第2章 魔族の屋敷の長い一日

第6話 魔族の王とその従者達

 翌朝。広い天蓋付きのベッドから身を起こしたアイリスは、げっそりとした顔のまま誰もいない部屋の中でぽつりと呟いた。


「一睡も出来なかったわ………………」


 魔族の王であるというハイデンと、ほぼ拒否権のない契約を結んだあの後。ハイデンは拍子抜けするほどあっさりとアイリスに背を向けると、さっさと自室へ帰って行ったのだった。


「形式上の嫁とはいえ、お前みたいなちんちくりんとベットを分け合う趣味はないからな」


 そんな失礼極まりない言葉を置き土産にして。


「ちんちくりん…………」


 朝日の中、起こした上半身に視線を落とし、そこにある双丘にそっと両手で触れる。

 確かにアイリスのそれは人よりやや主張は控えめだし目立った大きさではないが、決して無いわけではないし、触ればちゃんと柔らかい。屈めば多少は谷間が生まれもするし、それなりにはあるはずだ──と、アイリスは一人谷間を生み出す努力をしながら誰にともなく胸中で弁解をしていた。ひょっとすると自己暗示でもあったかもしれない。


「アイリス様」


 唐突に扉の外から声が聞こえ、アイリスは慌てて胸から手を離して姿勢を正した。初めて聞く、涼やかな女性の声だった。


「お召し物をお持ちいたしました」

「服……?」


 どうやら扉の外の人物はこの屋敷のメイドのようだった。一瞬だけ、魔族の服を着た自分を想像して、アイリスはすぐに顔を顰めるとメイドに断りをいれた。邪悪な魔族のセンスなのだから、きっと悪趣味なドレスに違いない。


「手持ちの服が幾つかあるから結構よ。服くらい一人で着れるし」

「〝屋敷では俺の指示に従うように〟──と、旦那様からの言伝です」


 淡々と告げられ、アイリスはうぇっと思わず声を出した。指示と言いながらそれはただの命令だ。アイリスの舌に呪いの刻印が刻まれている限りは。


「…………わかったわ。入って頂戴」


 しぶしぶアイリスが答えると、がちゃりと音がしてメイド服の少女が部屋の中に入ってきた。

 歳の頃は十五前後といったところか。紫黒の髪をセミロングにカットして、真っ直ぐに切り揃えた前髪の下からは声と同じく感情の乏しい顔が覗いている。切れ長の血紅色の瞳がアイリスを一瞥して、業務じみた丁寧さでドレスを抱えたまま一礼をする。


「旦那様からお預かりしたドレスです。お召し替えを」


 圧のある声と瞳は、口調の上品さと相反してアイリスを責め立てているようだった。このメイドの少女もまた、聖女であるアイリスを嫌っているのだろう。


(まあ、仕方ないか。私だって魔族のことなんてこれっぽっちも好きじゃないし、好かれたいとも思わないもの)


 無言でアイリスが両手を広げると、やはり無言で少女も衣装替えに取り掛かり始めた。

 広い部屋に重たい沈黙が落ちることしばし。コルセットのリボンをぎゅっと締め終わった少女がようやく言葉を発した。


「できました」


 どんな悪趣味な姿になってしまったのだろうかと恐る恐る姿見の前に立ったアイリスは、無言のまま小さく吐息を零した。

 ドレスはアイリスの瞳と同じ、ミントブルーの上質な布地で織られていた。金糸の刺繍は酷く細やかで、素人目にも高いドレスであることが窺い知れる。ドレスを飾る白いフリルとリボンは派手すぎず、愛らしさもありながら上品で、宝飾品も靴もドレスに合わせて質の良いものが選ばれていた。


「お髪を」


 言葉少なに少女に促され、アイリスはやはり恐々と化粧台の前に座った。

 髪にブラシを当てられて、寝癖がついていた金髪がみるみる艶を取り戻していく。それから少女の細い指によって、長い金髪が素早く編み込まれていった。

 アイリスより年若いように見えるのに、少女の手際は全く無駄がなく、あっという間にアイリスの髪は美しくまとめ上げられてしまった。金髪の細かな網目も、髪飾りの選び方も、全てが洗練されておりセンスが良い。


「あ、ありがとう……」

「これが私の務めですので。……朝食のお支度が済んでいます。どうぞこちらへ」


 アイリスの礼もろくに受け止めず、少女はさっさと背を向けると部屋から出ていってしまった。置いていかれないようにと、アイリスも慌てて彼女の後を追いかける。


 アイリスより頭一つ分背が低い彼女は、まったく無駄口もきかず黙々と屋敷の廊下を歩いていく。黒のメイド服に白のエプロンとヘッドドレス。揺れる髪も華奢な手足も、髪色や瞳の色を除けば普通の女の子にしか見えなかった。


