第8話 あくまで契約を守るため
魔族の屋敷を抜け出して、庭を横切り屋敷の外を一路目指す。
めちゃくちゃに走ったせいで結い上げていた髪の毛も綺麗なドレスも枝葉にひっかかり、ほつれ、汚れてしまっていた。ヒールのパンプスを履いた足が、走りくたびれてじんじんと痛む。
綺麗に整えられた庭にはやはり誰の気配もなくて、気品あふれる大きな屋敷はどこかがらんと空虚に見えた。広いばかりで人気のない敷地内。逃げ出すなら絶好のシチュエーションだ。
(ここから聖都中心部までどのくらい徒歩でかかるんだろう……夕暮れまでに辿り着けるのかしら……)
結婚式の日は幸せでいっぱいだったし、馬車に揺られてこの屋敷までどれくらいかかったのか、アイリスはまったく覚えていなかった。それに、馬車での移動時間を徒歩に置き換えることもアイリスにはできない。外出の経験が乏しいから、時間の感覚もわからないのだ。
(いいえ。時間計算のことだけじゃない。恋愛も、結婚も、人との触れ合い方だって、わたしは全くわかっていないんだわ)
くたびれた足が痛みに負けてゆるやかに歩を止める。
教会にいた頃はみんなが愛してくれたから、自分から人に話しかける努力をしたこともなかった。周りに注目されるのが当たり前で、そうでない環境ではどのように振る舞うのがよいのかなんて、ちっともわからなかった。
本で得た恋愛の知識も、現実では全く役に立たない。物語のヒロインは常に世界の中心にいて、誰からだって愛されていて。たとえ敵がいたとしても、王子様からだけは愛されていたはずなのに──その大前提が覆ることがあるなんて、アイリスは本当に思いもしなかったのだ。
「私、この十八年間、一体何をしてきたんだろう……」
よろけた足を踏ん張れずに、アイリスは淑女らしからぬ姿で大地の上に無様に転んだ。
擦りむいた腕からじわりと血が出る感覚。それと同時に落胆と苛立ちが涙となって視界の邪魔をしはじめた。
泣いてもしようのないことだったが、教会の中で神子達と清らかな歌を歌い、世界のために善行をしていると実感できていた日々が今は恋しくて仕方がなかった。外の世界がこんなに怖いところだなんて、誰も自分を見向きもしない現実がこんなに不安を誘うことだなんて、知らなかった。
初代聖女が魔族にした行い、聖女を恨む魔族の気持ち、まるで人間と変わらない生活と外見をしている魔族──初めて知ることが多くて、まるで無知であることを責められているようで、その上でハイデンに突きつけられた拒絶がトドメとなって、アイリスはすっかり心挫けてしまっていた。
「私が何をしたというの? ただ結婚しただけだわ。……知らなくてよかった。知りたくなかった。こんな風な思いになるくらいなら、全部──」
アイリスは随分長い間大地に転んだまま感情の波を耐えていたが、やがてゆっくりと身を起こすと、くたびれた足を引きずるようにして歩き始めた。
太陽は既に天頂から傾いてしまっている。今から歩き始めても、きっと今日の内に教会に辿り着くことはできない。かといって、もうこの屋敷にアイリスの居場所はないのだ。誰からも愛されていやしないのだから。
「……さようなら」
魔族の屋敷を振り返り小さく呟くと、アイリスはとぼとぼと敷地を出て、街道を聖都中心部に向かって遡り始めた。ドレスも髪も乱れて、顔も土と涙で汚れて、これが聖女の成れの果てかと思うとやるせない気持ちになってくる。落ち込む機会が少なかったこれまでの人生である。この躓きは、アイリスにとってはかなりの大きな衝撃となっていた。
飲まず食わずで休みもせずに、アイリスはひたすら森の中の街道を歩き続けた。陽がすっかり傾き影が伸びて、そんな時間になってもアイリスの気は全く晴れることがなかった。むしろ、これまでの人生の意味を思うと無性に泣きたくなる思いだった。
(誰か、何が正解だったのかを教えて欲しい。何を恨めばいいの? 聖女のくせに呪われた私をみんなはどう思うの?)
