第2話 飛べ! ブン太郎
次の日。
私はホームセンターに行ってカナブンを飼育するセットを買った。
透明な虫籠に、木屑、小さな宿木を入れる。
昆虫ゼリーというのが、主食になるらしい。小さなカップに入った昆虫用の餌だ。
諸々を購入して、ブン太郎の家を作ってやった。
朝。
「おはよう、ブン太郎」
霧吹きでワンプッシュ。水を与えてやると喜ぶ。水に反応して少しだけ脚を動かすのが可愛いんだ。
昆虫ゼリーも忘れずに置く。
夜は一緒に晩酌だ。
プシュっと発泡酒の缶を開けて、ブン太郎と会話する。
「今日さ。電動自転車が一台売れたんだ。ふふふ」
もちろん、返事なんかないが、私の話しを小さな触覚をヒョコヒョコと動かしながら楽しそうに聞いてくれる。
一週間もすると、なんだか、かけがえのない家族のように思えてきた。
「よぉ、ブン太郎」「元気かブン太郎」「今日も可愛いなブン太郎」
声をかける度に愛着が湧く。
スマホでツーショットの写真を撮りまくった。
スマホの待ち受けは彼のドアップだ。
ブン太郎といると元気が湧いてくるな。
なんだか、人生に張り合いが出てきた。
だって、私が彼を養っているのだからな。
ブン太郎が元気なのは私の力なのだ。
そうだ、私は誰かを幸せにできる男なのだ。
この自信が功を奏したのだろうか。
なんと、杏子さんをランチに誘うことができた。
オシャレな喫茶店でやっているランチ。ほんの二時間くらいだけれど、二人きりのランチを約束できたのだ。
もう、その晩は大はしゃぎである。
「おいブン太郎! 聞いてくれ! 次の日曜日にな!」
もちろん、彼には杏子さんのことも包み隠さず話している。
だから、ランチの話しをしたら、触覚をフワフワと動かして喜んでくれた。
プシューーッ!!
「あーー。今日は宴会だな。ブン太郎にはさ。パイナップルをやるよ。フフフ。一緒に祝おう!」
その夜は五缶も開けてしまった。
半額セールで買ったお刺身を肴にしてグビグビとやる。
途中、酔っ払ってブン太郎を籠の外に出して背中をなでなでしていた。
「ブン太郎……。おまえは本当に可愛いやつだよなぁ……。フフフ」
ああ、これがいけなかった……。
翌朝。
目が醒めると虫籠にはブン太郎がいなかった。
彼を中に戻したはずだったが、うっかり蓋を閉め忘れていたのだ。
しまった……。逃げたのか……。
自己嫌悪で気分が悪くなる。
逃げる、ということはつまり、居心地が悪かったってことか?
「ブン太郎ーー! おーーい、ブン太郎ぉおお!!」
声をかけるとブーーン! ブーーン! と羽音が鳴った。
しかし、探し回るもなかなか見つからない。
時計を見ると九時半を過ぎていた。
「いかん。開店の時間だ……。昼休みにまた探しにくるからな!」
と、私は渋々店を営業させた。
別に客が待っているわけではないのだが、十時開店は一度も破ったことがない信念なのだ。
自営業というものは、自分を厳しく律してこそ存続ができるのである。
その日の昼休憩。そして、終業してからの晩。
私はブン太郎を探したが、彼が見つかることはなかった。
ただ呼びかけると、ブーーン! ブーーン! という羽音だけがするので、部屋のどこかにはいるのだろう。
腹を減らしているんじゃないだろうか?
その日の晩は、昆虫ゼリーを部屋の色々な場所に設置した。
できれれば虫籠に戻ってきてくれれば嬉しいが……。
翌日。
昆虫ゼリーに変化はなく、依然としてブン太郎は見つからなかった。
私は覚悟を決めた。
「よし、わかったよ。閉じ込めていて悪かったな。ブン太郎。外に出たいってんなら出してやるよ」
窓を開けると、その音に反応して羽音が鳴った。
「昼までは開けとくからさ。飛んでいけばいいよ」
ブーーン! ブーーン!
その羽音が最後だった。
その日の昼。私が二階に上がると羽音は消えていた。
何度呼んでも、大きな音を立てても気配はない。
ああ……。ついに出て行ったのか……。
私は窓の外から快晴の空を見上げた。
「ブン太郎……。おまえと暮らして二週間になるか……。短い間だったけどさ。とても楽しい時間だったよ。おまえが……私に自信を与えてくれたんだ。本当にありがとう」
消失感で、じんわりと目頭が熱くなったが、白い雲を見ているとそんな気持ちよりも嬉しい気持ちで胸がいっぱいになった。
「おまえは空を飛んでいるんだな。快晴の空を自由に……」
ああ、ブン太郎。
おまえはどこに飛んで行くんだ?
