2019年5月4日


 舞奈がパワハラを受けていたと思われる間、本人は様々な体調不良を訴えたが。

 会社の健診でも近所の医者からもただ「健康面に問題はありません」と言われ、薬をもらって終わるだけ。

 どんなに不調に見えても健康である以上、会社は行かなければいけない。仕事をしなければいけない――

 舞奈は毎朝毎朝そう呟きながら、青い顔で出勤していた。



 見ていられなかった。

 だからかかりつけの医者ではなく、心のケアもちゃんとしてくれて面倒見がいいと評判のY沢医院に相談した(いつもの医者だといつも通り、「自律神経失調症です。季節の変わり目にはよくありますよ」と言われて終わるだけだ。さすがにもう信用できない)。

 するとコノハナ研究所とその所長、橘さんを紹介され。

 そのつてで、舞奈をコノハナ研究所に連れていった。

 最初は遊びに行くのと同じ感覚でいいから、心療内科よりも精神的ハードルは低い。そう言われて。



 確かに舞奈自身も僕も、心療内科にかかるのはためらっていた。

 僕も舞奈が心の病気だとは認めたくなかったし、何より舞奈が「そこまでのことじゃない」と言い張って行こうとしなかった。



 今思えば、1年前に病院から散々言われていたはずなのに。

「しばらくの間、奥さんの様子には気を付けてください」と。

「何かあれば遠慮なく病院に相談しにきてください」とも念押しされていた。

 流産直後に母親が自ら命を絶つというケースは、決して少なくないそうだから。


 ――なのに、僕は忘れていた。


 僕自身、日々の忙しさにかまけていたから。

 舞奈は「大丈夫だよ」と言っていたし、しっかり会社に復帰したように見えたから。

 理由は色々あるけど……今となっては言い訳にすぎない。



 コノハナ研究所は表向きこそ民間のシンクタンクということになっているが、実はAIを通じて人間の心を研究する会社という話だった。特に医療機関というわけではないらしいが……

 それでも、心療内科や精神科でも全く救われなかった患者が、コノハナ研究所に通ったことで回復したケースが何件もあるらしい。

 今思えば眉唾物の話ではあったが、それでも藁にも縋る思いで舞奈を連れていった。



 舞奈も最初は散々渋っていたけど――

 ある日の帰宅時に突然、何か吹っ切れたかのように「研究所に行きたい」と言い出した。

 よくよく話を聞いてみると、上司である古島マネージャーとの面談時、「何故病院に行かない?」とか言われたらしい。

 限界ギリギリだったであろう舞奈が「自分は病気かも知れない」と漏らしたこと自体もショックだったが、それ以上に古島マネージャーの言葉は僕にとっても衝撃だった。

 病気としか思えないレベルで、舞奈の仕事のできなさは異常だった――少なくとも直属の上司からはそう見えていたという事実を、その言葉は厳然と証明していたから。



 多分古島マネージャーの言葉がきっかけで、舞奈は決断してしまったんだろう。

 コノハナ研究所へ行くことを。



 そうして研究所の門をくぐった僕たち。

 橘所長は直々に、舞奈や僕の話を親身に聞いてくれた。

 流産のこと、仕事のこと、会社でのごたごたなど全てを。

 舞奈は自然と、毎週のように研究所に通うようになった。

 世の医療機関というヤツは殆ど、日曜や祝日という肝心の日にろくに開いておらず、土曜日はほぼ満杯でやたら時間がかかるところが非常に多い。平日フルタイムで働いている人間はいつ病院に行けというんだ、と舞奈はいつもボヤいている。

 だけどコノハナ研究所は日曜日でも開いていたから、舞奈も僕もそこそこ気軽に行くことが出来た。



 でも、会社での舞奈の状況は悪化の一途をたどった。

 あれは去年の9月ごろだったろうか。直接の指導役である礼野という先輩からは散々叱責された挙句、ほぼ全ての業務から外されひたすら電話番だけをさせられた。

 舞奈によれば、「貴方に任せられる仕事はせいぜいそのくらいしかない。それすら満足に出来ないことも多いが、それでも会社にいるつもりならやってもらうしかない」などと言われたという。

