あとがない。

 入院してからは、毎日のように検査を受けた。


 眼底検査。血液検査。MRI。CT。超音波……。

網膜動脈閉塞症もうまくどうみゃくへいそくしょう】の原因を探って、あらゆる検査を行った。心電図と血圧計をつけられ、24時間バイタルを計測される日もあった。


 中でも、心理的に堪えたのが視力検査だった。


 何も特別な検査じゃない。学校の健康診断でもやるような、ランドルト環(Cのマーク)のどこが開いているかを答える、普通の視力検査である。


 けれども、これがとても苦痛でならなかった。


 何故なら、視力検査をするたび、僕はもう左目だけでは『文字が読めない』ということを突きつけられるからだ。


 右目は問題なく見える。

 しかし、【網膜動脈閉塞症もうまくどうみゃくへいそくしょう】である左目はそうはいかない。


 完全に視野が塞がっているわけではないのだが、欠けている部分がよりにもよって視野中央。つまり、焦点の部分なのである。ランドルト環を見ようとすると、そこの部分に欠損部がちょうど重なってしまい、一つも答えることができなかった。


 なので、僕の左目の視力は、検査結果的には測定不能なのである。


 では、この欠けた視野が日常生活においてどう影響するかというと、一番は、活字がほぼ読めなくなることだった。


 ……例えば。


「メロスは激怒した。

 必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。

 メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった」


 という文章があるとしよう。


 これを読む場合、まず一番左上の「メロスは~」あたりに視点を合わせて、そこから右にスライドしながら読み進める。これが、横書きの活字を読むための視線の動きだと思う。


 ところが今の僕が、左目だけで見るとこんな感じになる。


「メ■■■■怒した。

 ■■■■■■智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。

 メ■■■■■治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来■■■れども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった」


 まず、最初に視覚が捉え、焦点が絞られる文頭が潰れるのだ。


 欠損部の付近の文字(真ん中くらいまで)は認識できるものの、外れるにつれてボヤけて見えるため解読は難しい。気になってそちらに焦点を当てれば、当たり前だが、動かした先から文字が潰れてしまう。堂々巡りだ。


 それに加えて、文章というのは、文字の連なりと組み合わせで初めて意味を持つもの。いくつか文字を拾えたところで、それだけでは内容を正しく読み解いたとは言えないだろう。


 あえて焦点を合わさず、ぼんやりと全体を見るというやり方もあるにあったが……絵ならばともかく、そのやり方では細かい文字が読み取れず、文章の全体的な意味がわからない。


 もちろん、両目で見れば右目が補完してくれるので、遠近感も狂わないし、文字も読むことができる。でも、左目だけになったら、まず読めない。


 今のところ、右目は健在だけど、それはいつまでの話だろうか。


 昨日、見えていたはずの左目が、唐突に見えなくなったばかりだ。この右目だっていつまで持つか、わからない。


 これで右目も見えなくなったら、小説や漫画、ゲーム、アニメ。そういったメディアたちを二度と楽しめなくなる。


 人間の目が二つあることに感謝しているものの、視力検査のたびに「お前には、もう後がない」と言われているようで、すごくしんどかった。

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