第5話 聖女と魔王の契約結婚

 呪いにひりつく舌を口の中で確かめて、アイリスは嫌な冷や汗が浮かぶ額を指先でそっと拭った。

 先程まで部屋を薄荷色の光で浸していた月は雲に隠れ、世界は宵闇に塗りつぶされている。窓ガラスに背を預けるようにして余裕の笑みを浮かべるハイデンは、何度見ても翳った空と同じ紫黒の髪と血紅色の瞳を持っており、昼間見た優しい男と同一人物とは思えない。


(魔族がハイデン様の姿に擬態しているだけ……ということはないのよね)


 微かな可能性に縋ってしまうのは、この数日間の文通と今日挙げた結婚式が、本当に幸せに満ち足りていたから。それが作り物だったというのなら、一体何故魔族がそんなことをしたのか、相手になんの利益があるのか、アイリスには全くわからなかった。


(一つだけ確かなのは、今の私に勝ち目はないということだけね……)


 神子にとって歌とは、力をこの世に顕現させるための手段なのだ。旋律を奏でることでイメージした力をなぞり、護りや癒しという奇跡を可能とする。歌を封じられてしまえば、出来ることは一つもない。


「随分しおらしくなったな。自分の立場がようやくわかったか」


 ハイデンの嘲笑に、アイリスは反論もできず無言を貫いた。下手に刺激をしても自らを危険に晒すことにしかならないからだ。

 なんとかここから逃げ出せないものかと、ちらと部屋の扉に視線を向けたアイリスに、ハイデンは声を立てて笑った。


「もちろん逃げてもすぐに追いつく。無駄なことは考えない方がいい。教会ならまだしも、ここは俺の屋敷だからな」


 言いながらハイデンは部屋の椅子に腰掛けると、窓向こうの夜を背負って、アイリスに悠然と手のひらを差し出した。


「まあ、こっちに座れよ。さっきも言った通り、今すぐ殺すつもりはない」

「その言葉、どの辺りが信じられるって言うの?」


 絞められた首を手で摩りつつアイリスが睨むと、ハイデンは笑顔はそのままに瞳だけを静かに細めた。


「信じられるかどうかは関係ない。これは提案じゃなく命令だ。お前には逆らう術なんかないんだからな」

「…………」


 全く納得はしていなかったが、アイリスは不服顔のまま部屋を横切るとハイデンの元へと近づいていった。

 テーブルを挟んで彼の対面の椅子に座る。まっすぐに座らず膝頭のそっぽを向かせたのは、せめてもの拒絶の意思表示であった。


「随分な嫌われようだな。ただ会話をするのがそんなに嫌か」

「当たり前でしょう、こんなことをしておいて! それに、魔族と話すだなんて……これまで考えたこともなかったわよ」


 魔族とは人間に害を与える邪悪な存在。駆除対象でこそあれど、会話を試みるなんてことはただの一度もしたことがない。発見次第、聖歌の力で祓い清める。それが基本だ。言葉を交わして意思疎通をしようだなんて──考えただけで肌が粟立ってしまい、アイリスはネグリジェの薄い布を胸元でかき集めた。


「お前達聖女はいつもそうだな。まるで俺達のことを虫けらのように見下して。自分達は正義ぶって、俺達の命を摘むことさえも善行としか思っていない」


 余裕ぶった笑顔をかき消して、憎悪と嫌悪ばかりの表情を剥き出しにしてハイデンが吐き捨てる。


「マートルも相当な偽善者だったが、何代経ってもその気色の悪い精神だけは変わらない。──反吐が出る」

「マートル……って、女神……初代聖女様のことを言ってるの? まるで会ったことがあるみたいに言うのね」


 初代聖女が聖魔戦争に勝ち、世界を人間達のための楽園と定めたのは今から二千年も前の話。当然ながら、今を生きている人間は口伝や書物や教会の説教でしかその存在を知ることはできない。


「ああ。会ったことはないが見たことはある。俺は全ての魔族を束ねる王だからな」

「……冗談でしょう?」

「俺がお前に冗談を言う必要があると思うか? 親睦を深めるために話をしているわけじゃないんだ」


 さらりと肯定されて、アイリスは文字通り人外を見るような目で彼を見遣った。見た目は二十歳前後のように見えるが、まさかこの男は二千年の時を生きているとでも言うのだろうか。


(それに、魔族の王って……魔族の中で最も力が強い魔王ってこと!? なんだってそんな相手が野放しになってるのよ……!)