(角が生えているわけでもないし、悪魔の翼も生えてない……ぱっと見じゃ、まるで──)


 アイリスの思考は、前を歩いていた少女が足を止めたことで中断された。どうやら目的地についたものらしい。

 メイドの少女が両開きの扉を開くと、そこには魔族の屋敷らしく禍々しい空間と恐ろしげな魔族集会が──と想像していたアイリスを裏切って。


 真っ白な光がアイリスの目に眩しく差し込む。清潔な朝の光──いつも教会の中で感じていたものと全く同じ、あたたかく清らかな明るい光だ。

 長テーブルの食卓には真っ白なテーブルクロス。焼きたてパンと黄金のスープと新鮮なサラダは陶器の上に美しく盛られ、金のフォークやスプーンが朝日を弾いてぴかぴかと輝いている。

 天井を見上げても、部屋中を見渡しても、その部屋に邪悪なところは一つもなく、むしろ教会育ちのアイリスから見ても清潔で明るい部屋だとしか思えなかった。


(どういうこと? 働いているメイドもこの屋敷も、全然魔族らしくない。これじゃ、まるで──)

「まるで人間の暮らしと変わらないだろう?」


 嫌味な声が聞こえて、アイリスはサッと声がした方を見遣った。テーブルの上座には既にこの館の主人が着いていた。

 金糸の刺繍が美しい黒のベストに、皺一つない美しい白のシャツ。胸元のアスコットタイは夜を閉じ込めたような紫黒の宝石をあしらったブローチで留めており、どうやら魔族の象徴たる髪と瞳の色に合わせているようだった。しかし、彼の装いからは上品さや気品こそ窺い知れても、魔族らしい邪悪さや恐ろしさは全く感じない。


「アン。着付けと案内、ご苦労だったな」


 ハイデンがそう言うと、アンと呼ばれたメイドの少女は一礼をしてハイデンの隣の椅子を一つ引いた。ここに座れとアイリスに言っているのだろう。

 ハイデンは呆然と立ち尽くしているアイリスをまじまじと見やると、テーブルに肘をつく横柄な態度のまま「ふん」と軽く笑った。


「思った通り……その体型には子供っぽいデザインのドレスの方が似合うようだな」

「な、……なんですって!?」

「まあ、その体型で色気は出せんだろうからな。想像通り、お前によく似合っているぞ」

「ぜんっぜん嬉しくないんですけど!!」


 ぷりぷりと怒りながらハイデンに歩み寄り、無礼とわがりながらも音を立てて椅子に座る。姿見を見た時は魔族にしてはセンスのよいドレスを選ぶものだと感心したというのに、あの時の感想を返して欲しい。


 長テーブルには沢山の椅子があったが、朝食はハイデンとアイリスだけでとるようだった。

 ハイデンに視線で促され、恐るおそるアイリスは皿の上のパンを手に取った。そっと二つに割ると、ふわりとバターの芳醇な香りがあたたかな湯気と共に広がる。


(見た目は普通のパンに見えるけど、魔族が食べる食べ物なんて……)


 毒でも入っていたら。人間の害になるものが使われていたら。そう思うとなかなかアイリスは口を開けることが出来なかった。

 そんな彼女を見かねてか、ハイデンは薄い笑みと共に紅茶が注がれたティーカップを持ち上げると、そのカップに口を近づけた。


「安心しろ。昨夜も言った通り、俺はまだお前を殺せない。殺すなら毒殺なんて手間のかかる方法は取らないさ」


 カップを傾け喉を鳴らすハイデンを見て、アイリスはいよいよ勇気を振り絞ると、ぱくり、と勢いよくパンを頬張った。ぎゅっと目を瞑り、来たる刺激に備えていたが──


「! ……美味しい……それに、柔らかい!」


 予想以上の美味に驚き、アイリスは思わず目を瞬かせた。こんな美味いパンは聖都の中でもなかなかない。

 アイリスの驚いた顔を見て、ハイデンが小さく笑う。その笑顔はまったく嫌味っぽさのない、優しく柔らかなものだった。


「だそうだ。よかったな、ルタス」

「恐縮でございます」


 ハイデンが声をかけた先にいたのは、白が混じる紫黒の髪を後ろでまとめた初老の男であった。やはり血紅色の瞳を持っていたが、彼は静かな眼差しで一礼をするだけで憎悪を覗かせることもしなかった。


