第6話 勇気を出した、その一歩
「何かようかしら」
俺たちの目前には、純白の白衣に身を包んだプロポーションのいい肉感的な女性が佇んでいた。栗色のショートボブの先には緩めのパーマが当てられていて、より大人な印象を与える。
この学校の養護教諭、
学校一の美人と言われ、看病される男子生徒はもちろん男教師でさえ、ドキドキしてしまってそれどころではないという話だ。
また、進路相談や家庭事情、プライベートの相談なんかも受け付けているらしく、女子生徒から多大な信頼を寄せられているという。
「……どうしたの?」
顎に細い指を当てて、百瀬先生はぐっと俺たちに身体を近づけると、胸元の健康的な肌色が露わになった。かなりの巨乳である。目のやり場に困った俺は、途端に視線を横に泳がせた。
「あの、…………か、彼……怪我しちゃったんです」
花は俺を指差しながら、“彼”と伝える。
「彼? あなたの彼氏なの?」
百瀬先生は小悪魔的な薄い笑みを浮かべた。
「あ、いいえ! そういうわけじゃなくて…………ですね」
言い直されて、花は頬を染めながら口元をもごもごさせる。
どうやら、俺の名前を出すことに対して、躊躇っているようだった。
苗字で言うのか、名前でいうのか。俺も同じような経験を何度もしているから、わかる。
先生が相手なのだから名字で呼べばいいのだが、俺たちの場合、それで余計な距離を生み出しかねない。花も、そこに気を遣ってくれているのだと思う。
百瀬先生は、次第に顔全体を赤くしていく花をじっと見つめる。
「あ、あの~……何か?」
花は困ったように、そう訊ねた。
「ううん、あなたはもう帰っていいわ。今ならまだ授業に間に合うでしょ」
花ははっと気がついたように髪を揺らすと、俺を一瞥してから、小さく手を振ってきた。
「……あ、はい……そうですよね。……そ、それじゃ、ね」
「ああ、うん……ありがとう」
花は俺たちに背を向けながら、チラチラ振り返ってこちらを確認していた。何これ、めっちゃかわいいんですけども。
「あ!」
花は何か思い出したかのように、素っ頓狂な声を上げて俺に近づいてくる。
「……あとで、ケータイねっ……じゃ、お大事に」
天使のような微笑みを浮かべて、花は廊下を駆けていった。
俺の脳裏には、しばらく花の笑顔が焼き付いて離れなかった。
* * *
保険室特有の薬品の匂いがする。それと、魅力的な女性が匂わす不思議な香り。
「はい、どうぞ」
百瀬先生が椅子を引いてくれたので、俺は辺りの妙な雰囲気に少し酔いそうになりつつも、先生を真っ正面から捕らえる。
――エロいな。これ。
第一印象はソレだった。むしろ、それ以外の感情は沸き立ってこない。18歳男子の性欲を舐めるな。
百瀬先生は黒のタイトスカートから伸びる足を組み替え、俺に質問した。
「……怪我、もうそんなに痛くないでしょ?」
――パンツ見えたりするかな、と思っていた俺の胸にドスリと矢が刺さる。
「……ああ、バレてましたか」
「とりあえず、消毒だけしときましょう」
「痛っ」
「男の子でしょ~、嫌われちゃうわよ。せっかく好意寄せられてんのに」
「テキトー言わないでくださいよ、別に……あ、赤希さん……とは何も」
ふんとそっぽ向く俺を、百瀬先生はにやにやした表情でじっと見つめてくる。
「誰も花ちゃんなんて言ってないわ」
「……なっ」
「その反応……これで確定ね。あなたは花ちゃんのことが好き」
「……だっ…………というか、そんなこと知ってどうするんすか」
「わたしの生徒恋愛相関図に追加されるだけよ、趣味なの、ふふっ」
百瀬先生は、それは面白そうに万年筆を握った。
「それで? 蒼希蝶くんはもう告白したの? 彼女に」
先生はノートに何やら書き込みながら鼻歌交じりに聞いてくる。
「…………してませんけど」
「でも、好きなんでしょ? クラスメートよね」
「そ、う……ですけど。俺は……あの子とは……その、幼なじみ……っていうか」
「……幼なじみ? あら、それは初耳だわ。面白い」
――今、面白いって言わなかったか?
