした。
ハイデンの髪が、瞳が、本来の色に変わり、大きな魔法陣を通して二人の身体は空間を飛び越える。
やがて亡国ノーフィアにつくなり、アイリスはなんの感慨深さも持たず、まっすぐに大樹の根元まで足早に近づいて行った。後の予定を気にしているのだろう。
「ハイデン」
「……ああ」
唇を差し出され、ハイデンも彼女の顎を指ですくって解呪のキスで求めに答える。いつも通り呪いの刻印が刻まれた彼女の舌に魔力を注ごうとして──ハイデンは微かに眉を顰めた。
(熱い……?)
絡む舌が、触れる頬が。燃えるように熱く、ハイデンは思わず唇を離すなり彼女の顔を真正面からまじまじと見つめた。
先程は気づかなかったが、よく見るといつもよりアイリスの顔が赤い。澄んだ薄荷色の瞳も潤んでおり、これはいよいよ普通ではなさそうである。
「おい、お前──」
「じゃあ、歌うわね」
ハイデンの制止の声が聞こえなかったのか、アイリスは笑顔のままポニーテールの金髪とドレスを揺らして笑顔で振り返った。
大きく息を吸い込み、透明な歌声で癒しの調を奏でようとして──突如ぐらりとアイリスの身体が大きく傾いた。
「……っおい!」
硬い地面に向かってまっすぐに倒れていく彼女の身体を、ハイデンは大慌てで駆け寄りすんでのところで抱き留めた。身体を仰向かせ金髪を指で除けてやると、焦点の合っていない朧げな瞳と、真っ赤に色づいた頬が顕わになった。
「…………あれ? 私、たおれてる…………?」
ぽやん、とした声でアイリスがそんな言葉を朧げに呟く。
「だいぶ駄目そうじゃないか、お前……」
あまりに酷い様子に、流石に唖然としながらハイデンは声を落とした。額に手を当てがうと、やはり熱があるようだった。それなのに、アイリスはハイデンの腕から抜け出そうと、何故か必死にもがくのだった。
「ごめんなさい、ちょっと立ちくらみが……でも、もう大丈夫だから」
「大丈夫なわけあるか。自分の体調のこともわからないのか、お前は!」
立ちあがろうとするアイリスを力尽くで抱きしめて、ハイデンはそのまま彼女の体をひょいと横抱きに抱え上げた。
よくこの体調で日中も働けたものだ。皆の役に立ちたい──その強い意志だけで保っていたのかもしれない。
「自己犠牲と貢献の境もわからないのか、この温室育ちは……倒れるまで頑張る奴があるか。馬鹿じゃないのか?」
無性にイライラとして、ハイデンは病人に向かって必要以上に攻撃的な言葉を吐いた。
自分を損ねてまで誰かのために頑張るだなんて、それで相手が喜ぶと思っているなら愚かなことだとハイデンは思った。無理をされて喜ぶような奴はいないのに、そんなことをされても心配になるだけなのに、と。
そこまで考えて、はたとハイデンは思わず自らの動きを止めた。これではまるで、自分がアイリスを案じているようではないか。
「迷惑、かけて、ごめんなさい……」
小さな声でアイリスが謝る。熱で潤んだ瞳が、まるで泣き出す寸前の子供のような儚さをたたえている。
「早く歌わないと……魔素が…………」
「その体で神聖力を使うのは無理だ。俺達と違って、お前達神子は体内のエネルギーを使って奇跡を起こすからな。それに、魔素もまだ余裕がある。案じるな」
これ以上喋るなと、ハイデンの右手の親指が乾いた彼女の唇をなぞる。けれどアイリスは嫌がるように首を振ってハイデンの指を払い除けると、ひどく不安そうな顔で続けた。
「でも、私がしたことは……マートル様がしたことは、この程度の頑張りじゃ償えないわ……」
痛々しい姿で懇願するアイリスに、ハイデンは胸の内を掻き乱されたような錯覚を覚えてぐしゃりと顔を歪めた。
聖女への憎しみも怒りも、変わらずハイデンの中にある。当時の魔王の鮮烈な記憶と共に。
けれど、アイリスが痛々しい姿で苦しんでいる姿を見た時、無理をしなければと焦る言葉を聞いた時。ハイデンの胸にはちくりとした奇妙な痛みが生まれていた。そんな姿を見たいわけではないと、そんなことは望んでいないと、喉元まで言葉が出かかって──ハイデンはしばらくの沈黙の後、ゆっくりと言葉を選び直した。
「…………当たり前だ。お前一人の努力如きで、俺達の気持ちは収まらない。起こったことは変えられない」
そこまで言って。ハイデンは、これも正しい言葉ではなかったかもしれないと声を途切らせた。
ハイデンの腕の中、アイリスは、どんな言葉を言われても仕方がないと思っているかのように、ただ、切なげな笑みをうっすらと口元に浮かべている。浅い呼吸を苦しげに繰り返す彼女に言うべき言葉は、きっと、もっと他にある。
「だから──」
ハイデンに正解はわからない。もどかしいような、苛立ちに近いようなこの気持ちが何故胸の奥底から湧いてくるのか、その理由もわからない。
けれど、怒りや憎しみで自らを守るよりも、今は腕の中で弱く呼吸をするこの少女に伝えるべき言葉があると思ったから。
「──だから。お前に出来ることをまた出来るようになるために、今は体を休ませろ。そんな体では、屋敷のことも大樹のことも任せられん」
腕の中で、アイリスが熱で潤んだ瞳をまん丸にして驚いている。その反応で、何からしくないことを言ったのだと気がついたハイデンは、慌ててまた言葉を付け足した。
「病人の世話という手間が増えるのも御免だからな。感染されてもかなわん」
「ふふっ…………あははっ」
ハイデンの言葉に、アイリスが堪まりかねたように声を立てて笑った。目尻に涙さえ浮かべて、ハイデンの腕の中、アイリスはひどくやわらかく、眩しいくらいに微笑んだ。
「ありがとう、ハイデン。あなたの気持ち、ちゃんと伝わってると思う」
「…………調子に乗っていると放り落として一人で帰るぞ」
「ええっ、酷い!」
アイリスの腕が、放り落とされてたまるかと、ハイデンの首にしっかりと回される。熱い身体からほのかな甘いサシェの香りがして、ハイデンはまた微妙な顔になって眉を顰めた。
煩わしいような、もどかしいような、苛立ちにも似たこの気持ちをどう処理したらいいのか。魔王としての生き方しか知らないハイデンには、全く検討もつかないのだった。
「──嘘。ハイデンが優しい人なのは、少しずつわかってきているつもりよ」
アイリスの熱い吐息が耳にかかる。
ハイデンはいつものように何か軽口を返そうとして──上手く出来なくなって、ただ、空を仰ぎ見た。
「調子が狂う…………」
悲しい記憶ばかりが残る亡国の青空に、ハイデンの独り言が吸い込まれていく。
かつての聖女と同じ髪型、同じ瞳。けれどかつての聖女とは似ても似つかぬその心根。
ハイデンは汗で額に張り付いてしまっている金の髪をかき上げてやると、取り落とさないように、そっとアイリスの身体を大事に抱きしめなおしたのだった。
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