第2話

 あの関係は、いつからだったか。


 たしか、小学3年生の春頃だったと思う。

 アパートの隣に住む、一人の少女と出会ったのだ。


 当時、俺は結構大きな団地に住んでいた。そこは訳ありの人が多く住む団地で、俺もその子も片親で、どちらも母親は水商売で生計を立てていた。

 違うところがあるとしたら、俺の母さんは夕飯代を置いていくし家の鍵も渡されていたが、その子は夕飯代も貰えず、鍵も渡されていなかったことくらい。


 その少女は、母親が帰るまで家に入れず、いつも団地の公園で、夜中まで一人ぼうっとしていた。

 部屋の窓からはちょうどその公園が見ていたので、あの子いつ見てもあそこに居るな、と思ったのは、いつだったか。


 ある時、その子がお隣に住んでいると知った。

 そうしたら急に、彫刻か何かと思っていた子が、案外近くに居たように感じたのだ。


 その子が部屋に入れるのは深夜、もう朝になるんじゃないかという時間。

 毎日。毎晩。

 母親が帰ってくるまで、どこに行くでもなく公園に居たその子を見て、ずきりと、胸が痛んだのを覚えている。

 。そう思えてしまったから。

 鍵を渡されているし、小学校低学年にしては多すぎる夕飯代――1000円札が毎日机に置かれていた。


 小学生の夕飯代に1000円は、正直だいぶ多い。

 けれどどうしてか当時はそれを使い切らないといけないと思っていたから、近所のコンビニで夕飯だけでなくジュースやお菓子を追加で買って、時には少し溜めては中古のゲームを買ったりして、残さず使い切るようにしていた。