気を取り直して、俺は彼女との会話を続ける。
「はい、本当ですよ。物心ついた頃にはもう一緒でした」
「あんまり幼なじみって感じはしなかったけどな~、わたしから見たらお互い一目惚れだけどお話したことないしどうしようー! ……って、感じの関係に見えるわよ」
「そ、そっすか……」
一目見ただけでそれがわかるなんて、この人……侮れないな。
「幼なじみって言ったらさぁ……」
百瀬先生が、遠い昔を思い出すように語った――……。
* * *
――学校の屋上。
「ちょっと! いい加減にしてよ! いっつもいっつも遅刻ばっかりして! 怒られるのはクラス委員の私なのよ! タバコもだめだよ! 没収!!」
セーラー服姿の古風な髪型の女子生徒が、短ラン姿でヤンキー座りをした喫煙男子のブツを取り上げた。
「……ちっ、うるせーな~! てめぇはいつもよ~、このブス!!」
「はぁ!? ぶ、ブスじゃないし! バカ! あんたなんかもうどっか行っちゃえ!」
女子生徒は瞳を潤ませながら、男子生徒の背中を必死に叩いた。
「あ~、行ってやるよ、じゃあなクソアマ。できりゃテメェとはもう一生会いたかねぇな! バイビ~、イチゴパンツのガキんちょめ!」
男子生徒はうんざりした表情で女子生徒に背を向けて歩き出す。
「もうっ……あいつめ……子供のときから何にも変わってないんだから……バカ」
女子生徒はまなじりを拭って、去って行く彼の背中を見つめながら胸にぎゅっと手を当てる。
ダメつくしの彼のことだ。きっと授業をふけるだろう。学区外の不良たちと喧嘩をしては、パチンコにギャンブル。
でも――、彼女は知っているのだ。彼が、弱い者にだけ見せるとても優しい瞳を。
小さいときからずっと一緒だった、彼女だからこそ知っている、彼の一面。
――ずっと、あなたのことが……好きなのにな……。
彼の気持ちも知ってる。自分に少なからず好意があることを。
でも――素直になれない、言えない。
そうして今日も彼女は、彼に思いを告げることもなく悶々とするのだった――。
* * *
「いや、なんの話っすか」
俺は百瀬先生が突然感情を込めて語り出した物語に、いちゃもんを付ける。
「え? 何って幼なじみってこんな感じじゃない」
「古い! 昭和の少年マンガみたいになってるじゃないすか」
「何よ~、イマドキは違うっていうのー!?」
むくれた顔で百瀬先生が頬を赤くする。
「確かに先生の言うような関係の幼なじみの人もいると思いますよ? でも、例外だってあるってわけです」
「……ふ~ん、で、どして? 喧嘩? でも明らかにお互い意識してるよね?」
「……そ、それは……お互いを異性として意識し始めたから……とかですかね。正直、俺にだってよく……あ、てゆーか絶対言わないで下さいよ、こんなこと! 誰にも! 絶対! 何がなんでも!」
「わかってるわよ~。これでも色んな子から恋の相談受けてるんだから。一度聞いてしまった話だし、またいつでもここに来てくれて構わないわよ。わたしもあなたたちの行方が気になるし」
「……まあ、はい……機会があれば」
一応了承しておいた。しかし、もう二度と来ることもないだろう。だぶん。
「もう大丈夫だと思うけど、どうする、しばらく休む?」
百瀬先生は中腰になって、俺の額にぺたんと湿布を貼りながら言った。
「……是非休ませて頂きます」
ニヤリとした表情を浮かべながら、先生は頬杖をついた。
「ズル休み好きなの? 悪いコね」
「いや、帰りづらいじゃないですか。授業中に乱入すんの。5分休みで帰ります」
「あらっ、もう。小心者ね~、だから彼女のハートを射ぬけないのよー」
「それは関係ないでしょ!」
俺はその後、奥のベッドを借りて寝転んだ。
瞼を閉じると次第に眠気がやってくる。
――教室戻ったら、鞄返さないと。
今日も、また夕食作りに来てくれるのかな、花。
それに……あの匠っていう人。
俺は、気がつけば花のことばかり考えていることに気がついた。
幼なじみ……って、どういう付き合いかたをすればいいんだろうな。
花は……どう思う?
