第7話 新妻アイリス、家出をする
朝食を終えたアイリスは、怒りのままにずんずんと屋敷の廊下を歩いていた。
廊下は窓ガラスから差し込む陽の光で明るかったし、屋敷内の装飾は不思議なほどに趣味が良く気品さえ感じられた。そのおかげか、魔族の屋敷とわかっていても、全くアイリスは怖くは感じていなかった。
(何よ、なによ。魔族のくせに人のこと馬鹿にして、私のこと何も出来ない人間みたいに見下して!)
朝食の席でハイデンに言われた言葉を思い出しながら、アイリスはヒールのパンプスで廊下の絨毯を蹴り付けるようにして歩き続ける。
(乙女の容姿を笑った上に、窓辺で泣いておけですっけ!? 聖歌の前ではまったく歯が立たない魔族のくせに!)
むかつきを心の中で思い切り叫んで。ふと、アイリスは唐突に足を止めた。
(でも、あの時のハイデンの顔だけは……魔族のくせにまるで人間のようだった……)
従者を褒められ、少し得意気なようなあの笑顔。屈託のない笑顔は理想の王子様然としていた貴公子のそれとは全く違ったが──それでも魔王らしい意地悪で邪悪な笑顔より、断然アイリスの胸に引っ掛かりを残していた。
(私が相手ではなければ、あの人はいつもあんな風に笑うのかしら。料理を作ってくれたルタスにも、この服を着付けてくれたメイドのアンにも…………)
魔族の少女にあの笑顔を見せるハイデンを想像してみる。あの小馬鹿にした態度も一言余計なセリフも、アイリスが聖女だからなのだろう。きっと聖女ではなく魔族が相手なら、頭を撫でたり抱き寄せたりと、男女間らしい触れ方をするに違いない。
試しにアンの頭を優しい手つきで撫でるハイデンを想像し──アイリスは難しい顔になって鼻の頭に皺を寄せた。窓ガラスに映る自分が可愛くない顔になったのが、横目にもわかった。
「……なによ。魔族のくせに、嫁を差し置いて。不潔だわ」
勝手に想像しておいて、とは思ったが堪らずに文句を呟く。形式上は自分の夫である男が他の女に触れているのを想像するのは、なんとなくだが不快だったのだ。
魔族ではあるし、口は悪いし、態度も悪ければいいところは顔の造形程度の男だったが、例えそれが演技であれ、一時は文を交わして恋をした相手だからというのも大きい。
(私、あんなやつにまだ期待をしてるんだわ。この結婚は魔族側の策略のためだとわかっているのに。全部嘘で、全部演技だとわかっているのに)
文に書かれた熱い愛の言葉も、優しくやわらかな気遣いの言葉も。
結婚式の途中に見せてくれたとろけるような笑顔も、肩を抱きしめてくれた頼もしい手も。
アイリスにとっての初恋であり、初めてのスキンシップとファーストキスだったのだ。諦めたつもりではいるが、どうしてもこれまでの行為とセリフをなぞっては無駄な期待をしてしまう。
アイリスが一人怒りと虚しさと昨日まで抱いていた恋慕を持て余していると、廊下の向こうを書物を抱えたメイド姿の少女が横切った。紫黒色のセミロングの髪──アンである。
先程要らぬ想像をしてしまったせいで勝手に気まずさを覚えるアイリスだったが、彼女が両手いっぱいに書物を抱えて廊下を歩いているのを見ると、すぐさまそちらへ駆け出した。彼女の腕に抱えられた書物は、アイリスよりも背の低いアンの、その頭を少し超える位置でぐらぐらと不安定に揺れている。そんな様子に見て見ぬふりをすることなど、たとえ相手が人間でなくても出来はしなかった。
「手伝うわ」
反射的に声をかけたアイリスにアンはちらとだけ振り返ったが、すぐに視線を廊下の先に戻すと無表情のまま断った。
「いえ。結構です。これがわたしの務めですから」
「でも、二人で持てば重さは半分だし、運びやすさは二倍になるわよ?」
