第35話 花のおまじない

 視界一面、真っ白だった。

 曇り空に白い地面。さらさらとした粉雪が舞い落ちる。

 空に手を翳してみると、付いた白雪がじわっとすぐに溶けてしまった。


 ――そう、ついにこの日がやって来た。

 俺たちは朝からゲレンデに来ていた。

 ウェアやスキー用具を各自レンタルしてリフト乗り場付近の大きな看板の前に集合。ミッチーと花以外は既にみんな到着していた。

 俺は担いでいたスキー板を積もった雪に突き刺して、リフト券を腕のカバー部分へと入れる。


「てゆーかよ、なんでバタフライのだけそんな短けーんだよ……棒もないしよ」


「棒じゃなくてストックな。これはファンスキーって言うんだ。長さ130センチ以下のスキー板をそう呼ぶんだよ。ストックはそもそもなくて両手を開けて滑れるスタイルなんだ。スピンだとか、ジャンプとかしやすいの」


 背後にぴったりと付いてくるミッチーに説明してやる。


「……ほぅ」


 なんだその理解してないけどもうこれ以上聞きたくねーよ、みたいな顔は。

 看板前に来ていない班員は、あと花だけだ。俺はミッチーから顔をそらして、こちらへ向かって歩くスキーウェア姿の花に注目する。


 かわいい白のウェアにボンボンの付いた帽子。履き慣れないブーツでぎこちなく前へ進んでいく仕草がとても愛らしい。


 かわいいけど、なんだかこけそうだ。


「ふぎゃっ!」


 やっぱこけた。

 俺は口元を緩めて看板の前を離れ、雪面に尻をつける花の元へと向かった。


「大丈夫?」


「だって……これ重いんだもん」


 スキー板を抱えたまま、不満そうに唇を尖らせる花。

 俺はそんな彼女の身体をぐいっと引っ張った。しかし、すぐさま深い雪に身体の自由を奪われる花。


「……何してんの」


「埋まっちゃった……は、はずかし」


 彼女の照れ笑いに、つい笑顔になってしまう。歩き方から教えてあげないといけないな。

 見事に太ももくらいまでずっぽりと新雪に身体を沈めた花が焦った様子で、


「ぬ、抜けないよ~! 助けてぇー」


 と、耳を真っ赤にしながら必死に手を伸ばしてくる。

 子供みたいでかわいかった。


「はいはい、今助けるよ」


「ちょっと、何その言葉! バカにしてる!」


 俺は口角を上げながら彼女の元へ。

 にやにやしながら花を見つめていると、上目遣いになった花が俺をじっと見上げてくる。


「は、早く。……恥ずかしいよ、このままなんて」


 別に二人きりというわけでもない。

 公衆の面前で花の身体に触れることが、少しだけ照れくさいだけだ。

 俺は花の手を掴んで思い切り引っ張る。


「あっ、痛い! 待って! たんま!」


「ごめん、ちょっと力入れすぎたかも。でも、抜けないね」


 手を離すと、花は俺の腕を求め、不安そうな表情で忙しなくバタバタさせる。

 そんなおかしな花の立ち姿に、俺はついくすりと笑ってしまった。

 ついでに帽子のポンポンをを軽くぽんぽんしておいてやる。

 すると、花が小さな声で何かを呟いた。


「ん? なんか言った?」


「……っこ」


 近くの俺にも聞こえない位の距離で。


「へ?」


「…………だ、抱っこ」


 頬を真っ赤に染めて、潤んだ瞳のまま真っ直ぐ俺に手を伸ばしてくる。

 かく言う俺もその案が最初に浮かびはしたんだが。でも、それ……実行してもいいんだろうか!?


 ああ、言い方がかわいすぎて死ねる。なんだよ抱っことか。それ甘えてんのかよ、ああ、もっと甘えてくれよ俺に花のかわいいのすべてを見せてくれよぉ!


 よし――俺は、抱っこするぞぉ!!


「……は、はやく。恥ずかしいから。まだみんな来てないんでしょ? ほら、今のうちに」


 何この秘密を共有する感じ! 超嬉しいんですけど!

 確かに集合場所でさっきから視線を飛ばしてくるミッチー以外は基本的にこっちを見ていないらしい。


「お願いだから、蝶」


 花が雪を溶かしてしまいそうなほど真っ赤に耳を染めて、恥ずかしそうに呟く。

 そんな表情にとてもいとおしさを感じる。


「まーしかたないか。じゃあ抱っこ行きまーす」


 俺はやれやれと頭を掻く素振りをしながらどっかで聞いたことあるセリフを言う。

 花の服越しの柔らかい腋にそっと両手を差し込み、ふかふかの雪からひょいっと彼女の身体持ち上げる。


 以前おんぶをしたからわかるが、花は軽い。でもブーツの重みもあって少しだけ重さが増されていた。


「……んっ」


 持ち上げるためにぐっと身体を密着させる。これ不可抗力ってやつですから。

 一瞬でくらっと来てしまいそうな甘い匂いと、女性特有の柔らかさに感動しているとき、


「……な、何?」


 彼女のことを持ち上げたまま、一度目が合う。花はやけにそわそわしていた。


「……く、くすぐったい! 降りる!」


「あっ、悪い」


 俺はそのまま花をしっかり歩行できる場所へと降ろした。

 花はウェアに付いた雪を払いながら、ありがとうと呟いた。


「…………」


「…………」


 少しだけ気まずくなりつつも、俺たちは集合場所の看板前を目指すことにした。

 途中、ちびちびと歩く花に俺はアドバイスする。


「もっとさ、こう……どすっ、どすって感じで歩くんだよ。偉そうに」


「どすっ……? こう? え、よくわかんない」


 俺に言われるがまま花は靴に歩かされるみたいに不格好に足を一歩ずつ進める。

 その格好がまるでロボットみたいで、俺は堪えていた笑みを溢れさせた。


「ぷっ……ははっ」


「もー、わたし頑張ってるのに! 笑うなんて酷いよ!」


 むくれる花のスキー板を代わりに持って、俺たちはゆっくり歩いた。


 * * *


「お、蒼希、赤希ペアだ。これでみんな揃ったね。先生に報告してくる!」


 藤川が俺たちを指で数えると、引率の先生の元へ駆けて行った。ふと俺の視界に酒井が入る。傍目から見ても、滅茶苦茶藤川を意識しているのがわかる。酒井は、走る藤川の後ろ姿を追っかけていたのだ。


