第3話 理想の王子様ハイデン

 聖女自らが希望したこともあって、聖女と聖都一番の貴公子との結婚はひと月と待たぬ内に執り行われた。

 先代聖女らは、幾度かは結婚相手の貴族と茶会をしたりして親交を深めていたが、アイリスは全くハイデンと会わないまま本日結婚の儀を迎えた。文通だけで相手を見極めるのは難しいとモリアスからは止められていたが、アイリスとしては文通だけでも充分彼を信頼できると確信していた。


(だって、彼から送られてくる手紙にはいつも、たくさんの〝愛〟が綴られているんだもの)


 にへら、と思い出すだけで頬が情けなく緩むアイリスに、支度を手伝ってくれていた神子の女性達がギョッとしたり苦笑したりしている。そんな周囲の様子にはまったく気づかないまま、アイリスは文通相手の顔をあれこれと想像しては、うっとりと夢心地に包まれるのだった。


(ハイデン様──聖都一番の貴公子と名高いだけあって、なんて美しくまっすぐな文章を綴る方なのかしら。思いやり深い優しい言葉、かと思えば時に熱烈な愛の言葉──まるで物語に出てくる王子様そのものよ)


 白粉を乗せてもらっているはずの頬にほんのりと赤みが差すくらい、アイリスは心からハイデンという男に惚れ込んでいた。

 恋愛なんていうものは本の中でしか知らなかったけれど、優しい王子様が主人公の女性を見つけ出して溺愛してくれる物語ならたくさん読んできたから、教養はそれなりにある──と、アイリス本人は思っていた。そんなところが『恋に恋している』と神子達から言われる所以なのだが。

 にまにまと頬を緩ませている内に、鏡の向こうのアイリスは櫛を通され口紅を引かれ、みるみる聖女から花嫁へと変わっていく。


 纏う白は同じ。けれど一つにまとめた淡い金髪の上にはいつもより長いレースのヴェールを。全身を包む服は修道服より一層華やかな美しいドレスへと変わっている。

 耳元と胸元には瞳と同じ薄荷色の輝き。真っ白な手袋をはめた手に香り高いブーケを収めれば、これで立派な花嫁の完成だった。


「お綺麗ですよ、アイリス様」


 鏡の中にいる、いつもよりも華やかかつ無垢な自分に、アイリスは満足げに微笑むとくるりとその場で一回転してみせた。


「ハイデン様も気に入ってくださるかしら」

「ええ、きっと。アイリス様を見初められた方なのですもの。あまりの美しさに驚き固まってしまうかもしれませんわよ」






 結婚の儀のために生花で飾り立てた教会の聖堂。

 中には司祭であるモリアスの他に、貴族達をはじめ聖都を代表する面々がずらりと揃っていた。聖女の結婚という一大イベントに、聖都中の人間が祝福に駆けつけてくれたのだ。


 聖堂の中に清らかで透明な歌声がそっと響き始める。

 聖歌隊による祝いの歌である。特に神聖力に秀でた神子は聖歌隊に入り、祝い事や祀り事の際にこうして歌を歌うことを主な務めとしている。

 清らかな力ある歌が神聖な場をさらに清め洗い、バージンロードを歩くアイリスに優しい燐光となって寄り添い、舞い踊る。ステンドグラス越しの鮮やかな陽光と聖歌の燐光を纏う彼女は、まるで天から降り注ぐ花吹雪の中を優雅に歩いているかのようにも見えた。

 ほうっと周囲から感嘆のため息と、うっとりとした声がこぼれる。沢山の人々に見守られる中、真っ赤な絨毯の上を笑顔でまっすぐ歩くアイリスは、ついにモリアスと、これから夫となる人物の元に辿り着いた。


(この方が──聖都で一番の貴公子と名高い、ハイデン様)


 ヴェール越しに、アイリスは息を呑みながら今日までの数日間恋焦がれてきた相手を見上げた。

 すらりとした長身。それでいて鍛え抜かれ引き締まった体。それを真っ白なタキシードスーツに包み込んだ彼は、立ち止まったアイリスに小さく微笑むとレースのヴェールをそっと持ち上げた。


 目の前に、眩しいくらいの金髪と空色の瞳が飛び込んできて、アイリスは思わずちかちかと眩んだ目を瞬かせた。

 透明な蜂蜜色の髪は癖っ毛で、空色の瞳はまるで飴玉のように透明。ふわりと微笑む顔はとろけるくらいの甘さと優しさで満ち溢れていて──そんな美青年の顔が視界いっぱいにあるのだから、男慣れしていないアイリスが、まるで火がついたように顔を真っ赤にするのも仕方のないことだった。


「はじめまして、アイリス様。といっても、僕は貴女のことを今日までずっと見てきたのですけどね」


 はにかむその顔は女神像より神々しくも見えて、アイリスはきゅうっと紅を乗せた唇をきつく噛み締めた。


(物語に出てくる王子様そのものだわ……!)


 どんな恋愛物語も、王子様に見初められた女性はたくさんの愛を受けて幸せになる。

 夢見たヒロイン、お姫様。今日、ついに夢は叶い、アイリスが主人公となる番がやって来たのだ。

 そう思うと感慨深く、アイリスは瞳を潤ませながらしっかりとハイデンに一礼をした。


「お会いできて光栄です、ハイデン様。お噂通りの……お手紙から想像した通りの優しいお方で、本当に嬉しいですわ」

「はは、聖女様に優しいと言われてしまうと恐縮してしまいますね。では──そのお言葉に見合うくらい、もっと貴女に優しくできるよう僕も頑張らねば」


 大人な笑みを浮かべつつ、手袋越しにハイデンの大きな手がアイリスの指を下から持ち上げる。


(か、か、かっこよすぎるぅ……!?)