「もう運び終わりますので」
取り付く島もないとはこのことだ。無表情に加えてつっけんどんな口調が、まるで話しかけるなと言っているようで、アイリスに落ち込みと向かっ腹を誘う。そんな言い方をしなくても、せっかく声をかけてあげたのに、魔族のくせにと──
しかし大荷物の目的地がすぐそこであることは本当だったようで、アンは器用にすぐ近くの扉をノックすると、中からの返事を待ってするりと部屋の中に入って行った。
「ルタス。頼まれていた書物です。これで足りるでしょうか」
「ええ、これだけあれば充分です。ご苦労様でした」
部屋の中は執務室──というよりは少々机の上も床も散らかった、どちらかといえば雑務用の部屋であるようだった。
あまり広くない部屋の中にいたのは朝食を作っていた魔族の老人、ルタスである。先程までは調理服を着ていたが、今は執事らしい燕尾服を身に纏い、ふさふさの白い眉毛の下には片眼鏡をつけている。
「ルタス。調理場にずっといるのではないの?」
「おや、アイリス様。……ええ。調理はあくまで片手間のようなものでして。私の務めはハイデン様の執事でございます」
恭しく一礼する気品溢れる老人に、アイリスは愕然として口をあんぐりと開けた。
「嘘でしょう? あんなに美味しいものが片手間? もしかして……この屋敷、人手が足りていないの?」
そういえば、とアイリスは記憶を遡る。朝食の後から怒りのままに屋敷中を歩き回っていたが、アイリスはまだアンとルタス以外の顔を見ていない。中庭を横手に見ながら廊下を歩いていたから、屋敷の一階部分はぐるりと回ったはずなのに、だ。寝室やハイデンの部屋がある二階以外は、扉の前だけではあるが全て通ってきたことになる。教会であれば朝は清掃などで多くの人が動く時間だから、流石にこの人の少なさは不自然に思えた。
アイリスの問いにルタスは静かに片眼鏡の向こうの目を細めたが、ただそれだけで特に何も言わなかった。丁寧な物腰や言葉遣いから勘違いをしてしまいそうになるが、彼もまた聖女であるアイリスに良くない感情を抱いているのだ。忘れていたわけではなかったが、それを明らかにされたような気がして、アイリスは悔しさにも似た恥ずかしさを覚えて俯いた。
ルタスとアンはそんなアイリスをよそ目にさっさと自分たちの仕事に取りかかり始めた。どうやらアンが持ってきたのは、何かの書類作成のための参考文献だったようだ。まるで空気のような扱いを受けるアイリスは、今更部屋から一人出るのも目立つかと思い、気まずさと手持ち無沙汰を誤魔化すために二人が作成する書面をそっと横から覗き込んだ。
(あれ、この文字……どこかで……)
乱れを知らず綺麗に綴られたその文字は、ルタスが握るペンの筆先から生み出されていた。さらさらと音もなく綴られる文字は、どうやら教会宛の手紙をしたためているようだった。司祭であるモリアスへと、アンが運んできた書物を参考にしながら、結婚式の礼を世辞を織り交ぜ書いている──
「──え?」
文字の行方を何気なく追っていたアイリスだったが、その瞬間思わず声を上げていた。奇妙な既視感の正体に気づいてしまって。
囁くような彼女の声にルタスもアンも反応を示さなかったが、突然アイリスが卓上の紙を引ったくって走り出したため流石に驚いてそれぞれに顔を上げた。
「アイリス様!?」
「どちらへ行かれるのですか!?」
二人の縋るような、責めるような声を背中で聞きながら、アイリスはドレスの裾を摘んで屋敷の廊下を全力で走り始めた。目指すは屋敷の上階、ハイデンの自室である。
「ハイデン!」
ノックもなしに勢いよく扉を開け、アイリスがその部屋にいた魔王の名を叫ぶ。
