欠けてしまったもの。

 ずっと視界の一部がにじんで見える。


「寝起きだったし、目ヤニでも貼り付いているのか?」と最初は思った。


 顔を洗って、目薬を差す。

 ……それでも戻らない。視界はボヤけたままだ。


 嫌な予感がして、見え方を徹底的にチェックする。


 すると、左目の視野の中心に、灰色のインクを一滴、落としたような形の『影』を発見した。まるで割れた液晶画面みたいに、その部分だけが、すっぽりと穴が開いているみたいに色が無い。


 灰色で塗り潰した欠落部。右目が補ってくれていたから滲んだように見えていただけで、明らかに僕の視野は欠けていた。欠損していた。


 嫌な予感がした。

 前職の経験から、多少の病気や症例の知識はある。この見え方で思い当たる症状といえば緑内障りょくないしょうだった。


 なんてこった。よりにもよって、コンテスト参加中に……!


 だが、無視していい状況じゃない。

 両目で見ればちょっとボヤけるだけで生活には支障はないが、それでも、病気というものは早期発見、早期治療が鉄則。後回しにして、手遅れになったら目も当てられない。


 幸い、今日の分の更新の用意はあったから、すぐに眼科さんへ向かった。


 待ち時間中、類似している症状を探した。何も緑内障とは限らない。硝体出血の可能性もある。硝体出血なら一時的なもので、治る見込みがあるじゃないか、と自分で自分を励ました。


 だが、そんな考えはドクターの言葉で霧散した。


「ちょっとここじゃ手に負えない。大学病院に紹介状を書くから、今日中に行って」


 ……事態は、僕が思う以上に深刻だった。


 車の運転が怖くなった僕は、妻に連絡して運転をお願いし、そのまま紹介された大学病院まで直行し、専門的な検査を受けた。


 その結果、僕の左目は【網膜動脈閉塞症もうまくどうみゃくへいそくしょう】と診断された。


 網膜を走る動脈に血栓が詰まって、細胞が壊死することで視力が低下する疾患だという。脳梗塞のうこうそくの眼球版、と言えばわかりやすい。


「運がよかったね。一歩間違えば運動麻痺まひか、あるいは死んでいたところだよ」


 そうドクターは言う。


 それはそうだ。ただ、血栓が詰まった場所が目というだけで、起こったことは脳梗塞と同等。命があるだけ、本当にラッキーだったと思う。癌とかじゃなくてよかった。ほっとした。安心した。気が抜けた。


 だから、こんなバカなことを聞いてしまった。


「どうやったら治りますか?」


 ドクターは答えた。


「残念だけど、見えなくなった部分はもう治らないよ。一生、付き合っていくしかない病気だね」


 がつん、と殴られたような気持だった。


 ……冷静に考えれば、当たり前だ。

 脳梗塞による後遺症は回復するか? しないだろう?

 眼球だって一緒に決まっているじゃないか。


 取り乱しこそしなかったけれど、すごく背筋が寒かったのを覚えている。


 ――昨日まで見えていたのに。


 あまりにも性急すぎて、受け入れることはできなかった。ただ、隣で説明を聞く妻を不安にさせないように、「よかったよ、目で。死ぬより全然マシだわー」とおどけることしかできなかった。


 そして、すぐに検査入院が決まった。


 ドクターの診断では、この【網膜動脈閉塞症もうまくどうみゃくへいそくしょう】はあくまで二次的なものに過ぎないらしい。


 原因を突き詰めないと、何度でも同じことが起こる。残った右目の血管も詰まるかもしれないし、今度こそは脳かもしれない。危険な状態には変わりない。今日はこのまま入院する必要があると説明された。


 入院に必要な道具一式は、後日、妻が持ってくることになり、僕はそのまま着の身着のままで入院病棟に運ばれた。


 まさか、こんなことになるとは思わなかったので、僕の手元には充電が切れかけのスマホのみという状況だった。


 これも妻と連絡できないと困るので、バッテリーを節約するために早々に電源を落とした。


 ……あれだけ念入りに立てた更新スケジュールは、一夜にして破綻することになったのである。


 生れて始めて入院したその日の夜は、なかなか眠れなかった。

 たった一日の間に、色んなことががありすぎて、脳みそが全然整理できなかった。スマホは使えない。更新作業もできない。病室も消灯時間を過ぎて薄暗い上、僕一人しか入院患者がいないもんだから、がらんとしていて気が滅入るばかりだった。


 欠けた左目。先生の言葉。これからのこと……。

 今日あった出来事をゆっくり考えていくうちに、段々と僕の思考に「死」がちらつくようになった。


 昨日まで見えていた左目を、あっさり失ってしまった僕には、死はそれほど遠いものではない。そんな気がしてならなかった。薄暗い病室が、自分の未来の暗示しているようでとても不安だった。

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