「俺がお前を殺せないのは、初代聖女マートルのせいだ」


 一人混乱を極めるアイリスをよそに、ハイデンはぽつりと静かに呟いた。彼としては大したことを口にしたつもりもないようだった。


「マートルが俺達に何をしたのかは知っているか」

「え? 聖なる歌を歌うことで、魔族の国を滅ぼし、人間に安住の地をもたらした、って……」

「そうだ。だが正しくは、あいつは俺達が暮らしていた国にあった、大切なものを殺したんだ」


 ハイデンはテーブルの上に乗せていた自らの手をぎゅっと強く握りしめた。硬く握りしめた手が微かに震えている──


「魔族は人間と違って、生まれながらに誰もが魔力を扱える。だが、その力はお前達神子のように己の中で生み出すことはできず、大気中にある魔素を体に取り込むことで初めて発動ができる。力を扱うために歌という限定的な手法を取らなければならないお前達と比べれば、自由な方法で魔力を形にできるのが魔族側の強みだな」


 ハイデンはそう言って、テーブルの上に置いた手のひらの上で紫電の光を踊らせてみせた。アイリスは魔族の事情なんて初めて知ることだったから、歌音もなしに自由に力を扱う彼を興味と恐怖がないまぜになった感情で眺めていた。


「あの日マートルが狙ったのは俺達魔族ではなく、魔族が力を行使するために必要な魔素の源。俺達の国を支え、守り、俺達魔族が生きていくために必要不可欠な魔素を与えてくれる大樹ラクナだった」


 魔族の国の大樹をマートルが殺した。そんな話は聖女であるアイリスも聞いたことがない。ただ聖歌を歌い戦争を終わらせたとだけ教わって生きてきた。しかし──


「でも、それは魔族が人間を襲うからだわ」


 アイリスは全く怖気付かず、まっすぐ過ぎるほど純粋な声でハイデンに反論した。


「魔族が人間を害するから、私達は魔族を退けないといけなくなる。あなた達が最初から何もしなければ、そもそも戦争になんかならなかったのよ。それに、もしもマートル様が魔族を殲滅するのではなく魔力の源である大樹を断つに留めたのなら、それってすごく慈悲深いことじゃない」

「なに……?」


 ぴく、とハイデンの眉が跳ね上がる。けれどアイリスはそんな彼の様子にも気づかず、すらすらと自らの〝正義〟を語り続けた。


「だって、あなた達魔族全員の命を奪うこともできたはずなのに、そうはせず魔素の源だけを〝排除〟したのでしょう? 魔力が使えなくなるだけで命があるのだから、マートル様の温情としか言えないじゃない」

「…………お前。それは、本気で言っているのか?」

「え?」


 にこやかに、清らかに。迷いのない声で涼やかに言い切ったアイリスに、ハイデンは憎しみを込めた眼差しを向けながら低い声で問うた。


「大樹は俺達にとって一番大切な存在だ。大樹があるから俺達はその土地に国を築いた。水と同じように、魔素は生きる上でなくてはならない存在だったからだ。それを殺したマートルが、慈悲深いだと……?」


 ハイデンの怒りに呼応するように、ばちばちと音を立てて小さな紫電が幾つも彼の周りで弾け散る。

 しかしそんな彼を見ても、アイリスは困惑をするばかりで自分がなぜ怒られているのか理解ができなかった。曇りのない薄荷色の瞳に彼を写し込んだまま、アイリスはきょとんと小首を傾げた。


「あなた達の大切なものが無くなってしまったことは不憫にも思うけど。だって、そうはいっても失われたのはただの樹でしょう」

「…………ッ」


 アイリスがそう言い切った瞬間、がたんと大きな音を立ててハイデンが椅子から立ち上がった。紫電を纏った手が再びアイリスを傷つけんと、まっすぐに伸ばされて──すんでのところでぴたり、と止まった。

 それから自分の爪で手のひらを傷つけることも構わず、強く、つよく拳を握りしめると、ゆるゆると伸ばした腕を降ろし力無く椅子に座り直した。


「樹にだって命はある」


 苦しげな声でそうとだけ呟くと、深いため息を吐いてハイデンはそっぽを向いてしまった。その様子を見て初めて、アイリスも自分の失言に気がついたが、それでもまだ彼に謝る気は起きなかった。


(だって、私達を傷つける魔族が悪いのよ。そんなことをしなければ、マートル様だって不必要に力を使うことなんてなかったわ)


 教会の教えは絶対だし、今は女神と崇められている初代聖女の行いならば、きっと全てが正しいに決まっている。

 アイリスは心からそう信じていたし、だからハイデンが苦しげな顔を見せても恐ろしい声で怒っても、同情をする気持ちさえ湧かなかった。それだけ、彼女の中で魔族という存在はまさに害獣同然のものだったのだ。



