第9話 セカンドキスは癒しのために

 すっかり暗くなった森の、木々の濃い影の中。ハイデンはアイリスの涙が落ち着くまで急かすことも責めることもせず、ただその場で夜の星を見上げていた。

 随分落ち着いた鼻を最後に一つ啜りながら、アイリスはチラとそんな彼の横顔を見上げた。闇色の癖っ毛を夜風にそよがせ、魔力の輝きを失った瞳いっぱいに銀砂の星を映し込んでいる。目鼻立ちのくっきりとした輪郭も、程よく引き締まった体も、荒い言葉を使う口さえ閉じていれば本当に美しい。


(お姫様抱っこなんて、生まれて初めてされたわ……)


 すっかりほつれてしまった髪を、髪留めを取り外して背に流す。解放された黄金の輝きがふわりとアイリスの背に広がって、それはまるで光る翼のようであった。


(また、この人に初めてを奪われてしまったんだわ。口が悪くて、性格も最悪で、でも黙っていたらとても魔王とは思えないこの人に…………)


 じっとアイリスが彼の横顔を見上げていると、その視線に気がついた彼が途端に顔を難しく顰めた。せっかくの絵画のように美しい見た目が台無しだと、アイリスは小さくため息を吐く。


「女はすぐ泣くから好かん。ようやく静かになったか」

「……ええ。待たせてごめんなさい」


 素直に謝るアイリスに、ハイデンは意外そうに目を丸めた。強気に食ってかかってきていた彼女とは別人のように、今のアイリスはしおらしい。


(よほど怖い思いをしたのか。……無理もない。聖女の位にある者が殺意を向けられる経験はまずないだろうしな)


 薄荷色の瞳はまだ少し潤んでいて、ハイデンは落ち込んでいるように静かになった彼女の体をじっと検分した。上から下まで検めて、ようやくドレスの裾が燃え焦げていることに気がついた。スカート部分をハイデンが掴んで捲ると、「きゃあ!?」と甲高い悲鳴が頭上から上がった。


「な、な、何するつもりよ! こんな外で……破廉恥! 変態!」

「何を考えているか知らんが馬鹿言ってないで静かにしておけ。……怪我をしたのか」


 ハイデンに指摘され、アイリスは「え?」と素っ頓狂な声を上げた。彼が生み出した魔術の光に照らされ、左足のふくらはぎに火傷が広がっているのがようやくわかった。恐怖と混乱から痛みを自覚する暇もなかったのだ。


「本当だわ。気づかなかった……」

「これは薬草を使っても化膿はするな。安静にしていれば治るだろうが……それでは時間がかかりすぎるか……」


 しばらくぶつぶつと呟いて思案していたハイデンだったが、ちらとアイリスを見ると、怒っているかのようにも見える怖い顔ですごんできた。


「おい。お前の力があればこのくらいの傷は治療できるんだよな?」

「え、……ええ、まあ、この程度なら。でも、歌を歌えたら、の話だけど……」


 戸惑いながらのアイリスの言葉に頷いて、ハイデンは一歩彼女へと近づいた。


「ならば自分の力でその傷を治せ」

「え、でも、どうやっ──」


 どうやって。

 そう尋ねようとしたアイリスの唇に、何の前触れもなくハイデンの唇が重なった。


「──こうする」


 やわらかな唇と唇の間で、囁くように言葉が転がる。

 そっと離れていった彼の顔を、しばらく呆けたように見つめて──ようやくアイリスは自分がいま何をされたのかを察して頬を赤らめた。


「もっとなんとかならないの、この呪い」

「つべこべ言わず早く治せ。俺はお前を背負って屋敷まで移動をするのは嫌だからな」


 何とも思っていなさそうなハイデンの言葉にぷぅっと頬を膨らませ。アイリスは恐るおそる、その舌に聖なる歌を一音乗せた。

 舌は──痛まなかった。清らかな、美しい愛の歌が暗い森の中にしとやかに広がっていく。それは決して大きな声ではなかったが、満天の下、彼女の歌は森の草木を、大地を、全てを洗い清め広がっていくようだった。

 歌声にあわせ、みるみると彼女の左足を爛れさせていた火傷が消えていく。痛みが完全に消えるのを待って、アイリスはそっと歌を終えた。


「うん、治ったわ。……ありがとう。おかげでもう歩けそうよ」


 にこりと微笑むアイリスを、ハイデンはしばらく睨むように凝視していたが、やがてため息と共にふいと視線を逸らした。それと同時に、その手に集中させていた魔力を霧散させる。


「せっかく聖歌が歌えるようになったというのに、俺への攻撃はしなかったな」

「警戒していたの?」


 不思議そうに尋ねて、それからアイリスはころころと鈴が転がるような綺麗な声で笑った。


「言ったじゃない、助けてくれてありがとうって。助けてくれた相手にそんな卑怯なこと、できないわ」

「甘い。これだから温室育ちは」


 ぐい、とアイリスの腕を引き寄せ乱暴にその唇を再度奪う。再度の呪いの付与であろう。


「……それに、さっき歌を歌ってみてわかったのよ」


 乱暴なキスにほんのりと頬を赤らめながら、アイリスは唇を指で隠しつつ小声で囁く。


「なんだかいつもの半分も力が出せないの。さっきのキス……呪いの全部を外してくれたわけじゃなかったんでしょう?」

「その通りだ。流石は腐っても聖女。勝ち目のない戦いをする程の阿呆ではなさそうで安心した」

「……ほんと、口を開くと全てが台無しね、あなたって人は」


 呆れれば良いのか、怒れば良いのか。胡乱げな目で呟いて、アイリスは小さく吹き出した。


(不思議。さっきまであんなに全てが嫌になって、心の行き場がわからなくなっていたのに。この人と話していると、落ち込む暇も奪われてしまうみたい)


