第9話 名前を呼んで

 スパイシーな香りが鼻腔をつんと刺激し、思わず口内を唾液でいっぱいにした。俺はいい香りに釣られるようにソファから立ち上がり、キッチンへと足を運んだ。


 花は俺に気がついたのか、首をこちらに向けた。

 さっきの妙なテレビのせいで、気まずくてなんと言ったらいいのかわからない。

 とりあえず……ここは素直に。


「いい匂いだ」


「カレーだからね、誰が作っても一緒だよ」


 ういっーす!!

 そう言われると、なんも言えねっす、俺。


「あ、皿……準備するよ」


「じゃあ……うん。お願いしますっ」


 皿とスプーンを並べる。あとはコップか。以上、仕事終了。

 早くも手持ち無沙汰になった俺だった。

 鍋をかき混ぜる花に横から口を出す。


「……後、どのくらい?」


「……ふふ、何? お腹空いたの?」


 ずっと年下の少年に向けて言うみたいに、花は優しい表情で微笑む。

 俺は彼女のその純粋な笑みを見つめながら、思う。


 ――さっきのテレビ、花はどう思ったかな。

 同い年の男子の家に上がったってことは、少しはそういう気もあったりするのか?

 俺は花と身体一つ分開けた場所で、しばらく突っ立っていた。


「……あの、……何?」


 無反応の俺を流石に不信に思ったのだろう。眉を顰めてこちらを窺ってくる。


「あっ、いやー! 俺ハラ減っちゃってさ! 早くカレー食べたいなって」


「だからずっとここいたの? もう、子供みたい」


 くすくすと口元を隠して花が笑った。


 * * *


 俺たちはテーブルに座り、おろしニンニクたっぷりのカレーと、栄養満点のサラダを食べながら思い出話に浸っていた。


「……そういえば、辛口だったけどだいじょぶだった?」


「平気だよ。いつも辛口食ってる。そっちこそ甘口じゃなくていいの?」


「なっ! い、いつの話してるの……それにあの頃は……そっちだってっ」


 花はむくれた顔でかわいらしく唇を突き出す。


「はは、そりゃそーだ。まだこーんなガキだったしね」


「ガキだって……口わるーい」


「そうかな……普通だと思うんだけど」


「昔はそんな風な言葉使いじゃなかったのにな~」


 冗談っぽく笑いながら、花が言う。


「ま、大人になりましたからね」


「お腹減ってキッチン覗きにくるのは子供じゃないの?」


「過去は振り返らない主義でして」


「もう、何言ってるの」


 花が口を押さえながら苦笑する。

 思い出話をすると、会話がスムーズになることに俺は気がついた。

 十年も前だが、俺たちはそのネタに縋ればこうして自然と話せる。いいことなのか、わるいことなのかはわからない。でも今は花と一緒に笑えることが嬉しかった。


 山盛りのカレーを豪快にかき込んで、腹を満たしたところで手を合わせた。


「ごちそうさま!」


「いっぱい食べたね~入れ過ぎちゃったと思ってたから、ちょっとびっくり」


「そりゃ、美味しかったからね!」


「……も、もういいよう。あんまり言われると……て、照れるから」


 花が顔を赤くしながら、まだ残ったカレーに手を付け始める。


「照れなくていいよ! 誇っていいと思う! 料理上手なんだね。昨日のオムライスも美味しかったし」


「いや~! やめてやめて、あんまり褒めないでー」


 花本気で照れたのか、真っ赤な顔の前で両手を左右に振る。


「あ、そうだ。今日は流石に皿俺が洗うから。食べ終わったら持ってきて」


「むっ……わかりました」


 納得いってないような顔で花が渋々首を縦に振る。そんな彼女を余所に、俺は食器を洗面台のシンクへ置いて蛇口を捻る。


「……ちゃんとお皿洗えるの~?」


「バカにしすぎだろ! できますわ!」


 花が小馬鹿にしたような顔で横目を向けてくる。まあ、数年ぶりレベルだけどな。

 しばらくすると、花が食器を持ってきた。


「じゃあ、これよろしくお願いしまーす」


「はいはーい」


 最後のコップを受け取ろうとしたとき――。


「わっ」


 泡立つ洗剤に指を滑らせて、俺はコップを割ってしまった。

 ガラスの破片がシンクの中で飛散する。


「だ、大丈夫っ!?」


 人差し指に切り傷。痛みはほぼ無い。鮮血が指先からたらたらと流れてシンクに零れる。

 反射的に反応した花がすぐ横まで駆け付けて、俺の手をぎゅっと掴んだ。

 ――柔らかいものに突然包まれて、俺が何も言えずにいると、


「切れちゃったね……平気?」


 花が心配そうに聞いてくる。


「だいじょうぶ、全然痛くない」


