第46話 キスして

 ――ちゅーとか……ってしたこと、ある?


 花の言葉に、俺は文字通り頭の中が真っ白になった。


 声にならない。

 花からそんなことを言われるだなんて、思ってもみなかった。それも、こんなにお互いの瞳を見つめ合いながら。


女の子と過去にキスをした想い出は、花としか、したことがなかった。

 幼い頃の彼女と――あの約束の場所で。


 あの日の想い出なら、鮮明に記憶していた。

 でも、花から問われたということは、もしかして彼女はすっかり忘れてしまったのかもしれない。それとも、あれは数に入っていない?


「……し、したじゃんっ………………覚えてないの?」


 少しだけ悔しい気持ちになりつつ、口にした。

 あの約束の場所でのことを言ったつもりだ。というか、それ以外に無いから。


「…………お、覚えてるよ。……き、聞いてみただけっ」


 花の瞬きが多くなる。俺は一瞬だけ視線を彼女の瞳から艶やかな唇へと移動。すぐに彼女の瞳へと戻った。


「そ、そっか」


「うん……」


 気を落としたように言った。でも……。実は――凄く嬉しかった。

 あの日のキスのこと、ちゃんと覚えてくれていたことが。


 多分……俺と花にとっての、初めてのファーストキス。


 見つめ合ったまま、俺たちの沈黙は続いた。

 気のせいか、さっきよりも花をずっと近くに感じる。


 上目遣いで見つめてくる花は、一体何を求めてるのだろうか。

 ……なんとなく、わかってはいた。

 彼女のその瞳が俺に語ってくる言葉は、「キスして」だったから。


 茶色のかわいらしい瞳を瞬かせながら、花が俺のことをじっと見つめてくる。

 俺はその瞳に吸い込まれるように、ただただ見つめ続けた。


 こんなにも長い時間、人の目を見つめるのは初めてのことだった。


 もう一度だけ、花の唇を一瞥する。

 綺麗な色。その曲線は、丸みを帯びつつもちょっとだけ大人っぽくて。少しだけ漂う色香の唇。

 見ているだけで、その気になってきてしまう。

 たとえ違ったとしても、求めているんじゃないかと、思ってしまう。


 心音も最高潮だった。もうこれ以上早くなることが考えられない。

 だけど花と二人でこんな空間が出来上がってしまうのが、俺は少しだけ怖かった。拒絶されてしまったら、それまで築いてきたすべてが、消え去ってしまうと思ったからだ。


 でも、こうして異性だと思ってもらえていることが、今はとても嬉しかった。

 ――花も……俺のことを…………。


 そう思った矢先――花の唇が動いた。


「あのね……」


「……ん?」


 途轍もないドキドキの中で、俺は彼女の次の言葉を待った。



「……わたし、わたしね……」



 ――やっぱり、花があのとき、俺にエレベーターで抱きついてきたのは……。

 こうして恋する乙女のような瞳を、俺に向けてくれるのは……。



 俺のことが……好きだから――?



 その考えを、思考の片隅から中央に引っ張り出して、存分に向き合う。


 俺たちは――――両思い?


 脳内会議でそんな結論を出したとき、どこからともなく声が聞こえてくる。



「もうすぐ消灯時間だぞー! 早く部屋戻って寝なさい!」


 夜回りをしていたらしい学年主任の声が響いて、俺たちは身体をビクッとさせる。


 すぐに花が俺の身体からパッと離れ、元々赤かった顔をトマトのようにさせる。

 そして、それは俺も全く同じだった。


 俺たちの良い雰囲気をバッサリと切り裂いた張本人は、禿頭を十分に輝かせながら、去っていった。そのまま夜のランニングにでも行ったらいいよ。きっとカラス餌食さ。はっはっは。


