第52話 簡単じゃない想い
――こ、これは。
真っ赤な顔の花が、顔を俯けたまま俺の返事を待っていた。
「…………」
頭の中が途轍もない速度で動き回っては、止まらない。
そこで俺は彼女の欲求をもう一度反芻させる。
――……ギュッてして。
甘い声で……。信じられるか? ずっと好きだった幼なじみの女の子が、俺に『抱きしめて』と告げているわけだ。
恥ずかしがりの花は、そんなことを誰にでも言う子じゃない。
ましてや異性になんて……。この寒さだ。確かに俺たちが今遭遇している環境的に、二人でくっついていたほうがいくらか得策だとは思う。
だけど――恋愛感情の無い男に、果たしてそんなこと言うだろうか。
――言わないよ。絶対、言わない。
花は、きっと……俺とくっつきたいんだ。
他の誰でも無く……その、俺のことを……好きだと思ってくれているのかもしれない。
幼なじみとしてではなく、でも友達としてでもなく、男と、女として。
花を抱きしめたら――どんなだろう。
エレベーターの中で彼女にそうされたとき、俺は驚きのあまり何もできなかった。
……でも、あのとき花は抱きしめ返して欲しかったんじゃないだろうか。
そう思うと、彼女のことがずっと愛おしく感じられて。
もっと触れたい、愛したいと思ってしまう。
きっと気持ちいいと思う。柔らかい花の身体を抱きしめたなら、俺はそう思うだろう。その小さな肩を抱き寄せて、いい匂いのする髪の香りをいっぱい嗅いでみたい。好きな人と、身体をくっつけていられるのが堪らなく嬉しいと思う。
心も身体もほっこりして、幸せな気分になってしまうのがわかるのだ。
――俺がそう思ってしまうのは、花に完全な恋心があるからなのか?
でも、ここ最近の俺の気持ちは……花に感化された部分もある。彼女が俺に向けてくる気持ちが、俺を余計に沸き立てるのだ。
子供のときとは、やっぱり違う。
もう、ただの幼なじみじゃいられない。
――俺は、花と特別な関係になりたいのだから。
彼女はチラチラとこちらに目をやってから、焦ったように両手を振った。
「……あ、あのっ……や、やっぱりなんでもないの! その、ごめんね、忘れて――」
「花」
花のか細い手をぎゅっと掴んで、俺は柔らかくて華奢な身体をそっと抱き寄せた。
「あっ……ち、蝶っ」
花は面白いくらいに顔を赤く染め上げて、潤んだ瞳で上目遣いをしてきた。
「なんか……子供みたい。甘えんぼ」
俺は恥ずかし過ぎる台詞と共に微笑みを浮かべる。誰も見てないせいもあるかもしれない。今のこの雰囲気なら、どんな甘い言葉でも言えてしまいそうだ。
一方の花も俺の胸に頭をこつんとさせて、
「…………うん。ちょっとだけ、そうかも」
彼女はゆっくりと俺の腰に手を回した。力はまったく強くなくて。触れてるのか、触れてないのか微妙なくらいだ。
それでも彼女の指先からは静かな優しさと……少し恥ずかしい言い方をするなら愛情を感じた。
「くすぐったい」
色んな意味を込めて、俺はそうぼやいた。
ウェアを脱いでタートルネック一枚になっているせいか、お互いの体温を身近に感じられる。
指先には彼女の温かさがあって、この世界で一番好きな花の匂いが漂っている。
少し身を離した花がとろんとした瞳のまま俺の顔をじっと見つめた。
その茶の瞳は、俺を魅了するには十分過ぎるほどのものだった。
――トクン、トクンと波打つ振動が身体を駆け巡る。
「…………蝶」
何かに酔ったような表情を見せる花が、うっとりしながらそう呟いた。
「…………」
――これは……もしかして、キスの雰囲気……なのか!?