可愛いメスのいる所か? それとも甘い樹液が吸える所か?
行き先は自分で決めればいいさ。
おまえの人生。おまえは自由なんだからな。
飛べよ! 飛べ飛べ!!
飛べ! ブン太郎!!
あの大空を自由に飛んで、人生を満喫しろ!!
おまえはすごいカナブンなんだぞ!
こんなにも私に自信を与えてくれたんだからな!
おまえは日本一。いや、世界一のカナブンなんだ!!
「ハハハ! いいぞ! 飛べ飛べ、ブン太郎!! おまえは自由だ!!」
ああ、最高の気分だよ。
大空を飛んでいるブン太郎。
おまえは可愛くて、最高にかっこよくて、めちゃくちゃいいやつだ。
その日の夜。
私は自分が空を飛んでいる夢を見た。
自由に空を飛んで、どこにでも行ける素敵な夢。
そして、日曜日の朝。
今日は杏子さんとランチである。
買ったばかりのジャケットを着て、髪はワックスで整えて……。
「よし、準備は万端だ」
天気は快晴で、最高の気分。
待ち合わせは十一時半。今から行けば三十分前には着くだろう。
そんな時だった。
ふと見ると、洗面台のすみに見慣れない小さな物体が落ちていた。
「え………………………?」
それは緑色の昆虫……。
仰向けになって完全に固まっていた。
「う、嘘だろ……。え? おい……。そんな……。あり得ないって……」
すぐには拾えなかった。
とても、現実を直視することができない。
だって、
「おまえ……。飛んで行ったんじゃなかったのか……? あ、あの青空にさぁ……。飛んで行ったんじゃなかったのかよぉ……」
拾い上げると、それは間違いなくブン太郎だった。
彼はこんな場所で息絶えていたのである。
「おいーーーーーーー! ブン太郎ぉおおおおお! どうして逃げなったぁあああああ!! なぜだぁああああああ!?」
ああ、こんな薄暗い場所で……。
水を飲みにきたのだろうか?
どうして、こんな場所で……。
彼がどんなに孤独だったのかを考えると、悲しくて仕方なかった。
もう涙があふれて止まらない。
「ブン太郎! ブン太郎ぉおおお!! あああああああああああ!!」
気がつけば、何十分も経っていた。
ああ……。行かなくちゃ……。
でも、とてもランチを楽しめる気分じゃない。
メールで断っても良かったが、せっかく、私のために取ってくれた時間だ。
失礼のないように、直に会って説明しよう。
私が待ち合わせ場所に行くと、ちょうど十一時半だった。
にも関わらず、杏子さんはすでに待っていて、私を見るなり笑顔で挨拶してくれた。
「こんにちは。今日、とてもいいお天気ですね。……あれ? 田中さん、どうされたんです? 目が真っ赤ですよ?」
「す、すいません……。その……。色々あって……。申し訳ないのですが……。今日のランチはキャンセルしていただけませんでしょうか?」
「それならメールでも良かったのに。わざわざ来てくれたんですか?」
「私は……。楽しみにしていましたので……。それで……」
と項垂れる。
「な、なにがあったんですか? ……もしかして、身内に不幸でもあったのでしょうか?」
「身内……。と、いっていいのかわかりませんが……」
「……あの、私にできることがあれば言ってください。できることなら相談に乗りますから」
「そんな……。悪いですよ」
「……話せば落ち着くこともありますしね」
そう言って、店の予約は彼女がキャンセルの電話を入れてくれた。
私は彼女の言葉に甘えて、近くの公園のベンチに座ってブン太郎のことを話すことにした。
ペットのカナブンが死んだ話なんて、きっと笑われるだろう。
でも、いいさ。私はそんな人間なんだ。
カナブン一匹、満足に育てることもできない甲斐性なしさ。
笑われて当然の男なんだ。
しかし、杏子さんは「うん、うん」ととても真剣な表情で聞いてくれた。
「ブン太郎ちゃんが……。今日見つかったんですね……。それは辛いです」
「おかしいでしょ。笑ってくれてもいいんですよ。たかがカナブンだ」
「そんなことありませんよ。大切な家族だったと思います」
「家族……。ああ……。そうかもしれませんね……」
涙が込み上げてきた。
うう……。ここで泣くのは恥ずかしすぎる。
な、なんとか明るい話題に変えて誤魔化そう。
私はスマホの写真を見せた。
「ほら。これがブン太郎です」
「わぁ。可愛いですね」
「ははは。そうなんです。触覚がピンとなっててね。愛くるしいやつだったんですよ」
私とのツーショット写真なんかも見せてしまう。
もう、恥も外聞もない。どうにでもなれ、だ。
「田中さん……。本当にブン太郎ちゃんのこと、大好きだったんですね」