 ようやく頭が冷静さを取り戻した。脳裏に渦巻いていた幾つもの思いが吹っ飛んだと言ってもいい。

 だけど、隣の花とも人一人分の距離が出来てしまった。

 残念ではあったけど、俺は心のどこかでほっとしていた。


 ――さっきの流れはきっと……キスの雰囲気……だったよな? ……多分。

 さっきのは……してもよかったんだろうか。何となく花の表情がそう言っているように感じただけで、一瞬の気の迷いだったような気もしてくる。何しろ、頭真っ白だったし。


 とりあえず、とんでもなく緊張した。惜しかったのか、よかったのかよくわからないけども。


 花の方に体を向けると、彼女も俺に合わせて身体を向けてきた。二人でもう一度顔を合わせると、お互い顔が真っ赤で。


 なんだか、頭から湯気が出そうだった。


「ああ~、怒られたー!」


 花が真っ赤な顔を押し隠すように、冗談めかして自らの膝に埋める。

 そして、大きな溜息をついたのと同時に、顔を起こす。


「……消灯、早いんだね」


「楽しいと過ぎる時間早いって言うじゃん」


「ふふ、楽しかったの?」


 まるで弟に向けるような笑みで、花はくすりと笑った。


「えー、花は俺と居て楽しくないのかよ!? ちょっとショックなんだけど!」


「ううん、楽しいよ」


「……なら、俺も」


「えへへ……わたしも」


 消灯前、人気の無い土産屋の前で俺たちは笑い合った。


 * * *


 エントランスまで歩き、エレベーター前の広場で俺たちは別れることになった。

 ボタンを押してから、俺は花に手を振る。


「じゃあ、おやすみ。俺は階段から帰るよ」


「うん。おやすみなさいっ……また……また明日ね!」


 到着したエレベーターに乗って、手を振り返してくれた。

 俺は彼女にもう一度別れを告げると、物思いに階段を上っていく。


「…………」


 暗がりの階段の中で、俺は一人で身体を反った。ほぼブリッジに近い。にやにやした顔のまま、脳裏に焼き付いた花の映像をフラッシュバック。


 ――おいおい、俺氏どうした?

 なんか最近上手くいきすぎなんじゃないのか!?

 誰が予想したよ! まさか花とあんなにラブラブした感じになるなんて!

 手繋いだり顔を近づけたり…………キス――しかけたり。


 ほぁああああああああああああああああ!!

 マジか!? お前マジなのか!? 正気なのか蒼希蝶よ! バタフライよ!


 はぁ、今想い返せば夢だったのかもしれん……。

 ああ、許されるならさっきのやりとりを動画にとって一生の宝物にしたかった。


 冗談はさておいて、今の俺はとにかくウキウキが止まらないのだ。

 自然とにやけるバカ面で、自室の扉に手をかけた。

 ガチャ。


 はいオートロックー。

 毎回存在を忘れてしまう俺である。インターホンを押すと、ミッチーが扉を開けた。


「ふ、朝帰りかと思ったぜ、バタフライのくせしやがってよ」


「第一声がそれかよ」


 ちょっと前から気になってたけど,なんだよ『バタフライのくせしやがって』って。なんでそんなに多用してくるんだよ。俺一体どんな存在なんだよ。


「おっ、ようやくお帰りかよクソ蝶! 早く夜の男子会やろーぜ!」


「なんだよ、随分騒がしいな。なんかあったの?」


 夜の男子会とは一体。

 俺はやけに張り切っている健治をシカトして、藤川に尋ねた。クソ蝶の罪は重い。あとで靴紐を部屋のどこかに隠してあげよう。感謝しろ、フライキャニオンのくせしやがって!


「蒼希、財布は?」


 心配そうな顔を浮かべる藤川に、俺は親指を立てた。


 * * *


 夜中も二時を過ぎた頃、健治が俺たちをなぜだかテレビの前に座らせた。


「なんだよ、一体何が始まるんだ」


 俺の言葉に、健治の口がニヤリと曲がった。


「おいおいマジっすか……テンション下がんな~、皆さん修学旅行でっせ? ここ、男子部屋っすよ? やることなんて一つしかねーだろーが。はい、藤川くん。なーんだ?」


 付き合いも他の奴より長いだけあって、彼の企みに俺は既に察しが付いていた。

 テレビの前に集まると言うことを考えると……一つしか無い。


「え、なんだろ……こ、恋バナとか?」


「え? 何それ。美味しいんすか? つかマジで言ってんですか? 恋バナ? それ本気? ちょっとまって藤川きゅん超絶かわいいんですけど!」


 これには健治、大笑いである。

 とりあえず藤川が純で、健治は不純だというのを改めて認識することができた。

 こいつに藤川は近づけてはならないんだな、ふむふむ。


「そんなもん! AV鑑賞会に決まってんだろ! 安心しろ、ソフトはちゃんと持ってきた! おら、そしたらさっさとプレーヤーを探せ、このバカ共がっ!! 動け働け性欲の獣どもが!!」


