第4話 ファーストキスは呪いの味

 結婚初夜というものについては、様々な恋愛物語ラブロマンスの中で幾度も読んできたから、男性経験が初めてであるアイリスにもどのようなものかはわかっていた。

 結婚式を挙げたその日の夜。夫婦になって初めて迎える夜のこと。その夜はどのような物語の中でも筆舌に尽くし難い甘い男女の営みが行われるという──


 薄荷色の月が天高くにかかる頃。

 蝋燭の灯りだけがちらちらと揺れる薄暗い寝室の中、アイリスはふかふかの大きなベッドの上に一人ぽつんと所在なさげに座り込んでいた。


(結婚初夜……物語のヒロインが殿方としてたみたいなことを、今からわたしが……ハイデン様と…………)


 想像しただけで顔に火がついたように熱く赤くなってしまうアイリスだった。


「服、変じゃないわよね!? 髪も乱れてないわよね!?」


 ベッドシーツの上にへたり込んだまま、アイリスは服の皺を伸ばしてみたり、長い髪を手で撫で付けてみたりした。

 傷一つない滑らかな肌を包むのは、透け感のある白いレースのワンピース。いつもアイリスが使用しているものではなく、今夜のために用意した新品のネグリジェである。

 ドレス姿の時には一つにまとめていた長い髪は洗い清めたまま背に流し、非常に無防備な状態でアイリスは彼の訪れを待っていた。

 貴族達を招いた盛大なパーティもとうに終わり、屋敷はしんと静まり返っている。きっと、今この屋敷の中で起きているのは、アイリスとハイデンの二人だけなのだろう──




 緊張から汗ばむ手をまごつかせていると、軽いノックの音が三回聞こえてきた。


「アイリス様、入ってよろしいですか」

「ひゃいっ!」


 返事というよりは悲鳴に近い声を返しながら、アイリスはベッドの上で少しだけ飛び上がった。いよいよ、ハイデンがこの寝室に入ってくるのだ。暗い部屋、ベッドの上、昼間の抱擁の続きがはじまる──

 ごくりと喉を鳴らした音が聞こえたわけではなかろうが、くす、と小さく笑う声と共に寝室の扉が開かれる。

 蝋燭のあたたかな灯りの中に、上質な紺色のローブを羽織った美青年が現れる。ローブの下は──肌色しか見えない。

 にこにことした笑顔は昼間と同じ穏やかさ。なのに何故か、仄暗い部屋の中、ベッドの上から見上げる彼の顔はひどく色っぽく見えて──


 フッ、と唐突に部屋の明かりが消えた。ハイデンが蝋燭の炎を吹き消したのだ。

 窓から差し込む青い月明かりだけが、二人の輪郭を淡く縁取っている。逆光のせいでハイデンの表情は影となり、アイリスからはよく見えない。


「きゃっ、」


 いきなり肩を押し倒されて、アイリスは大きなベッドの上にどさりと仰向けに倒れ込んだ。


「………………」


 初めてのことにアイリスは赤面をすることも忘れて、呆然と彼の、影になってよく見えない整った目鼻立ちを見極めようと瞬きを繰り返した。

 アイリスをベッドに縫い止める、大きな手が少しだけ熱い。緩く近づいてくる、表情さえ見えないハイデンの顔が、不思議と雄々しく艶かしく感じる。

 ぎしり、とベッドが軋む音がして、アイリスの腹の上にハイデンの腰が乗った。馬乗りになった彼のその手が、さらりとアイリスの髪を梳き、頬を撫でて首筋をなぞる。


「……っ」


 ぴく、と思わず体が跳ねて、アイリスはきつく目を閉じた。これからこの手が薄い布の下に滑り込んでくるのだと思うと、想像するだけで緊張も心音も高まってしまう。


 ふ、と小さくハイデンが笑ったような気配がした。

 可愛い──アイリスが知る物語の王子様ならば、次の瞬間にはそんな優しい言葉をヒロインの耳元で囁くはずだった。



 しかし、現実はそうはならなかった。



 首筋をなぞっていた彼の大きな手は、次の瞬間首全体を掴み、力いっぱいアイリスの喉を締め付けてきたのだ。


「か、は…………っ!?」


 突然のことに悲鳴も上手く出せず、アイリスは肺の中の息を吐き出した。

 ぎちぎちと自分の喉が締まる嫌な音と共に、痛みと怖いくらいの息苦しさがアイリスに遅い来る。視線だけでなんとか彼を見定めれば、ハイデンは今やその両の手でアイリスの首を絞めにかかっていた。戯れ──ではない。大きな手、男の力。このままでは窒息するか首の骨が折られるか。どちらにしても待つのは死、ただ一つである。

 そう思い至った瞬間のアイリスの恐怖と言ったらなかった。恐怖と焦りでパニックを起こし、余計に呼吸がままならなくなる。


(このままじゃ殺される? 死ぬの? ……私が?)


