第3章 亡国の大樹と新婚旅行
第10話 センスのない新婚旅行
今日は出かけるぞ、とハイデンが言ったのは、アイリスが家出を試みた翌日。朝食の席でのことだった。
フォークに刺した温野菜のサラダを食べようとしていたアイリスは、あんぐりと口を開けたまま彼に目を向けぱちくりと瞬きをした。
「出かけるって……もしかして二人だけで?」
「あぁ? ……まぁ、そうだが」
問い返されたハイデンも、スープに浸していたスプーンを持ち上げつつ訝しげに問い返す。二人だからなんだというのだ、と、その目が言外に語っている。
「それって、ひょっとして、ちょっと遠くの土地へ行くの?」
「かなり遠くだな。聖都リサンチアの外だ」
「二人きりで、遠くの土地へ、お出かけ……」
呟いて、アイリスは思わず緩んでしまった口に慌てて温野菜を突っ込んだ。ほんのりとした酸味と茹でられたことで甘味の出た野菜が美味しい。
(結婚して初めてのお出かけ…………それってやっぱり、新婚旅行というものよね……!?)
これまで読んできた恋愛物語を思い出し、アイリスはうっとりと頬に手を当て目を閉じた。物語のヒロインは、新婚旅行で初めて、周りの目を気にせず朝から夕まで愛する人の隣を独占できるのだ。美しい景色や美味しい土地の料理を楽しみながら、愛する人と感情を共有し、夫婦だけの時間を過ごして良い旅行──
と、そこまで考えて、アイリスはハッと我に返った。恋に恋する彼女とて、相手が魔族の王であることを忘れてはいない。
(愛のない契約結婚なんだから、もう期待しちゃダメよ! 大体こんな、乙女心のカケラもわからないような奴に、粋なことできるとは思えないもの)
呪いの付与と解除でしか口付けも交わさない、そんな関係。色気もときめきも感じさせられない粗野な言葉。造形が良いだけで中身は貴公子とはまるで真逆な人物なのだと、アイリスは自分の夫の評価を低くつけなおした。
「何かとてつもなく阿保で失礼なことを考えているのだけはなんとなくわかるぞ」
うんざりとため息を吐いて、ハイデンがスープを啜る。それにつられてアイリスも自分のスープに口をつける。本日もルタスの料理はどれもこれも絶品だ。魔族でさえなければ、嫌われてさえいなければ絶賛してしまっているところである。
「とにかく、朝食の後は身支度をしておけ。すぐにでも出かけたい」
「でも、遠出なら荷造りをしないとだわ」
「構わん。転移魔法で移動するし、俺に必要なのはお前の体だけだ」
体だけ。
胸の内で反芻して、アイリスはほんのりと頬を染めつつまつ毛を伏せた。
「何考えてるのよ、ばか。破廉恥……」
「こっちのセリフだよ、このバカ聖女」
呆れ果てるハイデンの側で、それまで無言で控えていたルタスがこっそりとアンに苦笑を向けた。
「なかなか変わった人間ですな」
「ええ。でも…………」
無表情なアンの、その目元が少しだけゆるむ。
「こんなにたくさんハイデン様が喋るのを、私は初めて見たかもしれません……」
「あ、そうだわ。荷物が要らないのはわかったけど、一つだけアンにお願いしたいことがあるのよ」
物思いに耽っていたアンは、アイリスに突然名前を呼ばれて一層その表情を顔面から消した。
「はい。なんでしょう」
「可能なら用意をしてもらいたいものがあるの。えっとね──」
アイリスが挙げた要望に、アンだけでなくルタスとハイデンも奇妙そうに眉を顰めたのだった。
数時間後。
身支度を終えたアイリスは、言われた通り身一つでハイデンの部屋を訪れていた。
「お待たせ。これでいつでも、どこにでも行けるわ」
そう言って、アイリスは高く結い上げたその金髪を、さらりと背中へ手で払った。
今のアイリスは立派なドレスにヒールのパンプスという、貴族らしい姿ではなかった。
白を基調としたワンピースドレスは最低限のフリルをあしらっただけの簡素なもので、歩けば裾がふわりと浮くほど軽い生地で織られている。レースの裾飾りと金の刺繍、それ以外には薄荷色のブローチやイヤリング程度しか装飾品もつけていない。
