第7話 縁結びの黒犬

 下駄箱で靴を履き終えた俺は、まだ履き替え途中の花に視線を落とした。


 そんな待ち時間に、少しそわそわしてしまう。

 ――どう待ってればいいんだろう。彼氏とかに間違われたりしないだろうか。そりゃ間違われるのは光栄なことだけれども! でも花はそんなん嫌かもしれないし!


「……どしたの?」


 靴を履き終えた花が、つま先を叩くついでに俺を見つめる。


「……い、行こうか」


 俺は歩を進める。それに続くように花も歩き出した。


 校庭に出ると、野球部たちが声を掛け合いながら練習していた。

 隣の花に目を泳がせる。さらさらの髪が歩く度に揺れている。

 綺麗な首筋が……一瞬だけ、見えた。


 ――あぁ~、ヤバイ。これは。尋常じゃないくらいドキドキするな、……一緒に帰るのって、小学2年以来?


 俺の瞳が、地面と彼女とを忙しなく移動する。


 いつから、そんな柔らかそうな身体になったんだ。

 いつから、そんなにいい匂いがするようになったんだ。


 校庭を進んでいると、野球ボールがころころと転がってきた。


「すいませーん!」


 こちらへ駆けてくるのは、泥だらけの野球部。

 同じクラスの爽やかイケメンこと、藤川鳴海ふじかわなるみだった。


「あれ? 蒼希じゃん。と……赤希」


「お、おお……ほいっ」


 俺は足元のボールを手に取り、藤川に投げた。

 彼はボールをキャッチすると、俺と花を交互に眺めてくすっと笑い、「がんばれ」と唇を動かした。


 その言葉に、俺は優しく背中を押された気がした。


「頑張ってるね~、野球部」


 横の花が目をキラキラさせながらに言う。


「……そうだね」


 一方の俺は、何もしてない。部活も、バイトも、習い事をしているわけでもない。

 さっきの藤川が輝きすぎていて、正直俺は今もの凄く花から逃げたくなっていた。


「あ、でも……してない子のほうが多いもんね。うちの学校」


「あはは、そーだね」


 ――もしかして、気を遣わせたか? だったら、嫌だな。

 なんでこんな腹の探り合いみたいなことしなくちゃいけないんだ。俺たちが。


 俺たちはそのまま校門を潜り、歩道で信号待ちをする。


「……」


「……」


 ――何か、喋ったほうがいいだろう。流石に。


「…………結構、寒いね」


「……ね、春なのにね」


 結局気温の話になってしまう。

 その後も……。


「……あ、かたつむり」


「ほんとだ」


「ん、あの雲なんか変な形してない?」


「ん~……そうかな?」


 こんな感じで会話は終わってしまう。これが数十回は続いた。


 ――藤川だって、がんばれと言ってくれたんだ。ここは、もう少し踏み出すべきだ。

 ここは、思い切って……あれを聞いてしまうべきではないのだろうか。


 俺が、ずっとモヤモヤしていた元凶。“ヤツ”の存在だ。


「あ、あのさ……」


「ん? なに?」


「昨日、スマホに電話が来てて……その、匠って――」


「ん? あれ……」


 花は目を細め、何かを見ているようだった。

 視線の先は、公園だった。


「わんこだ」


 花が、黒い犬を指差した。遠目に見えるベンチの隣で、地面に寝そべる雑種犬がくたびれた様子でこちらを見ていた。


「……ねぇ、行ってみようよ」


「うん」


 信号を渡って犬の傍まで近付いた。中型犬程度の大きさの年老いた犬だった。辺りには餌が散乱している。


「……捨て犬かな?」


 しゃがみ込んで花が首を傾げる。


「どうだろう……」


 俺は犬の首に付けられた首輪を確かめた。


「ヒロユキって書いてある」


「ふ~ん、君はヒロユキって言うんだね」


 花はそのままヒロユキの頭を撫でた。

 ヒロユキは小さく尻尾を振ったが、その瞳は物悲しげだった。首輪がかけられているから、飼い主はいるんだろうが。


「ヒロユキ~」


 俺と花の元に小さな子供達が、両手に袋を掲げて走ってきた。


「おにいちゃん達もヒロユキのお世話をしに来たの~?」


「お世話……?」


 花はヒロユキの頭を撫でながら、首を傾けた。

 地面に散らばった餌はこの子たちがあげていた物だったらしい。


「いつ頃から、ヒロユキはここにいるの?」


 俺は膝を曲げて子供たちに質問した。


「う~ん、けっこう前かな! 違う場所にお家を作ってあげようとしたり、お散歩連れていこうと思ったんだけど、ヒロユキ全然動こうとしないんだ~」


 ヒロユキの水気を帯びた黒豆のような瞳が、俺を見つめる。

 飼い主を待っていたりするんだろうか。


「君たちは毎日来てるの?」


「うん! ヒロユキのこと心配だからね」


 にかっと笑顔を輝かせて、少年が無垢な表情でそう言う。