 アイリスは、表面上は清楚な笑みを浮かべたまま、内心では今にも叫びださんばかりに荒ぶっていた。恋に恋する初心な乙女に、彼の甘い言葉は少々刺激が強すぎた。


「………………」


 そんな二人の前に立つモリアスは、不機嫌を押し殺した顔で淡々と式を進行していた。

 ハイデンという男に抱く嫌悪感も勿論あるが、幼少の頃から共に育ったアイリスが、まるで初めて男性を見たかのように振る舞っている姿に胸が暗くなる。せっかくの、皆に愛される聖女のハレの日だというのに、教会にとっても彼女にとっても良い日でしかないというのに、モリアスの表情が晴れることはついになかった。






 女神に誓いを立て、式を終えて。二人は豪奢な馬車に乗り、聖都の大通りをゆっくりとハイデンの屋敷に向かって進んでいた。

 彼は貴族であるにも関わらず、都の中心部ではなく民家もまばらな辺境地に住んでいる。何故かとアイリスが問えば、彼は朗らかに笑いながらさらりと答えてみせた。


「僕は、どちらかといえば緑豊かで鳥の声が聞こえるような、自然多い場所を好いているんです。星が綺麗に見えて、朝日が美味しくて、空気も澄んでいて気に入っているんです」


 着飾ったところのないそんな答え一つを取っても、アイリスは思わずうっとりと夢見心地になってしまうのだった。煌びやかな衣装に身を包んだ白馬の王子様もいいけれど、質素で素朴な男性の方が優しさが引き立つというものだ。


「おめでとうございます、アイリス様ー!」

「アイリス様、お幸せにーっ!」


 通り沿いに集まった沢山の人々から祝福の声が投げられて、アイリスは笑顔で彼らに手を振った。

 聖女として今日まで頑張ってこられたのは、頑張った分だけ皆から感謝と愛情をもらえていたから。教会だけでなく、聖都中の全ての人から愛され守られてきたからこそ、アイリスもまた、彼らを護るために歌ってこられたのだ。

 これまでの日々を振り返り、じんと胸を温めていたアイリスの横で、ハイデンが囁くように呟いた。


「さすが、アイリス様。全ての民から愛されておいでですね。……羨ましい」

「何をおっしゃいます! ハイデン様こそ、特に女性には人気が絶えないと聞きましたよ。……ほら!」


 アイリスが指をさす先、若い女性達がきゃあきゃあとはしゃぎながら、甲高い声でハイデンの名を懸命に呼んでいる。


「沢山の方に愛されているのは、ハイデン様の方ですよ」

「あれは……少し貴女に向けられる愛情とは質が違うような気もしますが」


 少しだけ困ったように笑うハイデンに、アイリスは「そんなことはありません!」と声を上げて詰め寄った。美しく化粧を施した花嫁に顔を覗き込まれて、ハイデンはきょとんと目を丸める。


「好きという気持ちや愛情は、形は違えど根幹にあるもの、その尊さは同じものなのです。人が人を慈しむ心の尊さは皆同じ──女神マートルの教えです」


 聖女らしく胸の前で両の手を組み、女神の教えをそらんじるアイリスに、ハイデンは──ほんのわずかに睫毛を伏せ、息を詰めた。まるで、何かを耐え忍ぶような、どこか暗い表情──


「……ハイデン様?」

「…………失敬。あまりの神々しさと清らかさに言葉を失ってしまいました。貴女のような乙女が本当に僕の妻になってくれたなんて……なんだかまだ信じられませんね」


 先程垣間見えた表情はどこへやら。パッと眩しいくらいに微笑まれて、アイリスはみるみる顔を真っ赤にすると、知らず詰め寄ってしまっていた身体を慌てて彼から離した。見た目も中身も王子様のような彼と会話するのもようやっとなのに、身体を近づけるなんて少し破廉恥だったかもしれない。と、そんなことをアイリスは目を回しながら考えていた。

 赤くなった顔を必死に窓の外に背けるアイリスだったが、そんな彼女の肩にそっとハイデンの大きな手が触れた。


「──!」

「しかし、流石の高潔さですが、少し寂しいセリフですね。僕の妻は、僕が他の女性に好かれていてもよいとおっしゃる」

「そ、そ、そんなことは……、……っ!?」


 耳まで真っ赤に染まり上がったアイリスはなんとか言葉を紡ごうとするが、それは彼に肩をぐいっと抱き寄せられたことで努力の甲斐なく終わってしまった。


(何が、どうなって)


 どくんどくんと、ドレスの下で自分の心臓が破れんばかりに激しく脈打っている。あたたかな彼の手が、肩からするりと回り込んでアイリスを背中から抱き込んだ。

 つまり今アイリスは、すっぽりとハイデンの胸の中にその体を収めてしまっているのだ──と気づき、アイリスは破廉恥だどうだと考えていた思考全てを放棄して、ついに完全にショートしてしまった。

 カチコチに固まってしまった初心なアイリスに、ハイデンは静かに目を細めると、その耳元で低く囁いた。


「続きは月が空にかかってからにしましょうか」


 アイリスがまだ知らない大人の世界、大人のセリフ。

 空気が抜けるような、返事と呼べるかも怪しい声で「ひゃい」と反応を示す彼女を横目に。

 今の今までとろけるような微笑みをたたえていたハイデンの顔からスッと表情が抜け落ち、瞳が険しいものへと変わっていく。


「夜の訪れが楽しみですね。……本当に、心から」


 アイリスを背中から抱きしめたまま、ハイデンは彼女の後頭部に向かって無表情に呟く。


 幸せいっぱいの祝福に満ちた結婚式。その夜にあんなことになるなんて、この時のアイリスは全く想像もしていなかった──

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