「ええ……。たった二週間くらいの付き合いでしたけどね。小さなカナブンが、私の気持ちを癒してくれたんですよ」
「カナブン……」
杏子さんはブン太郎の写真をマジマジと見た。
「あの田中さん……。こんなことをいうのはなんなんですが……」
「はい。なにか?」
「この子……。コガネムシですよ」
「え?」
「この子、丸っこい体型ですからね。コガネムシの特徴です。カナブンは体が角ばってるんですよ」
と、彼女はスマホで画像を検索して見せてくれた。
「ホラ。これがカナブン。こっちがコガネムシ。ブン太郎ちゃんはコガネムシですね」
「………………」
なんてことだ……。
私は虫の種類もわからずに命名をして、飼っていたのか……。
なんて頓珍漢な……。
情けない。
心の底から情けないと思う。
間抜けだ。
私はどうしようもない間抜け。
ああ、こんな男が、女性を幸せになんかできるもんか。
終わりだよ。
詰み。
完全に終了だ。
ははは、ダメだなこりゃ。
「ははははははは………」
気がつけば号泣していた。
涙がボロボロと出て止まらない。
「え!? た、田中さん、ごめんなさい!! 私、余計なこと言っちゃいました!!」
「いえ、いいんです。私が間抜けなだけなんだから……。コガネムシにブン太郎ですか……。本人もさぞや困惑したでしょうね。私は最低な男です」
「そんなことありません!」
「いえ。もう本当に……いいんです。ブン太郎がなぜ逃げたのかわかる気がします」
元妻に離婚を突きつけられたことが、頭の中をグルグルと回る。
ああ、自分はどうしようもない男なんだ。
こんな男のそばにいたい存在なんているわけがない。
みんな去っていく。ああ、これが現実なんだ。
「田中さん……。私……。結構、生き物が好きなんですね……。動物とか虫とか、全部好きなんですよ」
……そういえば、トビの生態にも詳しかったな。
「それで……。猫がね。自分の寿命が近づいた時に、主人から隠れて死ぬことがよくあるんですよ」
「へぇ……。でも、ブン太郎はカナブ──、コガネムシですよ?」
「二週間、一緒に暮らした。と、言われてましたよね?」
「ええ。こいつとはそれくらい」
「だったら寿命ですね」
「え……?」
「コガネムシの寿命は二週間くらいです。カナブンよりも短命だといわれているんですよ」
「え………………………?」
「だから、きっと……寿命で息絶える姿を田中さんに見せたくなかったんだと思うな」
「…………………………………」
「田中さん。優しいから。ブン太郎ちゃん。気を遣ったんだと思いますよ」
そうか……寿命……。
あいつ……。
喉が渇いて、飢えて死んだんじゃなかったのか……。
それは安堵。
くわえて、どこか救われた気持ちがした。
私の涙腺は崩壊して、ダムが決壊したかのごとく、ドバドバと涙が流れ出た。
「ちょ、た、田中さん!?」
私は彼女の両手を握りしめた。
「ありがとう! 杏子さん……。ありがとう……!!」
何度も何度も。
私は感謝して泣いた。
こんなことがあったから、私は嫌われると思っていた。こんな泣き虫と一緒にいたい女性なんていないだろう。
ところがしばらくして、なんと、私と杏子さんは交際することになった。生き物好きが良かったらしい。人生とはわからないもんだ。
そして、数年後──。
杏子さんはデパートの仕事をやめて、私の自転車屋を手伝ってくれることになった。
彼女が店のネット通販を担当してくれたおかげで、売り上げが跳ね上がった。杏子さんは、どうやら、とんでもない商才の持ち主のようだ。
私の自転車屋は大きく成長していた。
店は大きく改装されて、バイトを二人も雇えるようになっていた。
そんな時、元妻が店の様子を見にきたことがあった。
金持ちの旦那とは離婚をしたようで、私の店の評判を聞いて、よりを戻したいと思ったらしい。
もちろん断ったさ。
だって、私は杏子さんと再婚をしたんだからね。
あれからなにもかもが順調に進んで、大金持ち、とまではいかないけれど小金持ちくらいにはなれたかもしれない。
これはあいつのおかげかな?
ああ、ブン太郎。
すまんな。
おまえは本当にコガネムシだったよ。
でもさ。
私のブン太郎には変わりないからな。
おまえと過ごした二週間はかけがえのない思い出さ。
飛べ! ブン太郎。
私も一緒に飛んでみせるよ。
空高く、自由に。
おしまい。
飛べ! ブン太郎 神伊 咲児 @hukudahappy
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