「……おい、酒井」


 ぼけっーとする酒井に、耳打ち。


「……ん」


「実は昨日藤川と話をする機会があってさ。あいつ、彼女いないってさ」


 当人には聞こえないよう声を潜めながら伝える。

 両想いだということは……伝えずに。


「…………そ、そうなのね。ふ、ふーん…………わかった、ありがとう」


 嬉しそうな顔を期待していただけに拍子抜けだった。だが、言葉の端々から嬉しいという感情が垣間見える。応援してるよ、酒井。


「よーし許可でた! みんなー! 早く列に並んで!」


 先生に報告を終え戻ってきた藤川が、リフト乗り場の列へ向かう。どうやらリフトは二人乗りらしい。ペア同士乗るのか? だとしたら、俺は花と一緒ということになる。

 緩みそうになる頬を抑えて、前方のやけにむすっとした中嶋に声をかける。


「中嶋、ミッチーに板の担ぎ方を教えてやれよ。なんであいつ指だけで摘まんでるんだ」


「だって言っても聞かないんだもん」


「ふはっ、バタフライのくせしやがって。そんなに短い板なのに、指で摘まむことすらできないのかよ。弱いな」


 ふはっ、じゃないんだよ。危ないから止めろ。あと弱いってなんだ。


 列の先頭が藤川酒井ペア。次に健治佐藤ペア、ミッチー中嶋ペアと続く。

 しかし、俺の隣には花がいなかった。今日はなんだか花に振り回されている気がするな、と微笑みながら辺りを見渡すと、先ほどまで待機していた看板前で雪に刺したスキー板を抜けずにいるらしい。


「んうっ……んん~!」


「……何してんの」


 リフトの列を抜け、踏ん張る花の後ろから声をかける。


「抜けないのっ……んっ~!」


 顔を赤くしながら踏ん張っていると、


「きゃっ!!」


 板がすぽんと抜け、宙を飛ぶ。そして、花の背中が俺の胸に接触し――そのコンマ二秒後、俺の顎にとんでもない殺傷能力をもった攻撃がクリーンヒット。突然の痛みに顎の感覚が失われていく。頭に星を浮かんだ。


 顎に触れてみると、じんじんするだけで血は出ていないようだった。少しだけ腫れている。板のエッジ部分だったら洒落にならなかったけど。


 ああ、これで顎が割れたりしたらどうしよう。


「蝶!! だ、大丈夫!? ま、まさか当たったの!? 起きて、蝶ってば起きて!」


 驚愕した顔の花が俺の傍にやって来た。


「……ケツ顎になってない?」


 泣きそうな子供みたいな声で質問する。


「けつ……あご? ……な、なってないと思うよ。いつも通り。」


 花は大きな瞳をぱちぱちさせて、じっと俺の顎を凝視してくる。


「それより痛くない? 手当てしなくちゃ」


 花が忙しない動作で俺の身体のあちこちに触れてくる。いたわってくれるその気持ちだけで凄く嬉しいのに、かなり緊張する。目が合いそうになると、つい反らしてしまう。


「へ、平気だよ……それより、ち、近い……かな、ははっ」


「あ、ごめんなさい……」


 自身のしていることに気が付いたのか、花はぼっと顔を赤に染めた。

 途端に広がる甘い空間に、俺はついニヤニヤしてしまう。

 もうニヤケツである。ニヤニヤケツ顎太郎かよ。


「……大丈夫? ちょっと見せてみて」


 花が俺の顎をくいっと持ち上げて、負傷した部位を優しく撫でてくれた。


「痛いの痛いの飛んでっちゃえ~!」


 懐かしいおまじないが、俺の耳に入り込む。

 過去に数々の痛みを吹き飛ばしてくれた、俺にだけ効く花の魔法の言葉。

 この言葉には不思議な安心感があって、俺は幼いながらにその妙な心地よさを感じていた。


 優しい気持ちになるような。ほっとするような。柔らかい雲に包まれたみたいな。

 痛みなんて、忘れさせてくれる、そんなおまじない。


 ――でも、流石に恥ずかしい。俺たちはもう高校三年生である。


「…………あ、ありがとう」


 俺は顔が熱くなるのを感じながら、お礼の言葉を口にする。


「……うぅ……は、恥ずかし。言わなきゃよかったぁ」


 頬を染めながら俺におまじないをかけてくれた花。声が少しずつフェードアウトしていく。


「サンキュ! もう大丈夫だよ、おかげさまで」


 俺は地面に転がった花のスキー板を担いで、リフト乗り場へと歩く。


「待って! 百瀬先生来てるみたいだし、わたし呼んでくるよ!」


「大丈夫だよ、花のおかげでもう痛くなくなったから。それに、早く滑りたいしね」


「……じゃ、じゃあ……ちょっと滑ったら一緒に先生に見てもらおう?」


 花が不安そうな顔で俺の表情を窺う。


「わかった!」


 俺の返事を聞いて、花は満足そうな顔で笑った。

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