「ダメだよ! ほら、ここ。こーやって押さえて。手、心臓より高くして」


 花が至近距離で俺の手を取りながら、色々レクチャーしてくる。

 表情が真剣だった。あまり見ることのない彼女の顔に、俺は驚く。


「こ、こう……?」


 あたふたした俺に、花がずいと距離を近づけて、


「ううん、こうっ!」


 と、俺の手を優しく誘導する。

 心臓の音聞こえるんじゃないか、というくらい花が身体を寄せてくる。

 とくん、とくん、という脈の音が身体の芯にまで届く。急激に加速していく。


 俺を必死に介抱する花の横顔に見とれていると、

 ふと――花と目が合った。


 俺たちは、そのまま数秒間見つめ合う。


「…………」


「…………」


 沈黙がいつもより長く感じる。

 既に頭の中は、もう空っぽだった。ぼうっとしてくる。身体も熱い。


「……あ、あの」


 花は水気を帯びた瞳で、色つやのいい唇を開いた。

 隙間から吐息が漏れて、俺の首にかかる。

 花にぎゅっと握られた手から、彼女の脈が届いた。

 俺たちは今、同じくらいドキドキしている。


 俺は――もうどうにかなってしまいそうだった。


 若い青少年の頭に、いくつもの欲望が唐突に浮かび上がった。

 だが、その煩悩を俺は全力で否定する。


 ――だけど、でも。もしかしたら。

 これは……キス――のタイミングなんじゃ。


 考えただけで、頭から湯気が立ち上りそうになる。いくらなんでも飛躍しすぎている。しかし、可能性がゼロとも言えない。


 思考とは裏腹に俺が何もできずにいると、花は視線を落として、すっと手を離した。


「……えっと~…………」


 彼女の小さな唇が何かを告白しようとしている。俺は黙ってその言葉を待った。


「……ちょ、ちょっと待っててね。えっと、手は……そのままで、ね?」


 花は作り笑いを浮かべて、逃げるように走り去っていた。

 彼女を見送った後ソファに移動し、負傷箇所を胸より上で押さえる。

 心臓の音が切り傷にまで響き、傷口を熱くする。

 俺はほっと息をついてから、少し頬を弛緩させる。


 ――さっきの花、昔に俺が怪我したときと同じだったな。

 転んで足に擦り傷ができたときも、大きなたんこぶができたときも、毎回必死に手当をしてくれた。

 俺が平気だと急かしても、花は泣きべそをかきながらよく怒った。

 幼稚園くらいのときだったから、なんで泣いてるのか当時の俺にはわからなかったが、今じゃ痛いほど伝わってくる。

 ――心配してくれているんだ。本気で。


 俺は頬を緩めて花の到着を待った。

 しばらくすると――かちゃかちゃ音を立てながら、花が戻ってきた。


 花の胸には大きめの箱が抱かれていた。蒼希家の医療セット。

 ――場所、覚えてくれていたのか。

 俺の視界が急激に涙で滲む。

 なんでもないことだ。それなのにどうしてこんなに嬉しいのだろう。


 花が隣のソファに腰を下ろして医療箱を開けた。

 消毒液で湿らせた布を傷口にそっと押し当ててくれる。


「染みるかな、痛くない?」


「……ありがと、平気」


 俺は鼻を啜ってから俯いた。本当に、格好悪くてしょうがない。


 ――花の前で泣いたことなんて……今までで一度もなかったのに。

 こんなしょうもないことで泣かされてしまった。


 バレないように表情を隠していたが――次の瞬間、花が俺の顔を覗き込んで来た。

 花は見てはいけない物を見たように、


「わっ……う、うそ……!? 痛いの!? ごめんね! 強く押しすぎちゃった……かな」


 あたふたしながら、目を反らすことに徹するが、やはり俺のことが気がかりなようだった。


「わたし……何か嫌なこと……言ったかな」


 苦い表情で、申し訳なさそうに花はそう言った。


「……違う。……その、嬉しくて。平気、大丈夫だから」


「…………そう」


 俺の笑う姿を見て、花はほっと息をついた。彼女は何にも言わず、優しく手を重ねてきた。


 特に喋ることもなく、時間だけが経っていく。

 でも、今までのような、沈黙に耐えられないといった雰囲気ではない。とても穏やかで、優しい空間。

 俺は彼女の掌の温かさを実感したまま、隣の花の顔を覗き込む。


「……場所、よくわかったね」


 俺の真っ直ぐな瞳に少し戸惑ったのか、彼女は目を泳がせた。


「だって…………よく、怪我してたじゃん……」


「誰が…………?」


 ちょっとだけ、イジワルをしたくなった。


「…………っ」


 俺の思惑に気がついたのか、花は頬を真っ赤にさせて――。



