第1章 聖なる都と聖女の結婚
第1話 聖なる歌姫アイリス
神に仕える者の朝は早い。
清く澄んだ朝の空気の中、ステンドグラスを通り虹色に色づいた朝日を一身に受けて。
教会の中、静かに祈りを捧げる少女の姿がそこにはあった。
今日も美しく荘厳な佇まいをしている女神像に向かい、地に膝をつき胸の前で両の手を組み、ただひたすらに祈る。
金糸で縁取られた白の修道服に、髪を覆う同色のレースのヴェール。陶器のように滑らかな色素の薄い肌、華奢な手足、朝日を集め束ねたような淡く輝く黄金の髪。
薄桃色に色づく唇には微笑みを踊らせて、瞼を閉じ穏やかに祈る彼女は、まさにこの世に降り立った天使のような神々しさを放っていた。
「今朝も早いですね、アイリス」
背後から耳に馴染んだやわらかな男性の声が聞こえて、アイリスと呼ばれた少女はパッと笑みを咲かせて聖堂の入り口を振り返った。
「モリアス! おはよう、今日も気持ちのいい朝ね!」
先程までの神秘さはどこへやら。元気にぶんぶんと大きく手を振るあどけない少女へと変わってしまったアイリスに、モリアスと呼ばれた白髪の青年は微苦笑を浮かべた。
「おはようございます。相変わらず、貴女は女神様の前以外では普通の女の子のように振る舞いますね」
「普通の女の子よ。女神様に祈るのは私のお務めだから。そこだけは……ね」
晴れた日の清い月のような薄荷色の瞳がふわりと微笑んで──モリアスはそんな彼女に頬を微かにゆるませた。
「流石、当代聖女はその姿勢も他の神子達とはまるで違う」
「そんなに大したことじゃないわよ。私が至って普通の人間だということは、幼い時からずっと一緒に暮らしてきたんだから、モリアスだってよく知ってるでしょ?」
アイリスより頭一つ分背の高いモリアスの顔を、彼女がひょいと下から覗き込むと、モリアスは少し赤くなった頬を指で掻きながら海色の瞳を細めた。
「僕は、昔から、あなたは他のどの神子よりも清く美しく才能のある女性だと思っていましたよ」
「もう。モリアスは本当にお世辞が上手ね。そんなに褒めてもらっても、今はお菓子も持ってないわよ」
鈴を転がすような綺麗な声で笑って、アイリスはぽんぽん、と彼の肩を叩いた。
「私は結界の調子を見てくるわ。モリアスも司祭様のお務め、がんばってね」
「ええ。くれぐれも気をつけてくださいね。最近は巷でも魔族の目撃証言が多く寄せられていますから──」
本音をお世辞と捉えられ、モリアスは少し切なげな笑みを浮かべながら、赤い絨毯の上を軽やかに歩きゆくアイリスへと声をかけた。
「大丈夫。今日も、喉の調子はばっちりだから」
聖堂の入り口、アイリスは朝日の中真っ白な修道服をふわりと揺らして笑顔で振り返った。
「何かあったら、しっかりと〝歌う〟わ」
教会の外へと歩み出たアイリスは、朝の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んで、深呼吸と共に晴れ渡る青空を降り仰いだ。
「──うん! 今日も綺麗な空気。結界はちゃんと機能してるわね」
満足げに頷いて、レースのヴェールと金髪を揺らし、アイリスはご機嫌に朝の街を歩き始めた。
聖都リサンチア。それがアイリス達が守る都の名前である。
聖魔戦争から二千年。魔族と人間達との戦いは、今は女神として祀られている初代聖女マートルの勝利により終結した。
かつては人間達と同じだけ栄えていた魔族の国は滅び去り、地上はすべて人間達のための場所となった。
それでも未だ魔族という存在は潰えておらず、魔法を用いて人間を害そうとしてくる。精神を病ませ、雷で人を焦がす。魔法とはそのような穢れた邪法の総称である。
普通の人間では魔法には対抗ができない。世の理を書き換える邪法には、剣も弓矢も届かないのだ。
しかし、その邪悪な力に対抗できる人間が、この世界にはごく僅かながら存在していた。
神から与えられた聖なる力、神聖力を扱うことができる彼らは神子と呼ばれ、各都の教会を拠点として、結界を展開し街の守護にあたっている。
そして、神子の中でも最も強い力を持ち、悪に染まらぬ清らかな心を持つただ一人にだけ与えられる称号。
それこそが〝聖女〟である。
「きゃああっ!」
突如、甲高い悲鳴が辺りに響き渡り、街を歩いていたアイリスはバッと顔を上げて声がした方を振り返った。
「今の声は──」
「誰か! 誰か助けて……っ!」
女性の助けを求める声と、幼い女の子の痛々しい泣き声。それだけを聞き取ると、アイリスは修道服の裾を手でたくし上げ、全力で声のする方へと走り出した。
路地を二つ抜けた先に、悲鳴と泣き声の原因は在った。
青い空の下、朝日の中。大粒の涙を零しながら泣き喚く女の子と、その子を庇うようにして必死に抱きしめる女性の前に、禍々しい黒い靄を纏う者が一人。人の形をしてはいるが、この世界に紫黒の髪と血のように赤い瞳を持つ種族は、たった一つしか存在しない。