肩で息をつき、せっかく綺麗に編み上げた髪をほつれさせ。怒り顔で震えながらそこに立ち尽くす彼女に、名を呼ばれたハイデンは椅子に腰掛けたまま不機嫌そうに顔を上げた。事務処理の途中だったのだろう。インク壺に浸したばかりの羽ペンをため息と共に卓上に置き、面倒くさそうに口を開く。
「なんだ。仕事の邪魔だけはするなと伝えただろう」
「──私との文通!」
彼の言葉に被せるようにして、アイリスは悲鳴に近い声で続ける。力いっぱい握りしめられたせいで、その手の内に収まる紙はぐちゃぐちゃになってしまっている。その紙を床に叩きつけて、アイリスは今にも泣き出しそうな顔をキッと上げた。
「私宛の恋文。あなたが書いていたわけじゃなかったのね」
床の上で緩く開いた皺だらけの紙。そこに書かれている丁寧で美しい整った文字は、アイリスが結婚式までの数日間恋した文通相手の文字とまったく同じだった。
「語ってくれていた愛情も、熱い想いも、全部ぜんぶ、どこかの誰かが本に綴った文字の真似だったのね」
契約結婚だとしても、相手が魔族だとしても、彼の心にほんのわずかでもアイリスへの個人的な感情がないものかと期待した。今朝、やわらかなあの笑顔を見てしまったせいで。
ハイデンの口の悪さや態度の悪さに散々腹を立てておきながら、恋に恋したあの日々の自分を否定されるのが怖くて。生まれて初めて抱いた恋の行き先に一つの本当もなかったなんて、思いたくなくて。本当の悪人なんていないと信じてきた今日までの考えが、あっさりと壊されてしまうのが恐ろしくて。
怒りと屈辱と、悲しさと悔しさと。
ないまぜになったアイリスの顔をしばらく胡乱げに見ていたハイデンだったが、片眉を跳ね上げると「何を今更」と冷たく言い放った。
「お前を手に入れるためだけの文だ。作り物の手紙なら俺が書こうと従者が書こうと一緒だろう」
「違う……全然違うわよ……! だってあれは、恋文だったのよ!? 愛を偽るだけじゃなくて、自分の手ですら書いていなかったなんて!」
「恋文? 愛?」
噛みついていたアイリスの耳を、冷たい嘲笑が打ちつける。
「ファーストキスがどうだとか、愛がどうだとか。……くだらん」
アイリスが恋した蜂蜜色の髪と空色の瞳のままで、ハイデンは決定的な一言を告げた。
「恋物語を夢見るのならよそでやれ。俺はお前を殺したくなることはあっても好意を寄せることは決してない。──決して、だ」
「……っ」
冷えた眼差しに射抜かれて、アイリスは堪らずその場でよろけると、来た時よりもめちゃくちゃな走り方で再び廊下を駆け出した。
魔族でも、人と同じような笑い方をするのならと、一瞬希望を見出してしまった。自分が感じた幸せを嘘にしたくなくて縋ってしまった。彼が魔王とわかっていても。
その結果、どうしようもないくらい手酷くフラれてしまったのだ。誰からも愛され、それが当たり前と思って育ってきた聖女である自分が。
屋敷を飛び出し外へ、外へと走りながら、アイリスは頬を伝う涙を荒っぽく手の甲で拭い呟いた。
「呪いなんてもう知らない。契約なんてもう知らないわ。呪いを発動される前に教会に辿り着けばいいだけだもの……!」
もう、一秒だって彼の側に居ることはできない。生まれて初めて受けた拒絶と、その心の戸惑いに歯噛みしながら、アイリスは自身にかけられた呪いも気にせず敷地の外をひたすらに目指した。
「……やれやれ」
そんな彼女を自室の窓から見下ろして、ハイデンは心底面倒くさそうにため息を吐いた。
「これだから女は好かん。……あいつも、マートルも──」
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