* * *
「「ただいま~!」」
甲高い笑い声を上げながら、俺と花は泥だらけの身体も拭かず玄関に乗り上げる。
「あらあら、二人とも泥んこね~、今日は何してきたのー?」
「おれはね、どろだんご投げがやりたかったんだけどね、花がやだって言ったからなんかおままごとになっちゃった」
「だってね、だってね……どろだんご投げだと、ちょうに勝てないもん。はなつまんないもん」
花がぶつぶつ言いながら徐々に泣き顔になっていく。
「あんたまた花ちゃん泣かせたのー? もう罪作りな子ねー」
「ツミツクリ?」
「まいっか。二人ともさっさとお風呂入っちゃいなさい!」
「「はーい!」」
子供のときはそれは無邪気だった。俺も、花も。
幼稚園が終わると、毎日泥だらけになるまで遊んで、どちらかの家で一緒に風呂に入った。
もちろん男女の身体の違いについてはわかっていた。男にはあるものが付いていて、女には付いていないということ。でも、ただそれだけだった。
親にそう言うものなのだ、と説明されれば俺たちはそれで納得した。
深くは考えなかった。だからこそ、一緒にお風呂に入るだなんて行為ができたのだろう。
「花、おれが身体あらってあげるよ!」
「じゃあね、花はちょうの頭をシャンプーしたげる!」
お互いの身体の洗いっこも、頭の洗いっこもしたし、浴槽に浸かってからも、二人でバシャバシャと身体を真っ赤にするまで遊んだ。
風呂から出たら晩御飯が待っている。そんな、家族のような、兄妹のような関係。
「あ! 今日カレーっぽくない?」
「う~ん……花はねえ、ビーフシチューだと思うなぁ」
風呂上がりは二人で身体を拭きながら、晩ご飯の献立を予想し、当たっていたら好きなおかずを一つもらうことができた。
美味しそうな匂いに釣られて、身体も拭ききれていないのに、俺たちはリビングに走るのだ。
* * *
「……んぁ、寝てたのか」
俺は重たい頭をを持ち上げて、ベッドから足をふらりと降ろした。
随分懐かしい夢を見ていた。昨日からいつも以上に花のことばかり考えているせいだろうか。
上履きを履いて、カーテンをスライドさせる。
「あら、やっと起きた」
きょとんとした顔で、走らせていたペンを止める百瀬先生。
「どんくらい寝てたんですか……?」
「二時間くらいかしら。ぐっすり寝てたから、そのままにしておいたのよ。もうすぐホームルームの時間だから帰りなさいね~、どう? 痛みはもう平気?」
「ああ、もう大丈夫です。世話して下さってありがとうございました」
「まぁそれがお仕事だし。怪我以外のことも相談に乗るから気軽に話してね。特に、花ちゃんのこととかね!」
「考えときます……」
俺は百瀬先生に一礼し、保健室を出た。
* * *
「保健室から戻りましたー」
「おお、蒼希、大丈夫だったのか?」
ホームルーム中だったらしく、プリントを配り終えた担任教師が目を見開かせる。
「あ、はい……大丈夫です」
「蝶! わりー!! 悪気はなかった許してけろー!」
「こいつ謝る気微塵もねーからブッ飛ばしていいぞ蝶」
「ひえー、それだけはご勘弁を! お代官様!」
俺は適当に応対しながら花をチラ見した。
花は俺と目が合うと、にこっと笑った。
なんだか、それが俺だけに向けた特別な笑みのような気がして、心が踊った。
ホームルームが終わり、みんな担当の掃除場所へと解散した。
俺はぼーっとしながら、教室の隅でほうきを左右に振る。逆にホコリが舞っている気がするが、まあそんなに変わらないだろう。
