PHASE6 心瀬開の日記~「舞音」侵食~
2024年11月7日
随分とサボってしまった日記。今日こそ再開しようと思ったが……
早速、色々とトラブルがあった。そのおかげで日記のネタに全く困らないのは不幸中の幸いか。
まずは、朝の満員電車。
僕の会社は週に何日かテレワークを導入したので以前よりやや楽になったが、それでも出社しなければいけない時はある。
そして当然、満員電車に揺られる。
朝の電車ではトラブルがつきものだ。鉄道会社は散々オフピーク出勤を奨励しているものの、未だに世の大多数の企業が9時かそれ以前の出社を強要している以上、どうしたって朝の満員電車は減ることがない。
従って、電車で起こるトラブルも尽きない。
今日だって僕のすぐ近くで、痴漢が発生した。
いや……多分あれは正確には、痴漢冤罪だろう。
ぎゅうぎゅうに人が押し込められた車内で、僕のすぐ右隣の女性がお尻をもぞもぞと動かしているのが見えた。
年齢は30代半ばで、ややふくよか。年の割にはやたらと短いスカートを履いていると思ったが、僕は自分の身体を支えるのに必死でそれ以上は何も見えなかった。
いつもの駅を発車して2、3分したところで……突然その女性が大声で叫んだ。
「痴漢! 痴漢です!!」と。
見ると、僕のすぐ背後にいたスーツ姿の青年が、女性に腕をねじりあげられていた。
「ち、違います! 絶対違いますよ!!」と彼は必死で抗弁したが女性の声の方が大きく、車内は一気に騒動になった。
僕からは、女性がただそのお尻を不自然に動かしていたのが見えただけで、誰かの手が触れたようには全く見えない。
それでも女性は周囲に助けを呼び、騒動はおさまらず、電車は次の駅でしばらく停止。
その若者と女性は駅員に連れられて行ってしまった。
「冗談じゃない! 僕にはちゃんと結婚予定の彼女だっているんです!
何が悲しくてあんたなんかを触らなきゃならないんだ!!」
そんな彼の悲痛な訴えが、今も耳に残っている。
女性はさらにいきり立って「痴漢の上に侮辱だなんて! こういう卑怯な男がいるから、今も痴漢犯罪が止まらないのよ!!」と怒鳴っていたが
……僕にはどっちが正しいのか分からない。いや、僕の目からは確かに誰も女性には触っていないように見えた。
もしかしたらよく言われる、痴漢冤罪だったのかも知れない。
その場ではあの青年の味方をする乗客は誰もいなかったけど、僕がちゃんと手を挙げて「その人は触っていない」と言うべきだったんだろうか。
そしてもう一つのトラブルは、帰宅時にこの話を舞奈にした時に起こった。
仕事中もずっと朝の件が忘れられず、青年がどうなったのか気になり、つい舞奈に話してしまった。
すると舞奈は「開くん、もう電車乗るのやめて!!」と言い出したのだ。
勿論それは、僕が痴漢冤罪に巻き込まれる危険性を考えてのことだろう。
思えば、僕のすぐそばであんなことが起こったんだ。巻き込まれたのが僕であってもおかしくはなかったな……それを心配してくれるのは嬉しいけど。
舞奈はさらに怒り狂いながら、こう言った。
「私は痴漢も許せないけど、痴漢冤罪はもっと許せない!
だって何の罪もないのに勝手に痴漢にさせられて、一方的に犯人扱いされた挙句に社会的に抹殺されるんだよ!?
もし開くんがそんな目に遭ったら、私だってどうしたらいいのか分からないよ!!」
「舞奈、落ち着いて。僕なら大丈夫だから。
僕はいつも両手を挙げてつり革やパイプ掴んで乗ってるから、痴漢に間違われることはないよ」
「そんなの、痴漢冤罪狙う極悪女に狙われたら意味ないよ!
だから私、満員電車なんて大嫌い! この世から全部なくなればいいんだ!!」
舞奈の怒りはよく分かる。彼女は元々、満員電車が嫌いだ。
そもそも貧血気味で朝が苦手だった上、ザクシャルでは朝9時出社を当然に強要された舞奈。
片道1時間以上をずっと満員電車に押し込められ、電車内で何度も倒れたし。
吐き気を催したりお腹を痛めたりで、やむなく途中下車してトイレに駆け込むなんてしょっちゅうだった。
彼女のミスは午前中に頻発する傾向にあったらしいが、もしかしたら過酷な満員電車も原因のひとつだったのかも知れない。
何度か痴漢の被害に遭ったことさえある。
しかも僕や舞奈が使う電車は人身事故や乗客同士のトラブルがやたらと多く、よく緊急停止する。そのせいで舞奈は間に合うはずの時間に出たのに遅刻したり、気分が悪いのに延々と満員電車に閉じ込められるなんてしょっちゅうだった。
僕はそれを見越してさらに早い時間に出るようにしてるけど、朝が弱く貧血もちの舞奈には早起きにも限界がある。しかもザクシャルに勤めていた時は不眠も併発していた。
そういう事情もあるから、舞奈は満員電車をこの世の何よりも忌み嫌う。
ついでに言うと、朝9時出社必須の企業慣行も同じくらい嫌悪している。
だから満員電車を悪用した痴漢や痴漢冤罪などの犯罪に対して、怒り狂っても仕方がない。
だけどさすがに、僕が電車に乗らないわけにはいかないだろう。
僕たちの生活は僕の仕事で成り立っているんだから。なるべく痴漢冤罪に巻き込まれないように注意しながら、電車に乗る毎日を続けるしかない。
今週はなかなか忙しく、テレワークの日も少ない。舞奈が何と言おうと、明日も電車に乗るしかない……
パソコンの中の舞音は、そんな僕らを心配そうに見つめていた。
『おとうさん、どうして毎朝電車に乗らなきゃいけないの?
こんなにおかあさんを怒らせても?』
舞音の問いは無邪気な子供そのものだ。
「おとうさんはお仕事に行かなきゃいけない。だから電車に乗らなきゃいけないんだ」
と答えると、さらに舞音はたずねてきた。
『おしごとって、そんなに大切なこと?
そのために、おとうさんが毎朝電車でつらい思いをしなきゃならないの?
そのために、おかあさんがつらい目にあわなきゃいけないの?』
「それはね。
僕とおかあさん、そして舞音が生活するために、必要なんだ。
生活するためにはお金がいる。だから僕は会社に行って仕事をして、お金をもらう。
そのお金で、僕もおかあさんも、舞音も生きていける。社会はそうやって回っているんだよ」
当たり前のことだけど、子供にはちゃんとこの仕組みを教える必要がある。
舞音が現実に社会人になれるかどうかは分からないけど、僕たちの子供なんだから。
すると舞音はこう聞き返してきた。
『それなら、お金があれば、おとうさんは仕事しなくてすむ?
電車に乗らなくてすむ?
おかあさん、幸せになれる?』
お金があれば。
人生で何度そう思ったか分からない。
お金があれば、確かに仕事はしなくてすむ……
時間に追われることもなく、上司や先輩に怒鳴られることもなく。
夜勤もする必要なく、痴漢冤罪を恐れる必要もなくなる……かも知れないが。
一瞬答えに詰まった僕のかわりに、今度は舞奈が笑いながら答えた。
「そうねー。
お金がたくさんあれば、おとうさんもおかあさんも働かなくてすんで、幸せになれるかも!」
その時の舞奈の笑顔は、つい数分前までとはうってかわって晴れやかだった。
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