 これまでの人生、アイリスは誰かに危害を加えられるという経験をしたことがなかった。

 生まれた時から誰よりも強い神聖力があり、記憶もない赤子の頃から、アイリスは聖女として全ての人から愛され守られてきた。

 いつも誰もが笑顔で愛を与えてくれた。困っている時は声を上げる前に誰かが自然と助けてくれた。だからアイリスの世界に悪人というものは存在していなかった。強いて言えば魔族は恐ろしい存在だったが、彼らは人ではない上に最初から悪しきものと認識していたから、傷つけられたことなど一度もない。


 しかし今、生まれて初めて、アイリスは人から──それも結婚初夜という一番幸せな日に、最愛の夫から殺されかけているのである。


「ど、うし、て…………」


 霞む視界の中、アイリスはそう問うのがようやっとだった。じわりと目端から滲み出た涙が、頬を伝ってベッドの上に広がる金髪をじわりと濡らす。何故、どうしての疑問のほかに、今のアイリスが思いつく言葉はなかった。


「どうして、だと?」


 ぴくり、と指を震わせて、低い声が問いに答えた。その声の持ち主が目の前の人物であることはアイリスにもわかったが、自分と結婚の儀を執り行ったあのハイデンと同一人物とはとても思えなかった。とろけるように甘く柔らかな声だったはずの彼が、こんなに冷たい声を出すだなんて。


「わからないなら教えてやる」


 鼻で笑いながら、しかし首を絞める力は一向に緩めないまま、彼は顔をぐっとアイリスに近づけそう囁いた。

 窓ガラス越しに部屋に差し込む、清らかな薄荷色の月の光。その筋に照らされて、目の前の男の姿が暗闇の中でも顕になり──アイリスは声も出さぬまま驚きに目を見張った。

 整った顔も姿形も、昼間見たハイデンと同じである。しかし──


 はちみつ色だったはずの優しい金髪は紫がかった宵闇色に。そして飴玉のように澄んだ空色だったはずの瞳は、真っ赤な血を閉じ込めたような禍々しい赤に変わっていたのだ。

 紫黒の髪と赤の瞳。それはこの世でただの一族しか持たない特徴。この世で最も忌み嫌われた、穢れた血を持つ種族の象徴。


(魔族──!?)

「俺はお前のことが憎くて、憎くて堪らない」


 戸惑うアイリスの上に跨り、まさしく悪魔の形相をした男が邪悪に笑う。


「この世で一番」


 アイリスの喉の皮膚を、彼の指の爪がピッと傷つける。


「──殺したいほどに」

「…………ッ」


 目の前に魔族がいる、とわかった瞬間のアイリスの行動は早かった。恐怖に竦んでいた身体に目いっぱい力を込めて、彼の手から逃れようと身をよじり必死にもがく。結婚相手から殺されるという状況に怯えていただけで、魔族が相手であれば戸惑う必要もない。彼女にとって魔族とは、ただの殲滅対象でしかないのだ。


(歌えさえすれば……!)


 力ある歌を口ずさもうと、鋭く息を吸い込むアイリス。しかし完全な自由を取り戻すには、筋力も体格も男と女では違いすぎた。


「おっと。させるかよ」


 なんとか首を絞める手から逃れたと思ったのも束の間、今度は後頭部を枕に押し付けられて無理やり口を塞がれる。言葉にならない声で必死の抵抗を試みるアイリスだったが、真上から頭を抑えられては首を動かすこともできない。


「案外活きがいい女だな。温室育ちはフォークも一人で持てないのかと思っていたが……」


 怠そうな声でそんなことをぼやいていたハイデンだったが、窒息しかけているアイリスに気がつくと、彼女の前髪を乱暴に掴んで正面を向かせた。


「ああ、安心しろ。心の底から殺したくて殺したくて堪らないが、本当に殺したりはしない。それでは意味がないからな」

(意味……?)