それより、
――花に……いつ返そう。
例の手提げ袋である。貴重品だってあるんだし、やはり朝のホームルームで返すのが普通だったはずだ。それを逃してずるずる放課後まで来てしまった。
「はあ……」
窓から景色を見下ろして、大きな溜息をついたときだった。
「ぉ、お~い……」
「…………」
「ね、ねぇ!」
なぜか俺の目前で手が高速に上下している。女子の手だ。声だ。
ぼうっとしていたせいか、前後関係の記憶が曖昧だった。
俺はとりあえず、手を辿って当人の顔を確認する。
なんと、花だった。
「お、わっ!!」
「きゃ……!」
俺は本気で驚き、尻餅をついて花を見上げる。
そんな奇怪な行動を取った俺にビックリしたらしい花も、小さな悲鳴。
「あ、あぁ~……ごめん。俺、ぼーっとしててさ……びっくりしちゃった」
途端に恥ずかしくなって、俺は頬をかきながら腰を起こした。
「…………」
花は少しだけしゅんとしてしまったようだ。ヘンな空気が流れ始めたのを感じた俺は、すぐにあの話題を繰り出すことにした。
「あ、手提げ袋。今返すね」
「あ、うん……ありがとう」
自分の席に戻って、鞄から花の手提げ袋を取りだす。
「はいこれ、遅くなってごめん」
スムーズな流れで返却すると、俺は再びほうきを左右に動かした。
「あの、もう……掃除終わってる……よ」
花に言われて、俺は周囲を見渡してみた。夕暮れ色を反射した放課後の教室。
俺と花以外の人は誰一人としていなかった。
俺はサッとほうきを後ろに隠した。どうやら、そうとうぼけっとしていたらしい。
「……変なの~」
口元を隠しながら、花はくすくすと笑った。
――今日の花は、やけに接近してくるというか……。
薄茶色の綺麗な瞳。夕暮れ色を反射した艶やかな細い髪。二人きりの教室。
隅っこで見つめ合っていると、彼女のシャンプーの甘い香りが鼻に届く。
――やめてくれ。勘違いしちゃうよ、こんなの。
花の綺麗な瞳に、俺は一体どう映っているんだろう。
なんでも、知りたい。花……“今の”、君を……俺は知りたい。
昔の花はもちろん俺の大切な思い出で、大好きだけど。
今の好きと、昔の好きはもう意味が違ってきてるんだ。
夕暮れを反射した花の琥珀色の瞳は、俺に何かを伝えようとしているようで。
「おい! 早く下校しろよ~、今日は職員会議なんだ。生徒は早く帰れ~」
廊下のコーナー部分からひょっこり顔出した教師が、声をかけて来た。
「……だ、そうです」
「……じゃあ……帰ろっか」
俺たちは顔を少しだけ赤くさせながら、笑って誤魔化した。
「…………もう遅いし、家まで……その、送るよ」
精一杯の勇気で、なんとか口にする。
胸の鼓動が首筋まで響いてくる。きっと、今までで一番緊張している。
俺は顔を俯け、前髪で表情を隠した。
「じゃあ……」
花の唇がゆっくり開く。
「お願い……しちゃおっかな」
冗談めかして微笑む。
彼女の言葉に、俺の頬も自然と上がってしまう。
「じゃあ、行きましょうか……お嬢様」
「ふふ……なあに、それ」
俺の変なノリに花が笑ってくれたことが、凄く嬉しかった。
いくら悔やんだって、昔の俺たちにはもう戻れない。
でも、少しずつ……変わっていけるのかもしれない。
カーテンを揺らす春風が、新たな予感を運んでくれた気がした。
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