本当に? 夢じゃないんだろうか……。
「……花」
「蝶……」
まるで二人でどこか知らない世界に閉じ籠もったみたいに、俺たちは相手のことを穴が開くほど見つめた。花の綺麗な瞳孔が小刻みに揺れる。
頭がぼんやりして、今自分が何をしているのか。一体どういう状況下にあるのか、脳が冷静な判断が下せなくなっていることには気が付いていた。
二着のウェアが脱ぎ散らかった人知れぬ洞穴の中で、俺たちは抱きしめ合った。
花の背中を、肩を……腕に触れて、自然に身体を揺すっていた。
そして――、
次第に、俺は本能のままに花の身体をまさぐり始めていた。
息遣いが勝手に荒くなっていて、花の身体を悪戯に弄び――そして、
「……ち、蝶!? ……えっと、あの……」
気が付けば――俺は彼女のことを押し倒していた。
地面に横たわった花は胸に手を置き、乱れ髪のまま不安そうな面持ちでこちらを見つめてくる。
「……ご、ごめんっ」
「…………う、うん」
――訪れる沈黙。
俺は花の身体から退いて、頭を抱えながら背中を向けた。
――あぁ、もう……バカ野郎。せっかく良い雰囲気だったのに。
握り拳を作って、俺は心中でぼやく。
どうかしてる。一体何をするつもりだったんだ俺は。完全に雰囲気に酔ってた。あのままキスをして、押し倒した花の上に跨がったりなんかしたら…………。
――クソッ! これじゃ乱暴と一緒じゃねーか!
でも、やっぱり……俺は男だから。
悔しいけど、もう清廉潔白なだけの少年ではでは無いわけで。
好きな子とくっつき合ったりすれば身体が本能的に求めてしまうし、それを抑えられないときだってある。
もしかしたら……もう嫌われたかも知れない。
そのまま気まずくなってしまった俺は、花から少し離れて洞穴入り口付近へと移動した。荒れた雪景色はもうずいぶんと穏やかだったが、闇夜はずっと深くなっていた。
しばらくの沈黙の後――花が声をかけてきた。
「蝶、ここ……来てっ」
洞穴の中に花の声が反響する。かなり照れたような口調だった。
振り向くと、押し倒してしまったときの姿のまま寝そべりながら、彼女は隣のスペースをぽんぽんと叩いていた。
今夜――本当にここで一緒に寝るんだな。
嬉しいような、どこか苦しいような。どうすればいいのか、よくわからない。そんな複雑な感情が脳髄を走る。俺を掻き回す。
小さく溜息をついて、俺は花の隣に腰を下ろした。
「……ここ?」
「うん、そのまま寝転がるの」
言われたとおりに、俺は身を寝転ばせる。左隣には花。
二人で天井に目をやりつつ、その温かさをひしひしと感じ取る。
「ねね、これ掛け布団にしちゃおうよ」
「あー、いいね」
花が二人分のウェアを引っつかんで、それを身体の上に乗せた。
蝋燭に点った光が、俺たちの影を天井にゆらゆらと写し出す。
入り口からは細かな白雪が入り込んできて、冷たい風音がここら一帯をより一層凍てつかせるのだ。
その奥で、俺は心音を高鳴らせ続ける。
風と心音――二つの音しか、今この場には無いのだ。
俺も、花も口を開かなかった。
さっきの出来事が尾を引いていた事実もある。だけどそれ以上にこの状況が思春期の男女にもたらす影響というものはずっと強い。
「…………眠い?」
「んー……実はあんまり」
「……だよね」
くすりと笑ってから、花は手のひらを天井に向けた。
「……ねぇ、見て見て。ほらワンコ」
花が手や指で天井に影を作り出す。
「おっ……じゃあ俺もやろうかな。ほれっ、タヌキだ」
「ふふ、それキツネじゃん」
蝋燭の光を利用して、色んな形を作って二人で遊んだ。
しばらくそのやりとりを続けていると、突然花が頭をぽかりと叩いた。
俺が顔を横に向けると、花はこちらを見つめたまま、にこっと笑う。
