第8話 にやにやが止まらない
時間はとっくに7時を過ぎていた。
俺は膝に肘を乗せて、即席の土台で顎を支えたまま、時計の針だけを見ていた。
「…………来ない」
掃除はした。徹底的に。俺の部屋(恐らく入らないとは思うけど、一応。念のため。何かが起こってからじゃ遅いからな!)を初めとしたこの家の至るところを。
――よくよく考えてみると……。
両親のいない健全な男子高校生の家に、女子高生が一人で訪れるって……。
……ヤバない? これ相当ヤバない?
――ああ、いかんいかん。花はそういうのとは違う。そんな下世話な事情とは切り離された、もっと神秘的で純潔たる存在なんだ。
いい加減に身体が緊張に耐えられなくなって、一気に気を抜いた俺はソファーに倒れ込み、ぼうっと天井に視線を移す。
「…………」
花と、性的なことがらっていうのは、どうも俺の中では上手く結びつかない。
純粋な子供の頃のまま、イメージが固まっているせいだからだろうか?
――花は、俺の家に上がることについて、どう考えているんだろう。
俺のことを、男だと意識してくれてはいるんだろうか……? それとも……。
瞼を閉じた瞬間、インターホンが鳴った。
「キタッ」
俺は勢いよく身体を起こし、モニターを確認する。そこには花が佇んでいた。私服だ! 至福!
俺はにやにやとしてしまう頬を思い切り叩いて、玄関の鏡に目をやる。
下から、上まで、鏡でもう一度自分の身形を入念にチェック。
「…………うん、悪くない、悪くないよ、お前。そこそこだ……72点!」
自らを鼓舞するため、俺は甘めの点数を口にしながら、波打つ胸を押さえて玄関の扉に手を伸ばす。
いや――待て。ここは一度モニターから一言挨拶をすべきだろう。いきなり面と向かって会うのは気が引ける。(さっき会ってるけど)
俺は踵を返し、カメラの前の花を確認し、通話ボタンを押した。
「……はい」
「…………ぁ、赤希でーす。……来ました~」
花の挨拶からは、少し他人行儀な感じを装いつつも、こちらへ歩み寄ろうとする健気な様子が見て取れた。
――くっ、なんていうかわいさなんだ。このまま返したくない! まだ家に入ってもいないけど。
――歯磨きはした、髭も剃った、髪も大丈夫。服装はラフだけど清潔感はあるはずだ。
一度深呼吸する。
「……入っていいよ。鍵、空いてるから」
「ほんと? じゃあ、おじゃまします」
花が控えめに微笑む。それすら愛おしい。俺はその場に崩れ落ちて、歯を食いしばった。
――くぅッ~!
俺は心臓部を何度か強く叩いた。とんでもないくらい、胸が高鳴っている。
できれば、「あっ、来たの?」くらいの感じを演出したいんだ、俺は!
余裕を持って、花と会話ができるようにしたい。
――でないと、俺の心音が花に聞こえてしまいそうで。
心なしか、股間あたりに不思議な感覚を覚える。
別にいやらしいことを考えているわけではない。こう、キュンとするというやつだ。
昔偶然見つけた、初々しい恋愛関係の質問板を見ているときのような。あれはなかなか堪らない。かわいいJKが必死に考え、悩みを打ち明けてるかと思うと。
俺はにやにやしながら、リビングで花が来るのを待った。
しかし――花は一向にやってこない。というか、さっきからガチャガチャと玄関で音が鳴っていた。
まさか――。
さきほど消えたはずのインターホンが再び鳴り、モニターが再び点灯する。
「鍵、閉まってるんですけどー!」
「あれ? マジで? ごめん! すぐ開ける!」
いつも鍵なんか閉めないのに、今日に限ってセキュリティ厳重な俺だった。
俺は急いで玄関に向かい、鍵を解除し扉を開けた。
「もー、イジワルされた~」
頬をむっと膨らませて、花が玄関に入った。
「あー、ごめんごめん。入って」
――めっちゃかわいいんですけど。何今の感じ。
俺は内心大分キュンキュン来ていたが、あくまでも平然を装った。
今の言葉と表情は、間違いなく殿堂入りだ。
「お邪魔しまーす」
「どうぞ~」
膝上のデニムスカートに、白いシャツ。簡素でいて、とてもかわいらしい格好だった。
とても似合っている。当人にそう言ってあげたいが、流石にハードルが高い。
花はリビングに進み、鞄を置くと、さっそくエプロンを取り出した。
俺は身支度をする花に見とれて、その場で固まっていた。
花が、思考停止寸前の俺の前で手を左右に振る。
「……お、お~い」
「えっ……ああ、その……いいエプロンだと思う」
なぜかエプロンを褒め始める俺。何を言っとんねん。
「あ、そう? ありがと」
「では、今日もよろしくお願いします」
「ふふ、はあい」
花が笑ったのを確認し、俺はテレビを付けた。そのままソファに腰を下ろして、内容の入ってこない番組に目線だけ送る。
一方でキッチンへ向かった花が、冷蔵庫を開ける音が聞こえた。
「今日、カレーでもいい~?」
――なんか、新婚夫婦みたいじゃない……?
