第34話

「あー…………」

「どうしましたか、少尉」

「もう訂正するのも面倒臭くなってきたから少尉で良いわよ……彼、さ」

「その個体が、どうしましたか」

「…………そっか、ここに居たんだ」

 俯き、小さく呟いた。「よかったね、」と。


 総指揮官最後の仕事として、アングルシー防衛拠点に直接足を運んだ私は、トラックに載せられ再処理施設に運ばれているファウストの死体の中に、見知った顔が居たような気がして、思わず車を止めた。


 ――居た。

 

 数年ぶりというのに、一目で分かった。夢で、何度も見た顔だから。


『俺を、イギリスで死なせてくれ。娘が、そこに眠ってるんだ』


 私にそう告げた、そのファウストは――、

 かつてイギリスと呼ばれたこの地で、死ぬことが出来たようだ。


「ねぇ、アグレッサー」

「なんですか少尉」

「アグレッサーって、ファウストになる前の記憶とかあったりする?」

「…………それは、母胎に居た頃の記憶ということでしょうか」

「あー、そうじゃなくて」

「ありません」

「……だよね」


 今のファウストに、人として生きた経験はない。

 だったら彼は、どうしてあんなことを言ったのだろう。

 ずっと分からなかった。

 ――今でも、分からない。


「娘が眠っているイギリスで死なせてくれと、以前彼が話してくれたんです」

「この個体が、ですか」

「はい」

 アグレッサーは少し思案するように眉をひそめると、ゆっくりと口を開いた。

「……妄想であっても事実であっても、俺はそれを笑えません。ずっと聞こえるこの声だって、ただの妄想かもしれませんから」

「……そういえば、そうですね」


 アグレッサーは、苦虫を噛み潰したかのような表情で目を死体から逸らす。耳元では甲高い声で『誰が妄想よ誰が!』なんて叫んでいるが、無視した。

 そう、他人のことを妄想家と笑うならば、アグレッサーはまさに笑われるべきことを、皆に話してしまっている。

 誰のものかも分からない声がいつも聞こえる――、と。


「もしかしたら、この個体は、本当に過去の記憶を持っているのかもしれません。――それこそ、前世とかの」

「前世? あなた、そういうの信じてるんですか?」

「……そういう話が好きでいつも語っていた奴が、昔居たんです」

「へぇ、それは……」

「…………誰だったんでしょう。今、唐突に思い出しただけなんですが」

「…………」


 記憶凍結処理というのは、フェリ曰く完全なものではないらしい。もしすべての記憶を消してしまえば、その個体の積み重ねて来た戦闘の経験値すら消えてしまうからだ。

 故に情報を取捨選択し、必要な領域だけを残し、不要な領域を消す――という処理をする。だがそういった選択には当然が発生するので、たとえば戦闘に基づく記憶のような、消えづらい記憶はあるんだとか。


「俺たちは、」

 アグレッサーが、空を見上げて口を開く。


 ――無駄話が嫌いそうな彼にしては珍しい、ここには居ない誰かに向けて話しかけるような、その優しい声色で、彼は言う。


「死んだら、ようやくあちらに行けるんです」

「……あちら?」

「はい。――ヴァルハラと、呼んだ奴が居ました。そこで、待っていると。本当にそんな場所があるのか分かりません。でも、俺たちは皆が待ってるところにいつか行ける。だからこの個体も、自分を待っている人が居るところに、ようやく行けたんでしょう」

「…………」


 同じようなことを、スクルドも言っていた。


 皆の待つ場所に行くんだと。自らの罪を背負ったまま、そこに行くんだと。

 それが、どんな救いなのか私には分からない。けれど、それを否定することは出来ない。

 死後の世界のことなんて、考えたことはなかった。今日を、明日を生きるのに精一杯だったから。

 でも、一歩進んだ先に死が見えている彼らにとって、生より死の方がずっと身近な彼らにとって、『明日』よりも『死』のほうが現実的なのだ。

 それは、彼らが理想とする、彼らが生み出した、原始的な宗教観。


「あなた達にとっては、それが救いなんですね」

「……はい」


 それで言いたいことは終わったか、アグレッサーはいつもの無表情に戻ると、トラックを運転していた個体――いやファウストでなく人間だ――に手を挙げた。口には出さないが、お疲れ、と言っているように思える。

 アグレッサーが!? と少し驚きそうになったが、そういえばアグレッサーは敗戦処理でない時は優秀な指揮個体で、それなりに評価も高かったんだなと思い返す。それなら、人間に向けた挨拶くらい出来るのだろう。表情が変わらないので不愛想ではあるけれど。


「ところで、」

 離れたところで残務処理をしていたスクルドが、近づいてくると口を挟む。


「この個体はアサミ大佐に言ったんですよね? 死なせてくれ、と」

「はい、それは間違いありません」

「おかしいと、思わなかったんですか?」

「……? 何をですか?」

「この個体は、どうしてイギリスに住んでいた経験があるんでしょう。ここに人が住めなくなったのなんて、今から100年は前の話ですよね」

「…………あ」

「実は俺も、そこが引っ掛かってました。仮にファウストになる前の記憶を持っていたとして、俺達が100年前のことを知っているはずありませんから」

「そういえば、そうですね……」


 すっかり忘れていた。この地がイギリスと呼ばれ人が住んでいたのは、ずっと昔だ。

 なのに、彼は言った。イギリスに娘が眠っていると。

 ――それは一体、いつの、話なのだろう。


「……分かんないなぁ」

「分かんないことばかりですよ、私たちのことは」

「はい。どうして生きているのかも、どうして俺たちが心を持っているかも、誰にも分かりません。ただの機械である俺達に、これは絶対不要な感情ですから」

「……そうですよね」

「それで少尉、この死体はどうしますか。再処理施設に送るのが嫌でしたら、持って帰ることも出来ますが」

「いや普通に死体だから腐りますよね!? 何言い出すんですかアグレッサー!?」

「ホルマリンに漬けておけば、しばらく持つとは思いますが……」

「スクルドも怖いこと言わないで下さい!」


 最後に、彼の顔を見る。

 ――どこか、幸せそうな顔の、名も知らぬ彼を。


「もう、良いんです。……約束は、果たせましたから」


 生かしてくれとは、言われなかった。逃がしてくれとも、言われなかった。

 もし言われても、当時の私にそんな力はなかっただろう。

 ――今は、違うけれど。


 だから、

「また会おうね」


 きっと、私が死んだらまた会える。

 それで、伝えるんだ。


 ――ちゃんと約束守れたよ、って。

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