「そっか、偉いな! んじゃ、俺もこれからここに寄るようにするよ」


 俺が少年の頭を軽く撫でると、興奮した面持ちで騒いだ後、仲間を引き連れて去って行った。


「行っちゃったね、凄い元気な子」


「男の子なんてあんなもんだよ」


 自分にもあんな時期が合ったことを思い出しながら、俺は立ち上がる。


「なんか、大人になったね」


「……俺が?」


 少年の背中を見送りつつ、質問。花の表情は見えない。


「うん。子供に優しくできる高校生ってあんまりいない気がするから」


「そうかな、だったら……いいんだけど」


 俺は少し照れたつつも、ヒロユキの頭を撫でて、


「じゃあな、今度は犬の餌でも買ってからまた来るよ」


 じゃあ、そろそろ行こうか、と俺が花に目を向けたときだった。

 花は少し緊張した様子で俺の前で拳を握っていた。


「あの、わ、わたしも……」


「ん?」


「……わたしも来るよ」


「……?」


「ヒロユキのこと……わたしも、一緒にお世話するよ!」


 ふと、胸の辺りが温かくなった。


「よかったな、ヒロユキ。このお姉さんも面倒見てくれるってさ」


 別にそんな言葉を期待していたわけではなかった。自分で勝手に選んだことだ。でも、花が一緒になって付き合ってくれることが、俺は堪らなく嬉しかった。


「……ふふ、いいこだね」


 花がヒロユキを撫でながら微笑んだ。


 ――少しだけ、仲良くなれたかな……?


 俺と、花の心の距離はまだまだ遠い。昔みたいにはもうなれないかもしれない。

 それでも、花が隣にいるっていうことはとても嬉しいし、俺にとっての特別だ。

 安心するし、気恥ずかしいけど……やっぱり一緒にいたい。


「じゃあ明日また寄ってみようか」


「わんこ用の餌を買わないとねっ」


 俺は少しだけ自然に話ができるようになった花と、夕暮れの空の下、家路についた。


「もう遅くなっちゃったね」


 花が空を飛び交う鴉を見上げ、言った。

 彼女の背中を見つめながら、俺はさっき言えなかったことを頭に反芻させる。


「あのさ……」


 つい、口走ってしまう。

 せっかく、少し仲良くなれたのに。

 ここにきて余計にヘンな空気になったらマズい。でも……。


「……何?」


 くるりと身を返し、俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。

 俺の視線はすぐに下を向き、相手の影をじっと見つめる形になった。

 ――本当は、花の目を見て喋りたい。でも、そんな簡単なことができない。


「……った」


 花がかわいらしく小首を傾げる。まるで仔犬のようだ。

 匠って誰……? それだけでいいはずだった。そんなに考え込む必要はない。

 だが、俺の口から出てきた言葉は……。


「…………た、たらことか……好き?」


「………はい?」


 ――ダメだ……。やっぱり、言えなかった。


「んー……す、好きだけど……どうして?」


「……ちょっと前、母さんの実家から送られてきてさ。凄い美味しかったから、お裾分けしようと思って……」


 口からぽんぽんと当たり障りのない言葉が飛び出る。


 花は明らかに不審そうな表情をしている。言葉を詰まらせながら出てきた言葉がたらこじゃヘンに思われても仕方がない。


「もらっていいの?」


 俺の言葉の先を花に言われるという失態を犯した。

 なんだか恥ずかしくなって、俺は次第に耳を赤くする。


「……うん、いい」


 花はくすくすと笑って、小さな声で言った。


「もう……なんか、へん」


 ――匠について、俺はまだの心の準備ができてない。もし絶望的な答えが返ってきたら、最悪の場合立ち直れないかもしれない。だから、今は……まだ。


 しばらく歩くと、お互いの家が見えてきた。


「それじゃあ……今日、7時くらいに」


 花は家の前で足を止め、真っ直ぐ俺に顔を向けた。


「……そっちに、行くからっ」


「お、おうっ…………楽しみに……してる」


 ――え、何楽しみとか言っちゃってんの、このド畜生は!

 なんかそれ俺が花のこと好きすぎてめっちゃ待ってる人みたいに思われちゃうじゃん。これ感づかれちゃうかもしれないじゃん。一体お前は何を口走って――!!


 花は一瞬呆気にとられたような表情だった。でもすぐに、にこっと笑顔を俺に向けてくれた。


「じゃあ、いい子で待っててね」


「なんだよ、それ」


 ――ああ、俺のマイ・スイート・エンジェルよ。

 俺は恥ずかしげもなくそう言った。もちろん、脳内での話だ。

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