 けほけほと咳き込み喘ぐように呼吸を急ぐアイリスを、ハイデンは冷ややかな瞳のまま上から下までじっくりと観察していった。必死に抗ったせいで、美しい金髪も服も乱れ、口端からはだらしなく唾液が伝い落ちている。


「ひとまず、その〝声〟は邪魔だな」


 苦しげに細い息の音ばかりを鳴らすアイリスの喉を見咎めたハイデンは、次の瞬間アイリスの顎をぐいっと持ち上げると、口端から伝う唾液を乱暴に指の腹で拭いながら、その唇に自らの唇を押し当てた。


「──!?」


 青い月光ばかりが満ちる部屋の中、全ての音が遠ざかる。

 言葉も、声も、息さえも、アイリスの全てが乱暴な口付けに奪われていく。


「ふ、ぅ……っ」


 逃れようと身を捩るアイリスの腰を、しかしハイデンの手が強引に抱き寄せて離さない。

 つるりと滑り込んできた柔らかな舌の感触に、アイリスは驚きと戸惑いから思わず目尻に涙を浮かべた。気持ちが悪いような、けれどどこか頭に霞がかっていくような奇妙な感覚──生まれて初めてのキスに息継ぎの仕方もわからず、最初は抵抗していたアイリスも、やがて彼にされるがままになっていった。


 果てしなく長い時間だったような、瞬きほどの時間だったような。


 やがてハイデンの手から力が抜け、深く絡み合っていた互いの舌がそっと解けた。それを認めるや否や、アイリスは思い切り彼の体を両の手で押し除け、自らの口元をぐいっと手の甲で拭い去った。


「な…………にするのよ!」


 それからキッと涙目で睨みやって、アイリスはハイデンに噛み付くように叫んだ。


「殺そうとしたと思えばキスしてきたり! 一体何がしたいわけ!?」

「うるさいな……キスの一つや二つ程度でぎゃあぎゃあと。これだから女は好かん」

「は、はあぁああ!?」


 あまりにもあんまりな言い草に、アイリスは生まれて初めて、『こめかみの血管が切れそうになる』という感覚を味わった。


「ファーストキスだったのよ!?」

「だからなんだ。順番程度の何を重んじている」

「重んじるでしょ、乙女の人生で最初で最後の大事なキスなんだから!」


 地団駄を踏みたいような気持ちで喚き続けるアイリスに、ハイデンはベッドからさっさと降りながら「ハッ」と鼻でせせら笑った。


「俺だってお前みたいなちんちくりんと。しなくていいならしなかったさ。そんなに大切なものなら、どこぞの男を捕まえて〝やりなおして〟もらったらどうだ?」

「な…………なんっ…………!」


 怒りのあまり声も肩もブルブルと震える。

 まだキスに愛があるならまだよかった。しかしそうではなく、彼はしたくもないのにキスをしたというのだ。アイリスの初めてで大切なものを奪っておいて。


「ハイデン様…………いえ、ハイデン!!」


 月を背負って窓際に立つ魔族の男に、アイリスは人差し指を突きつけきっぱりと宣言した。


「今からあなたを浄化するわ……!」

「やれるものならやってみろ」


 楽しそうに笑みさえ浮かべて、ハイデンは腕を組み余裕の態度でアイリスの怒りを聞き流す。一々こちらの神経を逆撫でしてくる男を、アイリスは必ず滅してやると心に誓った。こんなに怒り任せに浄化を行うのは、ひょっとしたら初めてのことかもしれない。


「そんなに消されたいなら、お望み通りに消してあげるわ」


 聖歌を歌うために、アイリスは胸いっぱいに大きく息を吸い込んだ。

 胸の前で両手を組み、心を穏やかに保ち、女神の恩恵である聖なる力を歌にする──その、寸前。


「──っ痛ぅ……!?」


 びり、と焼けるように舌が痺れて、アイリスは歌声の代わりに悲鳴を上げた。まるで電流が走ったかのように、舌先が鋭く痛み始めたのだ。


「お前は俺の許可なく歌を歌えない。聖歌を封じる呪いを施したからな」


 紫黒の髪を指で弄びながら、ハイデンがべっ、と自らの舌を大きく出して見せつけてくる。その舌先を指で指し示すような仕草に、アイリスは一瞬訝しみ──すぐにとある可能性に気づいてさぁっと血の気を引かせた。


(まさか)


 ベッドから飛び降り、部屋の壁にかかる鏡の元へと走る。

 痺れる舌を、彼を真似て大きく外に出してみれば、鏡の向こう、アイリスの桃色の舌には赤黒く光る五芒星の紋章が刻み込まれていた。


「そんな……これは魔法の刻印……呪いの紋章!? まさか……さっきのキス…………!?」

「なかなか刺激的な味がしただろう?」


 にやりと魔族らしく悪い笑みを浮かべるハイデン。彼がその指をぱちんと鳴らすと、紫の雷がばちばちっと音を立てて弾けた。


「歌を歌えばこの雷がお前の舌を灼き焦がす。しかし、歌を歌うことでしかお前は俺に対抗することは決してできない」


 歌うように、楽しそうに語るハイデンの声を聞きながら、アイリスは痛む舌に指を当て、じわりと額に嫌な汗を浮かべた。


「──さぁ、ここからどうする? 歌を歌えなくなった聖女サマ?」

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