そう考えると、のろのろと歩き続けていた足が不意に止まった。結婚をした後に教会に戻ってくるなんて、前代未聞である。その上、呪いの刻印を受けるなんて聖女として失格と指をさされてしまう気がした。今まで愛されていた皆からさえも──
夕時の冷たい風が吹いて、アイリスはブルっと身を震わせた。見上げれば、いつしか空は茜色に染まり、一番星が強く煌めき始めている。もうじき夜がやってくるのだ。
(早く明るい場所に行かなきゃ……夜は魔族が出やすい)
力が使えない今、魔族との対面は絶対に避けなければならない。もしも致命傷を負った時、それを癒すこともできないのだから。
(早く、せめて民家まで──)
歩く足を早めるアイリスだったが、まるでその願いを嗅ぎつけたかのように恐れていたモノはやってきた。
びゅうっと強い風が一陣吹いたかと思うと、薄暗い街道の向こうに唐突に人影が現れた。紫黒の髪に血のように赤い瞳──
(魔族──!)
ざわざわと風にうるさく揺れる木の葉が、漆黒の影を大地に落とす。美しい茜色をしていた空が、宵の色にその色を変え始めている。世界から、ゆっくりと光が薄れていく──
「あ、ぁ…………」
言葉にならない呻き声を漏らして、魔族がその手をゆるりとアイリスにかざした。瞬間、その手の先に血のように赤い魔法陣が展開される。
(……来る!)
反射的に地を蹴り右手に大きく跳ねたと同時、先程までアイリスがいた地面を炎の槍が貫いた。魔族が扱う魔法である。
避け損ねたドレスの裾が火の粉に当てられじわりと黒く燃え焦げていく。アイリスはそれを手で払いながら、次なる攻撃に備えて体勢を整えた。魔族と対峙するのは初めてではない。相手の攻撃を避けながら魔を祓う歌を紡ぐことには慣れている。
(けど、この舌じゃ歌えない……!)
焦っている間にも魔族から放たれた炎の槍が幾本もアイリスに迫り来る。最初こそなんとか転げるようにして逃げていたアイリスだったが、重たいドレスではいつも通りの動きはできない。靴が大地を踏み締め損ね滑ったところを見逃さず、魔族は燃え盛る炎の槍をまっすぐに彼女へと放った。
「……っ!」
アイリスは反射的に大きく両手を突き出すと、結界を展開するための歌を紡ごうとした。それは彼女の身に染みついた癖でしかなかったが、呪いはそんな彼女の都合まで思い遣ってはくれなかった。
「あ゛、っぅ……!?」
聖歌を舌に乗せた瞬間、そこに刻まれた刻印が灼けるように痛み、アイリスは堪らず悲鳴を上げながらその場にしゃがみ込んだ。
結界を張れていれば防げていたはずの炎の槍が、もう目前まで迫ってきている。アイリスの頭を、胸を焼き貫かんと、まっすぐに──
「嫌……」
歌の代わりに口をついて出たのは、皆を助け守り続けてきた聖女のものとは思えぬ、か弱い少女の情けない悲鳴だった。
恐怖に涙が盛り上がる。死にたくないと体が震える。こんなところで終わりたくないと、心の全部でアイリスは叫んだ。
「嫌……誰か、誰か──」
ぎゅっと閉じた瞼の裏に浮かんだのは、何故だか大嫌いなはずの男の、人間らしい無邪気で優しいあの笑顔だった。
「助けて……ハイデン…………ッ」
ばちぃ、と空間が裂けるような音が耳を打った。まるで雷が炸裂をするような──
ふわり、と唐突に身体が浮いた。縮こめていた身体全部をあたたかさが包み込んで、ようやくアイリスはそっと瞼を開いた。
目の前に、紫黒の髪と血紅色の瞳を持った男の顔があった。少し癖っ毛の髪を風に靡かせ、赤い瞳を魔力に妖しく輝かせて。アイリスの体を横抱きにする形で両手でかかえ、彼は凛と、夜の中静かにそこに立っていた。
「…………ハイデン……?」
呆けた声で、確かめるように彼の名を呼ぶ。疑問系になってしまったのは、アイリスの認識では彼は自分を殺したいほど憎んでいて、助けを求める声に応じてくれるような人物ではないと思っていたからだ。
「どうして……」
「どうしてもクソもあるか!」
アイリスを抱きかかえたまま、ハイデンは至近距離から困惑するアイリスの顔にずいっとその怒り顔を近づけてきた。
