照れ屋な空木くんは水曜日を待ち望む

舘花 縫

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「お願いします、空木くん。私に関西弁を教えてください!」


 舞い散る桜の花びらに囲まれて、空木くんは眉を寄せた。手を首の後ろに回してどうして自分が、と言いたげな様子だ。けれど、この好機を逃すわけにはいかない。こんなこと、誰にでも頼めるわけじゃない。


「……なんで?」


 空木くんが低い声でぶしつけに聞いた。私は、ごくりと唾を呑んだ。







 成績優秀、容姿端麗。埼玉県立泉東高校の花といえば、私を知る人は「花江千華」と言うだろう。


 名前を裏切らないその花々しさで、私は在学中に数多の好意と羨望の眼差しを集めてきた。知らないところでファンクラブが創設されていたことも当たり前のように何度か経験し、廊下を歩けば誰もが私に目を奪われて時間が止まる。ついには、校外にまでその噂は轟き、私と同じ制服を着たいがために入学を志願する者まで現れた。


 周囲に好いてもらえるよう特別な努力をしたわけではない。ただ私は人並み以上の容姿と、自分の欠点を許せない完璧主義の性格を持ち合わせていただけ。勉強もスポーツも、努力をすればそれなりの結果が返ってくるから好きだ。私にとって、自分の弱点を克服するために何かに打ち込むことは難しくなかった。


 だがこの春、そんな高校生活と慣れ親しんだ埼玉の地に別れを告げ、私は東京の大学に進学する。






 都内のワンルームマンションで、私はまだ新しいにおいのする家具たちに囲まれていた。先週引っ越しを終えたばかりだから、6畳のフローリングにはまだ段ボールがいくつか残されている。片付けに飽きた私はごろんとシングルベッドに仰向けになった。


 慣れない、静かな部屋。鉄筋が走ってやけにデコボコした天井。引っ越しを手伝ってくれた両親が実家に帰っていくときの、少し寂しそうな目。訪れた静寂。


 これから始まる新生活に、私の胸は踊っているはずだった。なのに、この湧き上がってくる感情はなんだろう。


 私は枕元に置きっぱなしにしていたスマートフォンを手に取った。画面に映し出された日付は4月1日、火曜日、13時42分。入学式まで、あと1週間をきった。あれだけ楽しみにしていたはずなのに、私は何に対してこんなに怯えているのだろう。


 胸に手を当ててじっくり考えていると、ひとつの考えが浮かんだ。


 花々しい高校生活を送っていた私にも、コンプレックスがある。生まれ持ってしまったものは変えることができないから、それはずっと心の中に隠して見ないふりを続けていた。


 私は、自分の弱さを知られるのが怖い。


 入学式で、新しく出会った人たちと挨拶を交わすところを想像する。臆病な私は、きっと誰かが声をかけてくれるまでひとりで黙って立っているだろう。


「初めまして……! あの、よかったら友達になりませんか?」

「ええ、もちろん。私は、花江千華」

「私は――です! 千華さんってどこ出身なんですか?」

「私、埼玉出身なの」


 その瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。白い腕にはびっしりと鳥肌が立ち、ただの想像を全身で拒絶している。地元が嫌いなわけでもないし、両親のことを恨んでいるわけでもない。むしろ、どちらも大好きだ。でも、埼玉出身と名乗るのが私は嫌だった。


 テレビや動画で、有名人が故郷に帰ってロケをしているのをたまに目にする。その地の特産品を食べて「ああ、この味ですよ」とか、「帰ってきたって感じがしますね」とか、そんな類の言葉を並べているのを見て、私は苦しくなる。この住宅と畑と公園しかない地元を、私だったらなんと言って紹介するだろうか。


 大学には全国各地から学生たちが集まってくる。「どこ出身なの?」という話題になったとき、きっと私は何を話すべきか困るだろう。何年か前には埼玉をネタにしたコンテンツも流行ったし、それを真似て、卑下するように笑うことしかできないかもしれない。私は地元が好きなのに、それでは、埼玉が少し可哀想ではないか。






