飛べ! ブン太郎

神伊 咲児

第1話 別れと出会い


「これで離婚は成立ね。清々するわ。じゃあね」


 

 そういって妻は……いや、元妻は家を出て行った。

 離婚届けをピラピラさせて、本当に嬉しそうだったな。


 以前より、彼女の浮気は知っていた。

 だから、いずれはこうなるだろうと思っていた。

 どこぞの富豪と再婚するらしい。

 

 私は田中 一郎。

 ごく普通の。どこにでもいそうな四十五歳の男だ。

 髪を黒く染めているのでわからないだろうが、染髪をしなければたちまち真っ白の白髪だらけになって、まるで浦島太郎が玉手箱を開けたみたいになってしまう。

 下腹はポッコリと出ていて、まぁ、いわゆる中年太り。

 一応自営業で。社長をしている。

 とまぁ、そんな風にいえば聞こえはいいが、実際は、駅から徒歩十分の所にある小さな自転車屋だ。社員はおろか、バイトさえも雇えない貧相な店を経営している。


 店の状況は芳しくない。

 十年前は結構儲かっていて、アウトドアブームに乗っかって、それ用の自転車を入荷したのが良かった。

 新車が売れれば自転車屋は儲かる。パンクの修理くらいじゃ、たかだか千円の儲けにしかならない。

 しかも、修理依頼が一ヶ月に数件しかないんじゃ、生活はキツイ。


 時代の流れもあって、自転車は電動になってさ。

 まぁ、それでも、そういう物を仕入れて売っていけば儲けになるんだろうが。

 ネットの発達によって、わざわざ店頭経由で買う利点が減ってしまった。

 客は賢くなって、どんどんと店からは遠のいていったよ。

 今は、なんとか生活ができるレベルだ。もう生き甲斐がなんなのか、わからないくらいの人生さ。

 こんな男だからな。妻に離婚を言い渡されるのは時間の問題だったよ。


 さて、妻が……。いや、元妻が出ていって独り身になったわけだが。

 生活は変わらないんだ。朝八時に起床して、十時に開店して十九時に閉店する。

 一階が自転車屋になっていて、その二階が住居スペースだ。元妻が出ていったから、部屋が一つ空いた。

 まぁ、ここ数年、元妻とはそういうこともなかったしな。別に今更、なんてことはないさ……。


 寂しくない。といったら嘘になるだろう。

 特に男は……。なんだかんだいって女が好きだ。

 かといって、飲み屋に行くほどの金はないしな。

 店の改善計画を立てるなら、もっと毎日に張りが出るのだろうが、今はとてもそんな気にはなれない。

 数年に一度、急にやる気が出たりする。そんなタイミングで店のホームページを作ったことがあったんだがな。もう何年も更新していない。

 考えて欲しい。自転車屋が発信することってあるのだろうか? 新車がバンバン売れればさ。新車を仕入れた情報でも発信できるんだろうが、売り上げが停滞すると、書くこともなくなるんだ。

 お得情報として『素人でもできるパンクの修理のやり方』なんて掲載してみなさいよ。たちまち商売上がったりですよ。そんな情報は怖くて載せれません。だから、更新が止まる。

 まぁ、そんなわけで。私のPCとスマホは、もっぱらネットサーフィンか、いかがわしい動画を見ることに使われていた。


 こんな私がよく結婚できたと思ったでしょ?