「この屋敷の調理はルタスに一任している。昨日の披露宴の料理も全てルタスが作ったものだ」

「昨日のご馳走も……!?」

「昨日食べても、何ともなかっただろう?」


 素直に驚きの声をあげるアイリスに、ハイデンはどこか楽しげな声で答えた。

 アイリスはそれには答えず、あたたかな湯気の立つ朝食を無言で見下ろした。

 明るい屋敷に美味しい料理。髪と目の色以外はアイリス達人間と変わらないように見える魔族達。想像していた魔族の屋敷とはまるで違って、拍子抜けをしてしまったのだ。


「私のために人間に寄せた料理を作ってくれた……ということではないの?」

「私達魔族がいつも食べるものしかご提供しておりませんよ、アイリス様。お口に合わないものがあれば、ご遠慮なくお教えください」


 恭しく一礼をしながら、ルタスが丁寧にアイリスの疑問に答える。昨夜のハイデンの話が本当であれば、アンという少女もルタスというこの老人も、聖女に対して良い感情は持っていないはずだ。ハイデンの指示で殺さないだけで──


(仕事だから、ハイデンの命令があるから丁寧に接してくれているだけ。でも……教会で食べてきたご飯より美味しいご飯を提供してくれて、こんなに綺麗に身支度をしてくれて。私をアイリス様と、敬称をつけて呼んでくれているんだわ……)


 そう思うとほんのわずかに、魔族だからと偏見を抱いていた自分が恥ずかしく、彼らに申し訳なくなるアイリスだった。確かにハイデンにされたことは許せなかったが、この屋敷の魔族達はアイリスに親切にしようと努めてくれているのだ。


「この屋敷も、ハイデンの服も。私に合わせているわけじゃなくて、全部いつも通りなの?」

「ああ。いつも通り。これが俺達の暮らしだ」


 罪悪感を募らせるアイリスを一瞥して、ハイデンは朝食を食べ進めながら口を開いた。


「わからないことは何でもアンに聞くといい。俺は貴族としての職務があるからな」

「貴公子のフリは私を手に入れるためだったんでしょう? まだ貴族の仕事をきちんとするの?」


 意外と真面目なのだなと関心するアイリスに、ハイデンは不愉快そうに鼻を鳴らした。


「教会に目をつけられたくないのは今も変わらないからな。表面上は上手くやる必要がある」


 ハイデンがぱちんと指を鳴らすと、紫黒の髪は蜂蜜色に、血紅色の瞳は空色へとみるみる色を変えていった。魔族が使う魔法である。こうして髪と目の色さえ変われば、全く魔族らしくなく見えてしまう。


(じゃあ、魔族と人間に違いなんてあるのかしら。力を使わない限り、髪と目の色を確かめない限り、彼らと私達の違いが見極められないなら……)


 瞳を揺らして、アイリスは一人考える。ルタスに優しい笑みを向けた、あの瞬間のハイデンの姿が脳裏に蘇る。まるで慈悲の心を知る人間と同じ、優しくあたたかな笑みだった。


(ハイデンって……あんな風に優しく笑うこともできるんだ…………)

「この屋敷の敷地内であれば、どこに行って構わない。ただ、俺の仕事の邪魔をしたら承知しないからな」


 考え込むアイリスをよそに、ハイデンはきつく言葉を重ねる。貴公子らしい身なりに変身したくせに、その口から紡がれる言葉はまったく甘くも優しくもない。


「あと、わかっていると思うが妙な真似をすれば呪いを発動させる。契約は守れよ。──まあ、力も使えない弱っちいお前が何かできるわけもないだろうがな」


 余計な一言を付け加えられ、アイリスはぴくりとこめかみを震わせた。


「せいぜい悲劇のヒロインらしく窓辺で泣くふりでもしていたらいい。とにかく、大人しくしておけよ」

(前言、撤回)


 椅子から立ち上がるなり、ハイデンは人を馬鹿にしきった態度でひらひらと手を振りながら仕事部屋に向かっていく。その背中を睨みつけながら、アイリスはぐっと強く拳を握りしめ、胸の内で叫ぶのだった。


(魔族ってやっぱりサイテー! 絶対、ぜったい! この屋敷から抜け出して教会に帰ってやるんだから!!)


 一人怒りを燃やすアイリスの前。ルタスとアンは無言で目配せをしあい、ハイデンはやれやれと肩をすくめるのだった。

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