俺は突然訪れた幸福感に頬を緩ませながら、クッションに顔を埋めた。
「い、いいよ……」
そんな片言の俺を花はくすりと笑って、
「じゃ、ちょっとだけ待っててね」
なんて――甘々なセリフを残し、作業にとりかかった。
しばらく心音が収まることはなかった。
垂れ流されるテレビに耳だけ傾けていると、とあるコーナーが始まった。
『は~い! 今回は初めて恋人の家にお邪魔したときの、男女の深層心理についてです! きっとドキドキしますよね~』
――その通りです、お姉さん。
俺はテレビの中のMCに心で返事をしながら続きを待った。
『今日は手料理を作りに来た彼女が、彼氏の家に訪問する、というありがちなパターン時の、男女の深層心理について紹介したいと思います。あっ、もちろん両親はご不在という、王道展開です!』
「………」
「………」
――これは。
紛れもなく、俺たちの今と重なっていた。
『彼氏は空腹です。もちろん、色々な意味で。ここで彼女の愛情100%の料理で身体も心も温めてしまいましょう! カレーなんていかがでしょう! きっと熱々になれますよ』
――きっと花にもこれ聞こえてるよな。
『そんなとき、男子がどぎまぎする気持ちももちろんわかりますが、ただ座ってテレビ見て待ってるだけなんて頂けません。そんなんでは、幻滅されて来週辺りに破局するでしょうね』
――何コレ、俺に忠告してんの?
『今すぐ彼女の横に行って、言いなさい!「何か手伝うことない?」爽やかに、できるだけ笑顔で言うのがポイントですね。緊張すると効果は半減。さらりと行きましょう』
「…………」
俺は黙ってソファから腰を起こして、キッチンへ向かった。
花がびくりと大きな瞳で俺を見つめてくる。
「何か手伝うことない?」
とりあえず、言ってみた。
「う~ん……だ、大丈夫だよ」
「あ、そう?」
「……うん」
花は、あ、こいつテレビ通りの動きしやがったな、みたいな目で俺を見る。
俺はその視線を背中に受けながら、とりあえずソファーに座り、再びテレビに目を向けた。
『断られてしまった男子もいることでしょう。でも心配はご無用です。このときの彼女は照れているだけなんですねえ。今は、温かい目で料理の完成を待ちましょう』
――照れてるのか?
俺は、横目で調理中の彼女を確認する。
花と目が合う。なんと、あちらもおたま片手にこちらを確認していた様子だ。
俺は流れるような目の動きで、そのまま視線をテレビに戻す。
『一方で、料理の完成を待っている彼氏は、邪なことで頭がいっぱいです! 健気に料理を作ってくれている彼女などなんのその、どうやってそういった方向に持っていくか、それに全神経を注いでいるわけですね!』
――なっ!? ふざけんな! そんなこと考えてないし!
『かく言う彼女の方もですね、少しは覚悟をして来ていることでしょう。何せ両親のいない異性の家にやって来ているわけですからね、「迫ってきたらどうしよう……」とか、「断ったら、嫌われちゃうかな……」とか、考えているわけですね。つまりセックスを――』
俺は無理矢理テレビを切った。
――どうしよう……とんでもなく気まずいんですけど!
色々と、妄想してしまう。……もちろん過激なのとかもだ。男子なんてそんくらいしか脳の使いどころがないだろ!
俺は染まる頬をつねった。
煩悩は全部自分の中から抹消するんだ! でないとわざわざ料理を作りに来てくれた花に失礼だ。
俺が考えているようなことなんて、花はちっとも思ってもいないだろう。なぜなら花は清廉潔白だから。エロい目で見るほうがどうかしているのだ。
俺はテレビに反射する自分自身を視認する。
にやにやが止まらない。どうやら……俺はもうだめらしかった。
せめて、この顔を彼女に見られて気持ち悪がられるのだけは避けよう、そうしよう。
誠実に行こうじゃないか、俺。
しかし心とは裏腹に、テレビに反射する俺の顔面偏差値が低下していたのは言うまでもない。
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