第11話
「うぅ……」
「無理すんな。バイトは俺が連絡しとくから」
「おねがい…………」
朝起きてリビングに降りると、いつもはとっくに起きてるはずのひなたがまだ寝ていた。
夜更かしでもしたのかな、なんて考えながら朝飯を食べ、さて散歩でも行くかとリードを見せても、――カズがひなたのベッドから降りようとしないのだ。
いつも一緒に寝ているらしいが、朝の散歩すら行こうとしないのはおかしい。稀に早く帰って来て早起きした父さんが散歩に連れてっていることもあるが、昨晩、少なくとも俺が起きてる間は帰って来ていなかったので、その可能性は除外。
ならばカズに何かあったのかと心配してそちらに行ってみると、背を向けて寝ていたひなたの顔が真っ赤だった。
熱を測ると、39度。――昨日大雨に打たれたのが原因か、それともただ風邪をひいただけかは分からないが、ともかくまともに動けそうな状態ではない。
普段触らない薬箱をひっくり返して風邪薬を飲ませて、念のため補充しておいたポカリにストローをぶっ刺して飲みやすくして――、しばらくすると寝息が落ち着いてきたので、カズの散歩へ。いつもの数倍速で散歩を終わらせ帰宅し、さて、と考える。
(おかゆ……なんて作ったことねえぞ。買ってくるか……?)
こういう時、病人食の定番はおかゆだと思う。だが問題があるとすれば、俺はそんなものを作ったことがないし、ひなたが食べられる状況かも分からないということだ。
たぶん炊飯器でも作れると思うのだが、そもそも炊飯器の使い方が分からない。普段誰も使わないから埃被ってるしな。
コンビニにパックのものが売っていた記憶があるので買いに行くでもいいのだが、どうせ今買ってきても食べれないよな、なんて考えているうちにまた熱が上がってきたのか、顔が赤くうなされている。
俺が高熱を出した経験なんて、小学校低学年の時――クラスのほぼ全員がインフルエンザに罹って学校閉鎖された時が最後の記憶だ。どんな看病されたかさっぱり覚えていないが、――しかし俺には数多く読んできた漫画やラノベ、アニメの知識がある!
(たらいと、水と、……なんだっけ?)
ヒロインが熱出した主人公を看病するシーンを必死に思い出し、それっぽく準備する。たらいはないので浴室から風呂桶持ってきて、タオルってハンドタオルくらいでいいのか? それともフェイスタオルサイズか? わからん。
とりあえず適当に小さめのタオルを濡らしておでこに、――横向いてるから載せられん。どうすりゃいいんだこれ。いきなり詰んだ。
一応父さんにメッセージを送ってみたが、今日に限って返信が来ない。
あと連絡のついた母さんは『寝かしとくしかないんじゃない』という全く参考にならないことしか言わなかった。お前の子供が全く熱出さない健康優良児だからって知識なさすぎねえか!?
「あづい……」
そう呟くと、ひなたが布団を蹴り落とす。
――ようやく気付いたが、汗だくだ。ベッドシーツに染みが出来るくらいに汗かいてる。もこもこパジャマ着てたから仕方ないと思うのだが、薄いパジャマなんて持ってるんだろうか。
流石にこのままじゃ可哀想だから何かしてやりたいが、――さて、どうすればいいんだろう。『身体 拭き方』と検索してみたら、寝たきり老人の介護動画が出来たのでそれをじっくり見て、「よし、」と立ち上がる。
「……脱がすぞ」
とりあえず、この暑そうなパジャマを着ているのは酷だろう。一旦脱がして他の服にするか、――そこまで思考は回らず、ともかくパジャマを脱がすためボタンを外す。
――うん? ボタンが逆か?
向かい合って外そうとしているからだろうか。ボタンの取り付けが逆になっているように感じる。若干手間取りながらなんとかボタンを外し、腕から引っこ抜いた。
「……ん?」
パジャマの中――純日本人よりずっと白いはずの肌は、全体的に赤く染まっていた。
しかし気になったのは、ひなたがパジャマの中に着ていた、見慣れない形のシャツ。
胸元だけ隠して、臍がモロで出ている。なんだこのシャツ? ブラジルじゃ普通なのか?