ガラスのようにつるりと輝くパンプスのヒールは低め。何より一番に目を引くのは、大胆に足を見せる短いスカート丈である。下に行くほど裾幅が広がるデザインで、服と同じ白いレースのニーハイソックスでその細い足を包んでいる。
横髪を編み込んだポニーテールを解き、レースのヴェールさえ被ってしまえば、その姿は聖女のそれと全く代わりなく見えることだろう。
「ダメ元でお願いしたのだけど、アンってばすごいのね。すぐにドレスの裾丈を繕い直してこの服を用意してくれたのよ。それに、髪の毛も可愛くしてくれたし!」
嬉しそうにアンを褒め称えるアイリスを、ハイデンは珍しくぽかん口を開けて呆然と見つめていた。なるべく軽い生地の、裾丈が短いドレスを用意して欲しいという奇妙な要望は聞いていたが──まさか聖女そのものの装いでここに現れるとは思ってもみなかったのだ。
(それに、この見た目──まるでマートルと瓜二つじゃないか)
微かに震える血紅色の瞳を、アイリスの薄荷色の瞳がひょいと下から覗き込んだ。
「もしかして、白色は嫌い? 用意してもらっていたドレスから適当に選ばせてもらったんだけど」
「──いや。そういうわけじゃないが…………なんだってそんなに足を出しているんだ。ドレスの裾を長くするのが、淑女らしい装いというものだろう」
ニーハイソックスの太ももを見るハイデンに、アイリスは「だって」と不満げに返した。
「ドレスって、修道服と違って重いし裾も長いし、本当に動きづらいのよ。この間みたいに何かがあった時のために、せめて足の自由は効くようにしてほしかったの」
「なるほど……聖女らしい発想だな」
愛らしい顔立ちに凛とした強い眼差し。黄金の髪と神の祝福を受けたミントブルーの透明な瞳。
いつかの聖女の特徴を受け継ぐアイリスから目を逸らして、ハイデンは彼女の左手に自分の右手をするりと絡めた。
「ちょっと!?」
「転移魔法で移動すると言っただろう。──絶対に手を離すなよ。空間の狭間に落ちたら助けられん」
ハイデンとしては軽い脅しのつもりだったが、アイリスは真面目に受け取ってしまったらしい。ぶるっと身を震わせると、縋るようにハイデンの腕にその身をすり寄せてきた。
うっとおしい、とは思ったが、引き剥がすために押し問答をするのも面倒である。ハイデンは彼女に抱きつかれるまま、気にせず目的地に向かうことにした。
「では──行くぞ」
ハイデンが部屋の床にピッと指を向けると、二人の足元に大きな血色の魔法陣が展開した。彼の瞳が魔力の高まりに合わせ、燃えるように赤く怪しく輝きはじめ──
次の瞬間、アイリスは見たことのない景色の中に唐突に移動していた。
乾いた風が一陣、ひび割れた大地の上を虚しく駆け抜けていく。どこかでかさかさと、枯れた草木が風に揺れる音がした。
「え……?」
思い描いていた新婚旅行とはまるで似ても似付かぬ風景に、アイリスの口から呆けた声が溢れた。彼のセンスに期待はしていなかったが、これは想像の斜め上である。
結界は──張られていなかった。教会の神子達がその歌で守り続けている、聖都リサンチアの外であることは確かなようだ。ただ、アイリスはこのような景色を、見たことも聞いたこともなかった。
乾いた大地、乾いた風。見渡す限り殺風景な赤茶けた色だけが広がり、目につくものといえば枯れた草木の成れの果てと、朽ちた家屋の残骸と思われるものだけ。
そして、目前にある、とてつもなく大きな、天まで伸びる大樹の──切られ、打たれ、惨たらしく折られた姿だけだった。
「ここは──これは…………」
「これが俺達魔族にとって、生きるために必要な魔素を生み出す大樹ラクナ。そして、ここが」
荒れた大地の上、冷たく悲しい風の中。
アイリスの左手を握ったそのままで、ハイデンは無表情に呟いた。
「俺達魔族が暮らしていた場所。お前達聖女に滅ぼされた、亡国ノーフィアだ」
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