「……ばーか」
「突然なんだよ、まあまあ馬鹿だけど」
「えへへ、ばーかっ」
花が嬉しそうに俺の脇腹辺りを小突いてくる。
こうしていると、幼いときの彼女との距離感を思い出してしまう。
花の笑顔を見ていると、さっきまでの邪な思いも吹き飛ばせてしまうような、そんな気持ちになってしまう。
「ねぇ、ねぇ」
悪戯っ子の笑みで、花が俺の肩を突いた。
「何?」
「んー、えへへ」
彼女は困ったように照れ笑いを浮かべてから、顔をウェアで覆い隠した。
「な、なんだよ! 気になるだろ、そうやってされると」
「なんか恥ずかしい」
いや、正直ニヤニヤが止まらないのはこちらなんですけどね。でも今なら隠さないでいいかもしれない。花だってニヤニヤしているから。
楽しくて、嬉しくて、心が満たされていくような、そんな感覚が俺たちの間に広がっていた。
「わたしたちってさ……その、幼なじみ……なんだよね?」
ウェアを頭から被ったまま、花が問いかけてくる。
俺と花は幼なじみ。改めて彼女にそう聞かれたのは始めてのことだった。
「んー……そうだね。小さいときからずっと一緒だったから、そうなるんじゃないかな」
少し前だったなら、きっとこんな風に素直に言えなかった。
俺は、花の“幼なじみ”であることを嬉しく思う反面、もしそうじゃなかったら……と思うときがあったから。
でも今なら言える。俺と花は幼なじみでよかった。
俺たちの心の距離が、確実に近づいているのがわかる。
ウェアからひょっこりと頭を出して、花は唇を緩め、笑った。
「わたしね、蝶が幼なじみでよかった」
「…………」
――ああ、やっぱりそうだったんだ。
彼女の告白が耳に届いたとき、俺と花の気持ちが昔から、今までずっと一緒なのだということを改めて実感した。それは、とても不思議な感覚だった。
小さいころから一緒で楽しかったよ、ありがとう。っていう気持ちも、今みたいな俺たちも、その全部をひっくるめているんだ。
「うん、俺もだよ」
俺がそう返すと、花は照れたように再びウェアで顔を覆い隠した。
「ふふ、わたしたち幼なじみだねっ」
「だ、だからそーだってば! 何回言うんだよっ」
馬鹿にされているような気もするが、全然気にならない。彼女が何度も俺にその事実を確認してくるのが、どこかおかしくて俺たちは笑い合った。
そんなとき――俺と花の瞳がふいに一致した。
そして、徐々に彼女の表情から笑みが消えていく。
「…………あのね」
「……うん、何?」
ちょっとだけ表情が大人びて見えた。さっきまでの甘えん坊はどこへやら、少しだけ寂しく思いつつ、俺は真剣に彼女の言葉を待った。
「そういえばね……」
「……うん」
「えーっと……」
「言いづらいことなの?」
「あ、いや……別にそういうわけじゃ…………あ、うどん好き?」
「え?」
「うどん! 好き? 嫌い?」
「……好きだけど」
「ふ、ふうん……」
「なんなんだよ……うどん」
彼女は慌てたように瞳を反らし、そのまま天井を見つめる。
しばらくして、横から花の視線が感じ――彼女と再び目が合った。
「ふふっ、何?」
つい笑みがこぼれて、そう質問する。
「え!? な、なんでも、ないけど?」
狼狽した様子ながら平然を装おうと必死なのが逆にかわいらしかった。
彼女はそのまま寝返りを打ち、俺に背を向けた。
――もうそろそろ、お喋りも終わりかな? もう大分遅い時間だろう。
そんなことを考えていると、花が喋りかけてきた。
「……そういえばね…………その、女子部屋のみんなにね……わ、わたしたち……つ、付き合ってるんじゃないの……って言われちゃった」
「ふーん……」
……ん? 今なんて?