 埼玉出身の父と、大阪出身の母は、東京都のとある一般企業で出会ったらしい。数年で結婚した両親は私を授かると、子育てのしやすい埼玉県の田舎に家を買った。それが、今の実家である。


 母は私を産むとき、実家のある大阪に里帰りをしていた。生まれてしばらくの間は大阪の実家で過ごし、埼玉の田舎に戻ってから親子3人の生活が始まった。


 人生の大半を過ごしたから、私の出身は埼玉だ。ただ大阪の地に産まれたというだけで、関西弁がしゃべれない私に大阪出身を名乗る資格はないだろう。


 物心ついてから、「おじいちゃんおばあちゃんの家」という認識でしかなかった大阪が生まれ故郷だと知ったとき、それは私の憧れになった。なぜなら、大阪には方言という強烈な武器がある。お笑い番組で活躍している芸人は関西出身が多かったし、何より、関西弁を話しているだけで陽気で明るい人に見えるのだ。


 勉強もスポーツも友達も、なんだって憧れたものは自分の努力でつかんできた。けれど、適当な関西弁をしゃべったところで、憧れた関西人にはなれない。私はそれが悔しくて、どうしてもほしくて、「お願い! 関西弁教えてよ!」と母に何度も頼み込んだ。けれどその度に、母は「やだあ~ママもうぜ~んぶ忘れちゃったよお~」とはぐらかすのだった。


 私は人から嫌われるのが怖い。今までの人生では、好意を向けられてきたことばかりだ。だから、自分でも欠点だと思う要素をそのままにしておくのは、とても怖い。他人にはたかがそんな理由で、と思われるだろうが、私はそれほど弱く、臆病な人なのだ。自分に自信を持てる要素がひとつでも増えたら、私はもっと自分を好きになれる気がした。


 それを変えるなら、今ではないか?


 ふと、ベッドに寝転んで長考していた私にアイデアが降って来た。大学には、これまでの私を知っている人はいない。私の中に眠る大阪のルーツを、呼び起こすにはきっと今しかない。


 思い立ってから行動に移すまでは早かった。私はすぐに体を起こして部屋の片付けを再開した。次々と段ボールを開け、然るべき場所に然るべきものをしまっていく。空っぽになった段ボールをまとめて紐で束ね、次の資源ごみ回収の曜日を確認したら片付けは完了だ。


 スマートフォンを開くと、時刻は16時手前だと表示されていた。この部屋にはまだ時計がないから、時間の感覚があまりない。私はそのまま画面をタップし、近くの店の情報を調べ始めた。


「えーっと、本屋さん、本屋さん……」


 つぶやきながら画面を凝視していると、駅前に1軒の本屋があるのを見つけた。ローテーブルの横に投げられていたカバンから財布を取り出して、中に入っている札の枚数を口に出して数える。これくらいなら、大丈夫そうだ。






 本屋で買い物を終えて帰宅したのは18時近くなった頃だった。近くのスーパーマーケットに寄って夕ご飯の買い出しも済ませてきたから、思ったより遅くなってしまった。


 私はストレートのロングヘアをクリップで束ねると、キッチンに立って料理を始めた。今日の晩ご飯は簡単なものでいい。買い物袋から野菜のパックと豚肉を取り出してゆで、火が通ったらコンソメのキューブを入れて完成だ。


 熱々の野菜スープをカップに入れ、私はローテーブルの前に座った。後ろに置いてあるベッドのフレームに寄りかかるような姿勢のまま、もうひとつの買い物袋から本を何冊か手に取った。この1週間、私の相棒となる本たちだ。


「今日から学ぶ関西弁マスターへの第一歩!」「関西弁最短攻略法」と書かれた本の表紙では、小さなタコ焼きのキャラクターがほっぺたを赤らめて嬉しそうに笑っている。私はスープを飲みながら、タコ焼きのキャラクターと同じ顔をして本を開いた。

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