 全てが規格外で、全てが常識の外側で。腹も立つし許せないことも多いけれど、乱暴なくらい強引な彼の存在は、アイリスの悲しみを今だけは軽くしてくれているのだった。


「さっきの魔族の男の人……。せっかく私の声が戻ったのだから、癒してあげられたらよかったわね」


 何気ないアイリスの呟きに、ハイデンが訝しげに眉を顰める。


「……あ。もしかして魔族の怪我に私の歌声は逆効果なのかしら」

「いや…………そうではないが」


 一瞬口篭って、ハイデンは少しだけアイリスに向き直った。


「お前達聖女にとって、魔族はただの殲滅対象だろう。傷の具合を心配することがあるのか?」

「それは…………確かに、そうね。……なんでかしら。私も不思議だわ……」


 再び歌えなくなった喉に指で触れながら、アイリスは「ただ、」と続けた。


「あの魔族……なんだかハイデンやアンやルタスと違って、朦朧としてるみたいだった。私はむしろ、ああいう魔族しか知らなかったけど、もしもそうではなく何か理由があるのなら…………話せばわかりあえるのなら」

「やはり、甘いな。これが人間側を代表する力の持ち主とは。呑気すぎて頭痛がしてくる」

「何よ! あなたが聞くから答えたんじゃないの!」

「──だが」


 喧嘩を売られたのかと声を荒げたアイリスの目を、血紅色の瞳がまっすぐに覗き込んだ。


「確かに、俺もあいつを傷つけたくはなかった。……あの傷を癒せるものなら、癒したかった」

「──じゃあ!」


 きらきらと目を輝かせて、アイリスは背伸びをして彼に縋りついた。


「さっきの彼を呼んでちょうだいよ。もう一度呪いを外してもらえるなら、きっと痛みを取り去ることができるから!」

「そんなわかりやすい取引に応じるか。お前、呪いを解いた途端にここから逃げるつもりだろう」


 名案だとばかりに笑うアイリスをハイデンは軽く手であしらうと、さっさと夜の街道を屋敷に向かって歩き始めた。置いていかれてはたまらないと、アイリスはすっかり傷が癒えた足で走って追いかけ、彼の顔を横手から覗き込んだ。



「そ、そんなことないわよ! さっきは信じてくれたのに、なんで今度は信じてくれないのよ!」

「誰がお前なんか信じるか。魔族にだって医療も薬草もある。お前みたいな奴に頼らずとも、その程度のことは自分達で出来ると言っているんだ」

「何よー! さっきちょっと頼ってくれそうな雰囲気だったじゃない! どうしてあなたっていつもそう、癪に触る言い方しかできないの!?」


 鳥達も寝静まった森の中を、ぎゃあぎゃあと魔王と聖女が喧嘩をする声がこだまする。相変わらずの二律背反。けれど彼らの声にはどこか賑やかな響きが含まれていた。


「そもそも、結婚した翌日に家を飛び出す奴があるか。そういうところがちんちくりんだって言ってるんだ、このポンコツ聖女」

「そもそもって話ならあなたが私を大事にしないからでしょう! これだから乙女心がわからない魔族は!!」


 少しうるさく、けれど少しだけは楽しそうに。

 契約上の夫婦は、星空の下を並んで帰路に着くのだった。






 一方その頃──


「モリアス様。本日の報告書です」


 聖都リサンチア中央部。教会内の執務室にて。

 蝋燭の灯りを頼りに事務作業をしていた司祭モリアスは、神子レイルから本日の巡回報告を受けていた。


「また魔族の目撃報告か……」

「はい。結界は変わらず正常に機能しているのですが、一体どこから侵入してきているのか……」


 そばかす顔の神子は少年らしい高めの声で弱気に呟いた。


「ほつれのない結界内に魔族が出現するなんて。やはり新手の魔術を編み出したのでしょうか」

「これだけの情報でそう決めつけるのは早計ですよ、レイル。……魔族が消えた方角はわかりますか?」

「はい。西の方角に消えたと……」

(ハイデンの屋敷がある方向か…………)


 静かに海色の瞳を細めたモリアスは、すぐに笑顔を取り繕うとレイルににこりと微笑んだ。


「ご苦労様でした。後は私がやっておきましょう。明日に備えゆっくり休みなさい」

「はい。おやすみなさい、モリアス様」


 生真面目に一礼をして、レイルが執務室の外に去っていく。それを待って。

 モリアスは椅子から立つと、部屋の窓から夜の聖都を睥睨した。


「ハイデン……その笑顔の裏、必ず私が突き止めてやる」


 窓ガラスに映る青い目が、ナイフのように鋭く冷たく細められた。


「そして、アイリス。私が必ず君を──この手で救い出してみせる」

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