「えっーと……」
「…………」
それは……俺と花が男女交際をしてると思われている、ってことでいいんだよね!? マジか、俺たちが!?
修学旅行の女子部屋で密かに開かれる噂のイベントか……。
男子にとってはまさに秘密の花園というやつだな。
自分の知らないところで俺の話題が繰り広げられているというのは、嬉し恥ずかしい。……周りから付き合ってると思われてるってことは、かなり仲良しだと思われてるってことだ。
「……ちょっと……何か言ってよ。……ね、ねえってば」
「えっ……あ、ああ! そ、そーすかっ」
「もうっ、何それ~」
何言ってんだよ俺! そーすかってなんすか!
「…………」
「…………」
再び沈黙に陥る。
――うわぁ、なんだこの気まずさ! 気まず過ぎる……!
でも……そう言われて、花はなんて答えたんだろう……。
俺は心臓をバクバク鳴らしながら緊張した面持ちで訊ねることにした。
「……それで、なんて言ったの?」
「え?」
「だ、だから、……付き合ってるの? って聞かれて……なんて言ったんだよ」
くぅ……我ながら恥ずかし過ぎる。あぁ……何この空気っ……。
「…………」
彼女の口が開くのを待ちながら、思う。
藤川はこんな空気が漂う中で告白したんだな。
それも、周りに俺や花が居たのに。……凄いよ。本当に。
「…………気になるの?」
「……う、うん」
「…………付き合ってないよ、って言った。ただの幼なじみだよって」
――う……、何故だか俺が恥ずかしくなる。ベタだけど俺は自分の脳裏で勝手な萌えシチュエーションを作り出した。
きっと花は顔真っ赤にしながら、腕をぶんぶん振り回して否定したんだろうなあ……。現場を見ているわけでも無いのに、中嶋たちにからかわれる花が想像できた。
「……そんなこと、言ったんだ」
「……なんか不服そう」
花がジト目で俺を見つめてくる。かわいい! ありがとうございます!
「そ、そんなことないってば!」
「……他に言って欲しいことがあったみたい」
「…………」
「……なんて言ったらよかった?」
花の優しい声音が、俺の耳元まで届く。
「……いや、いいんじゃないの。別に、その……付き合って……無いわけだし」
「…………」
言いながら、自分自身の胸がキツくしまっていくのを感じる。胸の奥で何かがチクりと痛んで、同時に凄く後ろめたい気持ちになった。
俺と花は特別な関係じゃない。どちらかが愛を告白したわけでもないし、相手の本音をすべてわかっているわけじゃない。事実であることは確かだ。
だけど――嫌な気分になってしまった。自分で言っておいてなんだけど。
俺の言葉から、しばらく花の反応が無かった。
それが俺は何故だか怖くなって、ちらりと花の背中を振り返ると――、
「ね、……ぜんぜん、そんな風じゃないのにねっ」
花の声が、少しだけヘンだった。
きっとお互いに顔を向け合いながらだったら、言えなかっただろう。
相手の顔が怖くて。自分の顔が……怖くて。
正直な事実に納得した表情を見せられてしまうことが……とても怖い。
今……、一体自分はどんな顔色になっているんだろう……。
「……うん」
「……ね、そうだよ」
俺は空返事を返し、花の悲しげな声を聞いてから再び彼女に背を向ける。
――花の気持ちに、俺はもう気が付いていた。
だからこそ、花には真正面から俺の気持ちを伝えたい。
このまま付き合ってしまえれば――と思うけれど……。
この想いは、そう簡単には伝えられない。
もう少し、あと少しだけ…………時間が欲しい。
――それから、花はぴたりと動かなくなった。
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