 今考えれば非常にキツイ言い方だが、当時の舞奈は感覚がマヒしていたのか。ほぼ何も感じずにそのまま言われた通りにしたようだ。



 多分それまでも散々、似たようなことは言われていたのだろう。確か、メールのやりとりでトラブった時、何がなんだかワケが分からないうちに「陰険です」とか舞奈に暴言を吐いたのも同じ先輩だったと思う。

 僕たちの子があんなことになったのは、その直後――



 僕もしょっちゅう会社で色々言われてはいるけど、そこまで酷い目に遭ったことはなかった。

 一体、舞奈の何が悪かったっていうんだ。

 ザクシャルではどこの部署に行ってもうまくいかなかった。

 少し前に勤務していたユリノキも、ザクシャルより前に勤務していた会社も、そこまで酷いことにはならなかったのに。少なくとも、派遣社員として勤務していた時は何も起こっていなかったはずなのに。



 だからなのか――

 舞奈はやがて、休日になるとコノハナ研究所に率先して向かうようになった。

 しかも、若干楽しそうに。

 相談料もそこまで高くはなかったのが幸いだったけど、舞奈が橘所長と特に会話が弾んでいるのは少し気になった。最初は、まさか浮気か!?と疑ってしまったレベルで。

 だけど実際はそんなことはなく、橘所長はある提案を舞奈に持ちかける為、積極的に彼女に接していたんだ。



 それは――

 簡単に言えば、「失われた魂の復活」。



 コノハナ研究所はAI、いわゆる人工知能を研究している企業だが、とある大きなプロジェクトを抱えていた。

 それが、ほぼ人間に近い知能をもつAIを作り出すこと。そして、失われた命を擬似的に蘇らせること。

 生前の人間の性格・言動・行動などのデータを収集した上で丹念にシミュレートし、その人物と会話しているのとほぼ変わらない会話を実現したり……などということが可能になっているようだ。

 そんなバカなと最初は思ったが、実は成功したケースが何例もあるらしい。


 例えば、病や不慮の事故によりパートナーや家族を失い、心を病んでしまった人たち。

 コノハナ研究所はそういう人たちの相談を受け、彼らから生前の人物に関する情報を集め、仮想の家族をAIで作り上げた。

 実体はパソコンの中にしかないから、一緒に手をつないで出かけたり身体に触れたりといったことは勿論不可能だが、それでも会話が出来るだけでかなり違うようだ。

 しかもそのAIと会話することによって、ある程度心が癒され回復に至った例がいくつもあるという……橘所長の話では。

 病院で全く手に負えなかったのに、コノハナ研究所でメンタルが回復した人間が大勢いるというのは、そういうことだったか。

 それが本当に回復していると言えるのか、僕は正直疑問ではあったけど。



 さらに研究所では、それよりもう一段階高レベルのプロジェクトを進めているという話だった。

 それは、「死産に終わった子供を、AIとして蘇らせる」というもの。

 もう一つ言うなら、そのAIは成長する。仮にその子供が無事生まれてきたら、どのように成長するかを見守ることさえ可能だという。

 橘所長はこのプロジェクトに大きく力を入れていると言ってもよく、自らこの実験を「ミタマプロジェクト」と呼んでいるらしい。



 ちょうどそのタイミングで研究所にやってきたのが、舞奈というわけだ。

 この話を橘所長から最初に聞かされた時は、さすがに舞奈も僕も渋った。既に天国に行ってしまった子供の存在を、馬鹿にされているような気がして。

 日本ではよく、どうしようもない過去を後悔することを『死んだ子の年を数える』と例えられる。

 まさにそれと同じじゃないか。今更取り戻せない命を、AIとして蘇らせるなんて――

 しかも生まれることも出来なかった子供の成長を、どうやってAIがシミュレートするっていうんだ。



 だが、橘所長によればそれが可能だという。

 舞奈が未だ大切に保管している、僕たちの子の遺灰。

 そして、流産直前までの子供の医療データ。

 それさえあれば――と。


 橘所長は、舞奈自身の健康に影響を及ぼすことはないと言っていたけど。

 僕にはどう考えても、舞奈をプロジェクトの実験体にしているようにしか思えなかった。




 だけどそれから間もなく、舞奈は真剣に考え始めた。プロジェクトへの参加を。

 答えを性急に決めることはないと橘所長には言われていたけど、ある時から急に舞奈は積極的になり始めた。

 きっかけは勿論、ザクシャルでの出来事。あの、転勤命令だった。




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