「俺は言ったよな? 屋敷から外に出るなと。大人しくしていろと。放っておけばそのうち戻ってくるかと思っていたのに、結局ふらふらとこんな遠くまで呑気に散歩しやがって!」
思いの外強く怒られて、アイリスは目を白黒させて彼からの叱責を受け止めるしかなかった。
「ろくに力が使えないくせに屋敷の外に向かう奴があるか! 屋敷内の者ならお前に手は出さないが、外の者は別だ! そんな匂いをプンプン振り撒きながら歩いていれば、襲われても文句は言えんぞ!」
「そ、そんな匂い……?」
「マートルの血の匂いだ! ……お前、聖女のくせに何故魔族が人間を求めているのかもわからないとは言わせんぞ!?」
「な、何よ! 知らないわよ、そんなの! そんな言い方しなくたっ、てっ……!?」
唐突にぐんっと身体に重力の負荷がかかり、アイリスは言葉を飲み込んだ。ハイデンが魔族の攻撃を避けるために後ろに大きく跳躍したのだ。
「口を閉じておけ。舌を噛むぞ」
言うなりくるりと宙に指を走らせ、ハイデンは結界のようなものを展開した。慌ててアイリスが口を閉じると同時、バチィッと激しい音がして、炎が雷撃に散らされる。先ほどの炸裂音は彼が攻撃を払ってくれた音だったようだ。
(同じ魔族なのに、魔王のハイデンに攻撃をしてる……? 一体どうして……)
「チッ……やはり少し痛くしないと届かないか」
ハイデンは短くそう呟くと、ふらふらと彷徨いながら近づいてくる魔族に向けて、ピッと右手の人差し指を突きつけた。
「……少し、痛むぞ」
そう宣言した直後。ハイデンが放った雷撃が魔族の肩を擦り、夜の森に魔族の絶叫を響かせる。
「すまない。……俺の声がわかるか」
アイリスを抱えたまま、ハイデンは苦しむ魔族のもとにゆっくりと歩み始める。先程まではどこか焦点があっていない幽かな存在であったが、ハイデンが一歩近づくごとに、不思議と魔族の輪郭がくっきりと明らかになり始めた。どうやら若い男の魔族のようだった。
「ぁ……お、王…………?」
「この女は俺の嫁だ。手出しは許さん。他の者にもそう伝えておけ」
先程までよりはっきりとした声、しっかりとした焦点。まるで夢から醒めたかのようにぼんやりとしていた魔族の男は、ハイデンにそう告げられると慌てて一礼を返して夜の中に消えていった。どこかへ転移をしたものらしい。
ふわり、と抱き上げられた時と同じ優しさでアイリスは大地に降ろされた。
すっかり暗くなった夜空の下、不機嫌そうにこちらを見遣るハイデンに、アイリスは戸惑いながら問いかけた。
「殺したいくらい憎いんじゃ……?」
「…………仕方がないだろう」
はぁ、と大きなため息を吐いて。ハイデンはがしがしと頭を掻きながらぼやいた。
「お前の身の安全を約束する。──それが、契約だからな」
それからハイデンは心底面倒臭そうにアイリスへと手を伸ばした。その人差し指がくすぐった目元から涙の雫が一つこぼれて、アイリスは驚いて両手で顔を覆った。
「泣くほど怖かったのか。魔王である俺に助けを求めるなんて、聖女失格だな。恥ずかしくはないのか?」
「馬鹿言わないで。そんなことあるわけないでしょう、あなたにそんなことするなんて。これは少し、ただ、驚いただけで、」
言い訳をする声がどんどん揺れていく。涙の雫が二つ、三つと溢れていく。
静かに感情を殺そうと耐えるアイリスから、ハイデンがふいと視線を逸らした。面倒臭いだけなのだろうが、直視しないでいてくれるだけで今は有り難かった。
「…………怖かった。死んじゃうのかと思った」
「勝手に死なれてたまるか。……安心しろ。お前に契約を守る以外の選択肢は与えん。もちろん、俺のためにな」
「……うん」
ぶっきらぼうな言葉がなんだか面白くて、アイリスは泣きながらくすくすと朗らかに笑った。まるで天使のような、綺麗で儚い、美しい笑顔だった。
「ありがとう、ハイデン。助けに来てくれて」
アイリスの言葉に返事はなかった。
すっかり暗くなってしまった夜の森。二人の頭上では小さな銀の星々が、優しい灯りで世界をそっと照らしていた。
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