 まぁ、十年前は儲かっていましたからね。婚活パーティーでも、年収五百万円以上、なんて枠組みに入れたんですよ。

 そこで元妻と出会った。

 今の年収は、国税庁が出した平均収入の半分もないな……。ああ、辛い。


 タバコはどんどん値上がりするのに、私の収入は下がる一方。

 去年まで吸っていたけれど、もう収入の限界なので、禁煙することにした。

 健康を考えれば良かったのかもしれないが、楽しみが一つ減った。

 今じゃ、スーパーの閉店間際に買い込んだ半額シールのついた惣菜を肴に、発泡酒を二缶空けるのが楽しみになっている。

 このままじゃ、生きてる意味がわからなくなって、首をくくりそうだよ。


 出会いが欲しい。


 最寄り駅から二駅離れた所に中年層からできる社交ダンスクラブがあった。

 一度、見学をしてみたのだけれど、参加者は高齢者ばかりだ。

 定年を迎えたおっさんにダンスの極意を一時間以上も熱弁された。

 ずっと苦笑いで聞いていたが、もう行くのはやめよう。

 それに、社交ダンスは衣装代がずいぶんと掛かるらしい。金のない私には縁のない所だ。


 ネットの掲示板で、ハイキングのサークルがあるのを発見した。

 誰でも参加できる間口の広いサークル。

 参加費は安いし、動きやすい服装と交通費くらいでなんとかなる。

 参加者の年齢は三十代から五十代まで。私にはちょうどいい居場所だった。


 男女混合のサークルなのだが……。

 結構、同じような目的の人間が多かった。

 健康……。などとは建前だけで、結局、みんな出会いが欲しいのだ。


 そこには杏子さんという女性がいた。

 年齢は三十六歳。バツイチで、子供はいないらしい。

 サークルでは最年少だった。

 とても笑顔が素敵な女性で、ハイキングの時は日焼け対策がバッチリ。

 色の白い、上品な人だ。デパートで化粧品の販売をしているらしい。

 化粧が上手いからだろうか? パッと見は二十代にも見える。

 正直、ぐっときた。下世話な言い方で恐縮だが、股間にギュンと電気が走ったのだ。

 まぁ、有り体にいえば一目惚れだろう。


 杏子さんと話がしたい……。

 だが、そんな女性だ。出会いを求める男どもが放っておくわけはなく。

 彼女の周りには常に男の会員がいた。


 私は、女性経験が少ない。

 童貞を卒業したのは元妻だった。

 だから、女性とどんな風に会話して、デートに誘えばいいのとか、よくわからないのだ。

 思い返せば、婚活パーティーはその辺のフォローをしてくれていたな。趣味とか仕事内容が書けるカードがあって、そういうのを見せ合うのだ。

 しかし、ここはハイキングサークル。そんな物はない。

 何気ない天気の会話から、何気ない風景の会話。これが限界だ。

 結局、なんの引っかかりもない、印象にも残らない、空気みたいな会話をして終わってしまう。

 ああ、自分はどうしてこうもしょうもない男なのだろうか?

 

 一度だけ。

 サークルでハイキングに行った時、トイレ休憩があって、その時に杏子さんと会話をする機会があった。

 そこは田舎の道の駅で、当日はとても快晴だった。

 タカだろうか、トビだろうか? 街では飛んでいない大きくて茶色い鳥が飛んでいた。

 これはチャンスかもしれん!


「あれ、なんでしょうね? 大きな鳥」

「ああ、トビです。円を描いているでしょ。初夏であんな飛び方は珍しいですよ」

「へぇ……」


 いかん。

 なんか詳しいぞ。

 一緒に共感する目的で話したんだがな……。

 予定では、『あーー本当ですね。大きい鳥ぃ。自然っていいですよね。アハハハーー』という返事とともに一緒に笑うはずだったんだ。


「ピーヒョロロローって、鳴くんですよ」

「へ、へぇ……」


 そうなのか……知らなかった。

 トビの鳴き声とか知らんし……。

 アウトドア……。好きな人だったのか……。

 そりゃそうか。こういうサークルに入ってるんだもんな。


 思えば、私はオタクな人生だったな。

 幼少期は、家に篭って車や電車のプラモデルばかり作っていた。

 自転車屋は亡くなった両親から受け継いだ店だ。別にサイクリングが好きなわけじゃない。


 ああ、自己嫌悪だ。

 たった一人の女性も満足に会話で楽しませてあげることができないのか。

 つまらん! 私は本当につまらん男だ!!


 世間ではこういうのを『甲斐性なし』というのだろうな……。

 ううう……。死にたい。


 家に帰って発泡酒をゴクゴクと飲み干す。

 今日はやけ酒なので四缶もいってしまった。

 ええい、たまの贅沢くらいなんだ! 今日は豪勢に刺身とかも買ってやったぞ。

 千円の刺身が半額で五百円だ。私にすればこれでも十分に贅沢なんだ。

 イカは上手い。マグロはもっと上手い。ハマチは脂が乗っているぞ! クソ! 酒が進む。

 ゴクゴクゴク……。


「あーーーー! なんなんだちくしょう!!」


 と、発泡酒の缶をテーブルにガツンと置いた時である。


ブーーン! ブブーーン!!


 妙な羽音が聞こえてきた。


「ん……………?」


 耳を澄ますとシーーンとするので、もう一度、ガツンと缶で音を立ててみた。


ブーーン! ブブーーン!!