まぁ一気に全部脱がすことはないよなと、先程用意していた濡れタオルで腕や腹を拭く。冷たかったからか一瞬だけびくりと跳ねたが、目は開かれない。うなされてはいるが、まだ寝てはいるのだろう。
そのままとりあえず上半身の、露出させた部分を拭き終え、背中を拭くためぐるりとひっくり返すと、――何故かシャツの背中側にはジッパーがある。
「なんでだ?」
肌着に、ジッパー? なんでこんなところについてるかは分からんが、どうせなら背中も拭くかと、ジッパーに手を掛ける。
異常に硬いジッパーをじじじじ、とゆっくり引き下ろすと、――――中央を越えたあたりで、いきなりぐわっ、と勢いよく開かれた。
「…………え?」
急に風船が膨らんだ。――そう感じた。
「うっそだろ……?」
――胸だ。
いや、鳩胸とか、そういうことじゃなくて。
女の、胸が。
圧制から逃れるかのごとく、押さえつけていたシャツを弾き飛ばす勢いで、それが零れ出た。
「…………いやいやいやいやいやいや」
目を逸らし、頭に手を当て、数秒。
……よし、気のせいだな。
――胸だ。
白い胸。その先端には、熟れたさくらんぼの果実のようなものが覗き――――
「どういうことだよッ!?」
わけわからん。は? え、いや、どういうこと? なんで男に胸付いてんの? ブラジル育ちだから? ――なんて思考がわけわからない方向に飛び散って、二度見、いや三度見くらいした上で、これまでの人生で最も大きな溜息を吐いた。
「っつぁー…………、待て、えー……、つまり、そういうことなのか……!?!?」
理解出来ない。だが、知ってしまった。
――篝ひなたは、
女がどうして、どうして男の格好をして高校に、いや中学も男の格好してた――、待て、このシャツは、胸を抑えていたであろうこのシャツは、常に身に付けていたことになるのか? このサイズの胸が、ただの服で抑えられるはずもない。
女の胸なんて、――母親のものくらいしか名前で見た記憶はない。しかもそれは十年以上前の記憶だ。もう記憶の片隅にも残っていない。
なのに、見てしまった。――はっきりと、凝視してしまった。
同い年の、女子の胸を、――生で。
流石にこのままじゃ、やばい。
それだけは分かったので、ギリギリ残った理性で急ぎ背中をタオルで拭くと、もう一度シャツを着せる。
ジッパーを、上げ、――上げ、上がらん。固すぎる。全然閉められる気配がないので、どうすればいいかも分からず、諦めて腕から引っこ抜いた。(なお補足すると、胸潰しは胸を押さえつけながらでないと閉められないものらしい。だがその時の俺はそんなことを知らなかった)
一旦脱がしてしまったパジャマをもう一度着せようにも、水泳の後かってくらいびしょ濡れだ。しかし、他に着せられるものが浮かばない。
もう先にシーツを変えるかと、ひなたにバスタオルを掛けて抱き上げ、ソファの上に寝かせる。その隙に予備のベッドシーツに張り替え、もう一度ベッドの上に運ぶ。
掛け布団の方も結構湿っているが、流石にそっちの予備はないので、俺の部屋から持ってきた毛布と布団を掛け、隙間からバスタオルを引っこ抜いた。――「んっ」なんてなまめかしい声を漏らされたので、心臓飛び出るかと思った。
「……下は、無理だよな」
知ってしまった以上、いくら濡れてるからってズボンを引っぺがす気にはなれない。
父さん――いや母さんだな。早く帰って来てほしいが、しかし母さんの帰宅は大抵父さんより遅いし、なんなら帰らない日だって多い。今日はどうだろう。分からん。
「あっ、ひなたの親なら……?」
連絡先、知っていたはず。何かあったら連絡するようにと以前教えられていた番号が――、あった。
「出るかな……」
ぷるるるると着信音。――およそ20秒後、切れる寸前に、『もしもし』とあちらから声が聞こえる。
「あっ、あの、えっと俺、柳田壮馬です、その、ひなたが――」
『ひなたがどうしたんだい?』
「熱出しちゃって、その、」
口が上手く回らない。電話口のひなたの父親が「ゆっくりでいいから」と言ってくれたので、呼吸を整え、話す。
「ひなたが熱出して、それで、服変えてやろうとしたら、…………えっと」
『あー、……
「……はい」
言わなくても、察してくれた。まぁ父親だもんな。息子が息子じゃなくて娘だってことくらい、知らないはずがない。
『ひなた、まだ話してなかったんだ。じゃあ、私から話せることはないかな。熱下がったら、本人の口から聞いてみて。熱は、たぶん大丈夫。年数回は出てるから、普通に解熱剤でも飲ませたら一日で良くなると思うよ』
「…………分かりました」
『口から飲めそうになかったら座薬でもいいけど……』
「さっき口から飲んでたんで大丈夫ですっ!!」
『うん、じゃあ大丈夫。ちょっとそっちにはいけそうにないから、悪いけど看病は任せるよ』
それだけで、電話は終わる。冗談を言えるくらいにはいつものことなのだろう。――いや冗談じゃなかったのかもしれないが。
いやそもそも男同士でも座薬なんて緊張するというか、流石に出来ねえよ。弟とかならともかく。俺に弟は居ねえ。
スマホを置いて、はぁ、と溜息を吐くと、僅かに開けられたひなたの目が、こちらを向いていた。どうやら起こしてしまったようだ。
「悪い。起こしちまったか」
「うんー……?」
「後で話す」
「おねがい……」
再び目を瞑ったひなたは、小さく「すき……」と呟いたが、何に対しての言葉なのか分からず首を傾げる。すき……すきやき……お腹がすいたとか……トイレではないよな……?
しかしもう寝入ってしまったか、すぅ、すぅと寝息が聞こえる。
――突然の、告白っぽい言葉に。
俺の顔が真っ赤になっていることには、きっと気付かれていなかっただろう。
(なんなんだよ、今のは……っ!!)
女ということを知ってしまって、そしてこの言葉。
一瞬浮かれてしまったことだけは、知られてはならない。
こんな、不意打ちみたいな状況で――――
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