 けれど、その子は違った。

 夕飯は、――食べている様子はない。学校から帰るとその足で公園に行き、トイレに行ったり水道で喉を潤すことはあれど、何かを食べてはいなかった。

 雨が降った日は、蛸の形をした大きな滑り台の下に居た。

 あそこの下は構造上雨漏りしないし、地面より少し高いところに段差があったので、横殴りの雨でなければ雨宿りが出来たのだ。


 その子の母親が帰るのは、俺の母さんより少し早い、大体朝4時くらい。季節によっては日が昇る時間だ。

 ある日。学校を終え、明るいうちに買い物を済まそうと荷物だけ部屋に放り込むと、公園を通り抜けたところでブランコに座っているその子と目が合った。

 ほんの一瞬だ。けれど、俺の中にあったが決壊するのに十分な時間だった。


「いつもごはん、食べてるの?」


 問い掛けると、その子は何を聞かれたのか分からなかったのか一瞬疑問を浮かべたが、無言で首を横に振った。

 聞いておきながら、何を言えば良いか分からなかった俺は、それ以上何も言わずその子の手を引いて、公園から連れ出した。


 ――抵抗は、一切なかった。


 いつも夕飯を買ってるコンビニに着いて、自分の夕飯を選ぶと、ずっと手を引いていたその子に聞いた。「何食べる?」、と。

 その子は黙ったまま、視線を泳がせる。そして、ある一点で止まる。


 まだ覚えている。あれは『大盛りナポリタン』だ。

 自分の手の中にあったものと、大盛りナポリタンの値札を見比べ、1000円で収まることを確認すると、手に取った。

 家に電子レンジなんてなかったので、二つを温めて貰い、いつも眠そうな派手髪の店員からそれを受け取ると、手を引いたまま部屋に戻った。


 少し早いが、夕飯だ。

 カップラーメンを夕食に選ぶ時だけは家でお湯を沸かして好きな時間に食べられるのだが、レンジで温めるものは帰ってすぐに食べるようにしていた。

 今思えば早すぎる夕飯だが、小学生の腹には余裕で入った。


 「食べて良いよ」と伝えると、一瞬浮かべた表情を覚えている。――疑問だ。

 それでも、「ありがとうございます」、小さな声でそう呟くと、蓋を外し、食べ始めた。


 大人向けであろう大盛りナポリタンは小学2年生、それも小柄な女の子には多すぎるように思えたが、それは杞憂であったようだ。

 特に会話もないまま食事を終えたが、その子が部屋を出て行く様子はなかった。

 出て行けというつもりもなかったし、話しかける話題も浮かばなかったので、居ないものとして扱うことを決め、ゲームをしたりテレビを見たりして過ごした。


 ふと物音がしたので目を覚ます。母が帰ってきた音だ。

 ワンルームで玄関と部屋が直結しているので、誰かが出入りするとすぐ分かる。


「お母さん、隣の子は?」

 そう問うと、母さんは疑問を浮かべる。

「隣? いつも公園に居る子?」

「うん」

「かりんちゃんだったかしら。なんかあったの?」

「今日、一緒にご飯食べたんだよね」

「そうなの」


 あまり興味なさそうだと感じたので、話はそこで打ち切った。1000円を分け合ったということも伝えようと思ったが、何故か言ってはいけないことだと感じたから。


 部屋に、その子が居た痕跡は何もなかった。

 いつ部屋を出て行ったのだろう。お風呂に入って寝る時は、まだ壁際にもたれかかっていたと思うけれど。

 流石に、「一緒に寝る?」なんて聞く勇気はなかった。


 その翌日。学校が終わり荷物を置くと、また公園でその子を見かけたので、すぐ前で立ち止まる。

 ベンチに座るその子――かりんというらしい――を見下ろすような姿勢になったが、かりんは顔を一瞬上げてこちらを見ると、すぐに興味を失い俯いた。


 なのでまた、無理矢理手を引いてコンビニへ連れて行った。

 そして、二人分の夕飯を買う。

 それを家で食べ、居ないものとして扱い、寝て、気付くと居なくなる。


 ――そんな関係が、しばらく続いていたある日。

 傘を持っていくのを忘れたか、雨に濡れたまま雨宿りをしているかりんを見かけた。

 とりあえず手を引いて部屋に連れてくると、聞いた。「お風呂入る?」と。


 確か、そんな関係になったばかりの頃も聞いたはずだ。その時は拒否されたが、少しは心を開いたか、それとも雨に濡れて寒かったか、かりんは頷くと突然服を脱いだ。

 脱衣所なんてないワンルームアパートの一室なので、部屋で服を脱ぐこと自体はそこまで驚くことではない。とはいえあまりの迷いのなさに驚き、見てしまった。

 服の下をびっしり覆う痣と、腹部にいくつも残った火傷のような傷跡を。


 その時は意味が分からなかった。けれど、見てはいけないものを見てしまったということだけは分かったので、「ごめん」と、一言謝った。

 かりんは、何も言わず風呂場に向かっていったけれど。

 ――あの怪我の意味を知ったのは、それからずっと後のことだった。


 ある日、図書委員の仕事で全クラスを回る機会があった。

 そこで一つ下のクラスに行くと、かりんが居た。


 ――驚いた。それまで一度も学校で見たことはなかったからだ。

 団地でしか会わないので、同じ学校とも思っていなかった。けれど近くの公立小学校は一か所だけだったので、考えてみれば、同じ団地に住んでいれば同じ学校に通っているのが当然である。

 こっそりクラスメイトの子にかりんの様子を聞いてみた。だが、帰ってきたのは予想通りとも言える回答である。

 小学校には休まず来るが、来ているだけ。いつも元気はないし、誰かと話すことはなく、先生に当てられても声も発さない。歌う時も無言。なんなら声を聞いた覚えもないと、クラスメイトの子は言っていた。

 朝4時過ぎまで公園で時間を潰しそれから寝ても、朝8時には登校するので寝れて3時間程度か。公園で仮眠くらいはしていたと思うが、そんな生活が、一体どれだけ続いていたのだろう。

 元気が無さそうに見えたのは、ただ眠いだけの可能性もある。


 かりんと仲良くなりたいとか、そういうことを考えていたわけではなかった。

 一緒に居て、楽しいと感じたこともなかった。

 ただ、自分の中にあった罪悪感を紛らわせたかっただけ。


 何を話しかけても言葉を発さないし、何かを伝えようとも思っていない。イエスかノーで答えられる質問に対し、縦か横に首を振るだけ。

 ゲームをしていても、その画面を後ろからじっと眺めているだけだ。協力プレイのゲームもあったから一緒にやろうと聞いても拒否されてしまったので、それきりゲームに誘うのはやめた。


 会話らしい会話は、夕飯を食べる前に「ありがとうございます」と言われるくらい。

 夜も更けると壁にもたれて仮眠し(ほんとうに仮眠だ。物音一つ聞こえるだけで飛び起きる。まるで野犬のようだ)、隣に親が帰ってくると、静かに部屋を出て行く。


 小学6年生になった。かりんとの不可解な関係も、実に3年目に突入した。

 母さんもゴミの量からかりんを部屋に連れ込んでることを察していたはずだが、何か言われることはなかった。

 夕飯代を減らされることも、増やされることもなかった。

 夏休みに入って、珍しく日中に母さんが家に居たその日、隣の部屋の扉を叩く音が聞こえた。壁の薄いアパートなので、そんな音も聞こえるのだ。


児相じそうっぽいね」

 キッチンの窓を開けて隣の様子を伺った母さんが、そう言ったのを覚えている。


 ジソウというのが何かは分からなかったが、あまり宜しくない者が来たことだけは分かった。


 それから1週間もすると、隣は空室になっていた。

 それから1週間もすると、次の住人が入っていた。


 かりんとは、それきりだ。

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