「俺がお前を殺せないのは……そして結婚という面倒を踏んでまでお前をここに連れてきたのは、お前にしてほしいことがあるからだ」

「してほしいこと?」


 鸚鵡返しに尋ねたアイリスに頷いて、ハイデンは真剣な顔できっぱりと答えた。


「マートルに殺された大樹ラクナの復活だ」


 さらりととんでもないことを言われて、アイリスは今度こそギョッとしてその目を大きく見張った。


「俺達魔族には傷を癒す力は扱えない。大気中の魔素は大樹を失ったことで時代と共に減少してきている。このままでは魔素は世界から完全に消えて、俺達魔族は生きていくこともできなくなる。……だから、お前の神聖力で大樹を癒して欲しい」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」


 つらつらと話を続けるハイデンを、アイリスは大きな声を出して遮った。


「流石に私達だって、死んでしまったものにもう一度生を与えることなんて出来ないわよ!?」

「マートルに傷つけられた大樹はほとんど死んでいるに等しいが、それでもまだ僅かながらに息がある。俺達の力でかろうじて延命を続けてきたからな」

「それって…………人間で言うと大体どんな感じの具合なの?」


恐る恐る問うたアイリスに、ハイデンはまったく表情も変えず淡々と答えた。


「意識不明の重体で、常に心の臓を誰かが押し続けていなければ息がすぐに止まってしまう、といった具合だな」

「とんでもなく死に近いじゃないのよ…………」


 愕然とするアイリスだったが、ハッと我に返ると、「いやいや」と声を元気づかせた。


「よく考えたら私が協力する必要なんてないじゃないの! 魔素の源が完全になくなれば、やがて大気中の魔素も消えてしまう。そうすれば魔族は人を害すことが出来なくなる! 私達人間にとってあなたを助けるメリットなんてないじゃない!」

「そうだな。しかし今はまだ世界から魔素は潰えていないから、俺達はそれなりに力が使える」


 ばち、と空気を灼きながら、紫電が暗い部屋を怪しく照らす。


「それに、ここは俺の屋敷だ。俺がその気になれば、お前が承知するまで殺さないまま痛ぶり続けることだってできる」

「……脅しというわけ?」

「最初に言っただろう? ──これは提案ではなく命令だと」


 紫電をわざとらしく見せつけてくるハイデンをアイリスはしばらく無言でじっと見つめていたが、どんなに待っても彼の言葉が覆らないとわかると、やがて深く長いため息を一つ吐き出した。


「…………二つだけ聞かせて頂戴。何故、貴公子のフリをしていたの? 何故、愛がないのに私と結婚なんてしたの?」


それは、アイリスにとって最後の願い。幸せに満ち足りていた〝理想の王子様〟との時間に何か一つでも嘘ではない本当があってほしいという、一人の女性としての願いだった。

しかし、返ってきたのは残酷なほど無情な言葉だけだった。


「歴代聖女の中でお前が一番神聖力が強く、最もマートルに近い存在だったからだ。強引に拉致をすることもできたが、そうすれば教会の人間が総出でお前を追ってくるだろう? それは流石に分が悪いからな。結婚という平和的かつ確実な方法を取るために、素行を良く見せていただけにすぎん」

「…………つまり、すべては大樹のため、魔族のためであって、貴公子としての振る舞いも結婚も、利用価値のある私を得る手段でしかなかったのね」

「ああ。当たり前だ」


 はぁ、ともう一度ため息を吐くと、アイリスは諦めの境地でハイデンの顔を真正面から見上げた。

 逃げるにも戦うにも、呪いのせいで歌は歌えない。彼が言う通りこれは提案でもお願いでもなくただの命令であった。殺さないでいてやる代わりに魔族のために手伝え、という。


「二千年前の聖魔戦争の続きを、私が引き継ぐことになるなんて思わなかったわ」


 愚痴っぽく吐き捨てて。

 アイリスは大きく息を吸うと、薄荷色の瞳に力強い意志の光を宿して、その手を彼に向かってまっすぐに差し出した。


「いいわ。受けて立とうじゃないの。私はあなたの手伝いをして、」

「俺は代わりにお前の身の安全を約束する。──契約成立だな」


 ハイデンの大きな手がアイリスの手を強く握りしめて。

 互いに互いを疎ましくしか思っていない、聖女と魔王の契約結婚がここに成立した。

 窓の外、雲間から覗いた青い月が、満足そうに笑むハイデンと、不満げに頬を膨らませるアイリスの、手と手の結びつきの在処を照らしていた。

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