「………………ち、蝶が」



 長い沈黙の果て、彼女は俺の名前を呼んだ。


 なんとも言えぬ幸福感に身を包まれる。耳の端まで真っ赤になった花の熱が移ったのか、俺の体温まで上昇していく。


「……そーだったかな」


「そ、そーだよ!」


 花がいつになく大きな声を出して、ふんとそっぽを向く。それでも耳が赤いのは丸わかりだった。


「……怒ってる?」


「お、怒ってないっ」


 俺が身体ごと傾けて花を覗こうとすると、彼女はぷいと違う方向を向いてしまった。

 もうここまでくると、俺は自らの欲求に逆らえなかった。


 俺は花の肩をつんつんと突いた。

 いつもならこんなこと絶対にできない。


 そっぽを向いていた花がゆっくり振り返る。


 彼女と目が合うと、俺は「ありがとね」と、言った。

 花も「どーいたしまして!」と、笑った。


 * * *


「しばらくは安静にしててね、はしゃいだりしちゃダメだよ」


「そんな子供じゃないですよ、僕は」


「えー……どうかなあ」


 花が困ったようにえへへと笑って、壁の時計に名残惜しそうな視線を向ける。


「もう遅いね、そろそろ帰ろうかなぁ……」


「お~、そっか」


 正直まだ帰ってほしくはなかった。

 ――でも、そうもいかない。


 帰り支度をした花が、玄関先で靴をとんとんと叩く。


「それじゃね……また明日」


 花が振り返り様に、にこっと笑う。

 少しだけ、歯がゆい。もう少し、何か――喋りたかった。

 俺は――整理ができずにいる頭のまま、突発的に口を開いた。


「あ、あのさ……!」


「…………何?」


「えっと……明日、最後になっちゃうけど……その、ご飯お願いね!」


 今言える、精一杯の言葉。昨日は言えなかったけど、今日は言えた。

 明日もお願いって、ただそれだけの言葉。


「う、うん、頑張っちゃう!!」


 満天の笑みを浮かべて、花はガッツポーズを取る。


「……そ、それに……今度は――」


 花は背を向けながら、何かを呟く。


「……?」


「あ、やっぱりなんでもない! それじゃ、おやすみなさい!」


「お、おお……おやすみ」


 慌てて両手を振ると、花は早足で外へ駆けていった。

 花の背中を見送って、俺はソファーに戻ってから物思いにふける。


 ――今日は、楽しかった。とても、幸せだった。

 なんといっても花が十年ぶりに俺の名前を呼んでくれたのだ。

 正確には呼ばせた、が正しいかもしれないが。


「ふふっ……」


 リビングで俺は気味の悪い笑みを浮かべていた。キモスの極みである。

 自らの頬をパンチしてから、俺は風呂に入り、自室へ向かった。


 * * *


 目線の先には赤希家の窓。薄桃のカーテンで遮られている、まさに秘密の花園。

 いい加減ストーカー紛いのことをするのもやめようか、とベッドから身を起こし、カーテンを閉めようとしたときだった。


 ――俺に……神の祝福が起きた。


「なっ!?」


 カーテンがスライドし、パジャマ姿の花が小ぶりに手を振っていた。


 ――んをっ、なんっ、ちょ、おまっ。んなっ――!!

 俺は顔を上下左右に振りながら、あたふたとみっともない姿をさらしてしまう。

 変態だと思われただろうか。ずっと花の部屋を覗いていた俺にアリバイなどない。


 でも、そんなことはどうでもいいや。だって眼福なのだから。

 かわいい。萌え袖状態の花は、笑顔で小さく手を振っていらっしゃる。

 それでいいじゃないか。なあ。そうだろ? 深く考えるな、すべて感じとればいい。


 俺も苦し紛れの微笑みを浮かべて手を振り返した。

 花のように素敵な笑い方じゃないし、どこかぎこちなかっただろう。


 でも――とにかく俺は叫ばずにはいられなかった。

 姿勢を低くして


「なんやねん、このサプライズプレゼント!! ……最高かよっ!!」


 俺は頬がにやつき始めるのをなんとか押さえて、寝巻き姿の花をもう一度確認する。

 ――花、もしかしたら、寝る前に俺に何か言おうとしてるんじゃ。まさか、さっき言いかけていた……。俺は思考を巡らせる。


 しかし……。


 残酷にカーテンがシャーっと音を立てて閉まった。


「いや閉まるんかいっ!」


 何か期待してしまった自分が少し恥ずかしかった。


「電気も消えましたがな!」


 さらに消灯。もう花はおねんねタイムさ。

 無情、ああ無情。…………おやすみ!

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