(魔族──こんな時間に現れるなんて……)
結界は問題なく展開しているというのに、一体どこから現れたのか。そんな疑問が脳裏を過ったが、アイリスは無理やり雑念を頭の隅に追いやった。今は考え事をしている場合ではない。街の人々を、魔族の脅威から守らねば。
「みなさん、離れてください! 」
声を張り上げたアイリスを振り返った人々が、途端に安堵の表情を浮かべる。
それを最後に見届けて、アイリスは深く集中をするために、瞼を閉じ、両の手を胸の前で組み合わせた。
息を吸い込み、そっと薄荷色の瞳を開き──桃色の小さな唇を震わせる。
そして、混乱と恐怖が渦巻く街の一角に、アイリスの歌声がしとやかに響きはじめた。
それは、この世のものとは思えぬほど美しく、あまりにも神秘的な歌音であった。
どこまでも透明で、どこまでも清らか。混じり気のない無垢な声が、高く、高く天へと昇っていく──
これこそが神子が扱う神聖力。魔を退け、場を清める歌──〝聖歌〟の力である。
「ゔ、ぐ、アァ…………」
アイリスの歌声を聞いた魔族は、苦しげな声を出しながら頭を抱える素振りを見せた。
アイリスの声が一層高らかに歌を紡ぐと、ついにその男は皆の前から消えていった。魔法を使い別の場所へと転移したのだろう。
(逃しちゃったか……でも)
完全な浄化ができなかったことに落胆しつつも、アイリスは薄桃色の唇を緩めると、ふわりと路地に集まっていた人々へと優しく微笑みかけた。
「もう大丈夫ですよ。魔は立ち去りました」
アイリスの宣言を受け、人々の間から安堵と感嘆の声が上がる。
「ありがとうございます、聖女様!」
「流石は聖女様……! なんと美しく清らかなお声……!」
「聖女様がいなければどうなっていたことか……!」
地に両の膝を着き、祈るように感謝を伝えてくる人々に、アイリスは穏やかに手をかざし顔を上げるように促した。
「みなさんが無事で本当に良かったです。怪我をした人はいませんか?」
「あの、聖女様、うちの娘が…………」
おずおずと手を挙げたのは、先程魔族に襲われかけていた女性であった。ぐずるように泣いている女の子へと近づいてみると、その膝頭が擦りむけ血が滲み出ているのが見てとれた。逃げている最中に転んでしまったのだろう。
「痛く怖い中、よく頑張りましたね。すぐに治りますからね」
そう女の子へと声をかけて、アイリスは囁くような声で聖歌を歌った。彼女の唇が短いメロディを口ずさんだだけで、みるみる擦り傷に清らかな薄荷色の燐光が宿り、傷口を癒していく。
「──はい。これでもう痛くないですよ」
アイリスがにこりと微笑むと、驚き硬直していた女の子はぱちくりと大きな瞳を瞬かせ、先程まで確かに血が出ていた自身の膝を見下ろした。それから指で触ってみたり、膝を曲げ伸ばししてみたりして、ようやく痛みが消えていることに気づいたようで、ぱっと大きな笑顔を咲かせた。
「いたくない! ありがとう、せいじょさま!」
「本当にありがとうございます、聖女様……!
なんとお礼を申し上げたら良いか……」
母子揃って頭を下げられ、アイリスは「いえ」とはにかみ笑った。
「これが、私の務めですから」
魔から人々を守り、傷を癒やし、場を清める。
それが教会に属する神子の務め。そして神子長である〝聖女〟の称号を与えられた、アイリスの役目なのだった。
「アイリス様ー!」
と、遠く、路地の向こうから自分の名を呼ぶ声が聞こえ、アイリスは黄金の髪とレースのヴェールをひるがえして路地の入口を振り返った。
「あ、アイリス様! よかった、見つかった!」
癖っ毛の赤髪にそばかす顔の少年が、修道服をぐしゃぐしゃに乱し、すっかりくたびれた顔でふらふらと走ってくる。どうやらアイリスを捜して街のあちこちを走り回ってくれていたものらしい。
「レイル。どうしたの、そんなに慌てて」
神子達は朝の務めである街の結界強化に奉仕をしている時間のはずだ。何事かと向き合うアイリスの前、レイルと呼ばれた幼さの残る少年は、肩で荒く息をつきながら手に握りしめていた封書を差し出してきた。
「た、大変です……今すぐ教会へお戻りください……!」
「まさか、何かあったの?」
サッと顔を強張らせてレイルを問い詰めるアイリスだったが、彼は息も絶え絶え、声を出せない代わりにぶんぶんと首を横に振った。
「そうではなく、」
唾を飲み込み、レイルが必死に封書を開けろと目で訴える。
「アイリス様に──アイリス様に、婚儀のお話でございます!」
「こん、ぎ?」
「求婚のお手紙です!」
薄荷色の瞳が、ゆっくりと瞬いて。
「きゅうこん」
もう一度、言葉を噛み締めるように繰り返して。
「……え、えええ〜っ!?」
先程までの清楚な乙女の姿はどこへやら。
アイリスの絶叫が、朝の聖都に高らかに響き渡った。
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