 ああ、やっぱりだ。

 虫だろうか?


 羽音とともに、カサカサと音がする。

 それは窓から聞こえる音だった。


 音が聞こえる場所に行ってみる。

 すると、そこには一匹の緑色の虫がいた。

 ずいぶんとキラキラと光沢があって美しい。

 子供の頃、捕まえたことがあるな。こいつは……。


「カナブンだ」


 そいつは、窓のサッシが登れなくてカサカサと登っているだけだった。


「なんだ、おまえ。登れないのか?」


 どうやら、サッシの表面がツルツルするらしく、引っ掛かりがなくて登れないでいるのだ。


「ハハハ! なんだおまえ。私ん家になんか迷いこんで……。出れないのか?」


 カナブンはカサカサと動き周り、時おきブーーンブーーンと羽を広げて飛んだ。

 しかし、窓ガラスに体をぶつけてまた窓の下に落ちてしまうのだった。


 酔っているからだろう。

 なんだか、その姿がたまらなく面白かった。


「ハハハ! そうか! 出たくても出れないんだな。ハハハ! そうかそうか! アハハハハ!!」


 必死にもがくその姿がなんだか愛おしかった。

 とはいえ、なんだか可哀想だ。


「はいはい。わかったよ。勝手に迷い込んで……バカなやつだなぁ」


 私は窓を開けてやった。


「ほら、飛んでけよ。もう自由だぞ」


 すると、カナブンは羽を広げて飛び出した。


「もう、迷い込んでくるなよーー!」


 と、見送ろうとした時である。

 カナブンは逆方向に飛んで、部屋の蛍光灯にぶつかり出した。


「おいおい! バカ! 感電しちゃうぞ!」


 私は仕方なしに、その子を掴んで蛍光灯から離す。


「バカな奴だなぁ。どうして外に逃げないんだよ」


 両手で包み込んでやると、今度はじっとして動かなくなった。


「え? なんだよ? 死んだのか?」


 と、手を開くと、再び蛍光灯の灯りに向かって飛んだ。

 カツンカツンと何度もぶつかる。

 どうやら光に反応しているようだ。


「おいおい。まったく、バカな奴だなぁ……」


 私はお刺身のパックの蓋に針で穴を開けてから、その中にカナブンを入れた。


「ちょっと、待ってろ」


 冷蔵庫にはパイナップルの切り身がある。

 もちろん、半額シールが貼ってあるやつだ。

 私は、それを一切れ取り出して、カナブンのパックに入れてやった。

 すると、カナブンは嬉しそうにチュウチュウと被りついた。


「ふほ! 上手いか!? 半額だけどよく熟れてるだろ! ふふふ」


 カナブンは嬉しそうだった。

 触覚がピンとしてルンルン気分な感じがする。


「ハハハ! 自然界じゃパイナップルなんて豪華なもん食べれないだろ? いつも木の蜜だもんなぁ」


 私は気分がよくなった。

 四缶で終わるつもりが五缶目の発泡酒を空けてしまう。

 ゴクゴクと飲みながら、カナブンが入ったパックの蓋をツンツンした。


「なぁ、今夜は遅いからさ。泊まってけよ。そんな綺麗な家じゃないでけどさ。おまえなら十分だろ?」


 カナブンは触覚を元気に動かす。

 ずいぶんとパイナップルが気に入ったようだ。


「……おまえさ。オスだろ? だってさ。こんな私の所にメスのカナブンが来るわけないもんな。ハハハ」


 しばらく、カナブンを見ながら酒を飲む。

 なんだか愛しくてたまらない。


「よし。これもなにかの縁だ! 飼ってやるよ。私がおまえを養ってやる!!」


 虫なんか、生涯で一度も飼ったことはないが、こいつと話しているととても気分がいいんだ。

 こんな虫なら食費はかからないだろうし、なんとかなるだろう。


「ふふふ。そうと決まれば名前を決めないとな。えーーと、カナブンだから……。ブン太郎。うん! おまえはブン太郎だ!」


 ブン太郎は羽を広げてブーーンブーーンと羽ばたいて見せた。


「ハハハ! 嬉しいか。そうかそうか! 私は田中 一郎だ。よろしくなブン太郎」


 その日から、ブン太郎と私の生活が始まった。

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2024年12月1日 15:11

飛べ! ブン太郎 神伊 咲児 @hukudahappy

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