 健治が真っ黒な袋から、とあるパッケージをちらつかせる。

 半裸の綺麗なお姉さんが、魅惑的な視線でこちらにウインクしている。


「ぇ、えーぶい……」


 藤川が途端に耳を赤くする。

 この現代に、ここまでのピュアボーイがいただなんて、俺は驚きだよ!

 ということで、ついでに俺も隣で耳を赤くさせた。なぜだか他人が赤面しているのをみると、移ってしまう俺だった。


「……うっわ最悪だ! クソがッ! この部屋プレーヤーがねえじゃねえか! 薄型のゲーム機でも持ってくるべきだったから!!」


 アホすぎる。

 こんな男だが、一緒に居るのは楽しいし飽きない。それはミッチーや藤川も。

 きっとこの修学旅行で、俺はみんなのことをもっと好きになれた。

 高校生最後の修学旅行が、この四人で良かった。


「もー無理だろ。ほら、さっさと諦めて大富豪やろーぜ、健治」


「ざけんじゃねー……1日でも溜めると爆発すんだぞ、俺のマグナムはよ」


「それ大分やべーよ。さっさと病院行け」


「フライキャニオン、これは?」


 ミッチーが、テーブル上に置いてあるクリアファイルを健治に渡した。

『アダルト』という文字が一瞬見えた。


 つかミッチーは何をしてんだ。お前は健治の手下か。


 スマホで適当にネット検索して見るのはダメなの? と言いそうになった俺だったが、テレビ画面で見るのがロマンだとか言いそうだったので、俺は言うのを辞めた。


「ほぅ……アダルトチャンネルか。いいじゃねえか、コイツだ! でかしたぜ三井! な、何!? せ、千円……だと!? 高いが割り勘なら……って、あれみんなは?」


「寝るってよ」


「でたー! そうやって良い子ちゃんぶり奴~! 本当は蝶も藤川もエロいお姉さんを見たい癖にっ! このデカいテレビ画面で!! おい! マジで寝る気なのかっ!? いつまでもそーやってムッツリしてっと今夜辺りに爆発すんぞ! てめーらのマグナムが――」



 壁越しにそんな声が聞こえてきたが、俺は気にせず目を瞑った。


 明日は、またスキーをして……夜に函館山だ。

 花と約束……しちゃったもんな。


 思い出すと、頬がほころんでついニヤニヤしてしまう。

 幸せだった。そして、花と過ごす明日にとんでもなく緊張する。


 ――数時間後


 しばらく――眠れなかった。

 何度か寝返りを打って、耳を枕と密着させる。

 すると、鮮明な心音が俺の鼓膜まで届いてくる。


 ――あぁ、寝れないな。

 頭の中は花のことばかり。彼女の笑った顔。愛くるしい顔。…………裸……は考えてない! 考えてないから! 本当だ!


 薄目を開いて、目前で寝息を立てるイケメンを一瞥。

 鼻くそ付けたろか、このイケメンめが。


 ――でも、こいつも酒井と上手くいくといいな……。応援してるぞ。

 心の中でそう告げて、俺はそのまま眠りにつく。



 ――数十分後


 眠れない。

 俺は無だ。宇宙空間に存在する塵だ。

 自分にそう言い聞かせる。


 しかし――リビングの方からはみだらな女の声が響いている。


「あぁ~、ダメなんだよ。そんなんじゃ! まず根本的に違うんだよな、もっとこう……バックからこうさぁ……わかんないかなぁ……あーあ、使えねえわ、この男優。ちょっとイケメンなところもマイナス点。総評はBマイナスってところだな」


 そして童貞評論家健治。お前まだ未成年だろ。何悟ってんだよ。

 ツッコミを入れつつ、結局――俺はその夜全く寝付けなかった。

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