PHASE3 心瀬開の日記~「舞音」誕生~

2019年5月3日


 今日も舞奈は鬱々としている。

 この前やっと会社を辞められたのに、ずっと部屋に閉じこもったままだ。

 夕飯はきちんと作ってくれるけど、朝と昼はちゃんと食べられているのだろうか……

 その時間出勤している僕には分からない。

 メールをしても返信が来ないことも多いし。



 ――僕らが子供を失った「あの日」から、そろそろ1年。

 舞奈は、まだ立ち直れていない。

 この日記をつけ始めたのは、僕が僕自身の気持ちを整理したいからだ。

 手で書いたら生来の字の下手さのせいでぐちゃぐちゃになったから、パソコンで書いていこうと思う。

 何かの記録になるかも知れない。



 舞奈とは結婚相談所で出会った。

 最初はちょっとおどおどして引っ込み思案なところが目立ったけど、実はとても優しくて可愛らしい女性だった。

 フラれたことの方が圧倒的に多いと笑っていたけど、それは多分、彼女の良さは長く付き合わないと分からないからだろう。

 なかなか笑わなくて、話し声も小さくて、ちょっと釣り目だからか普通にしていると怒っているように見えなくもない。つまり第一印象でかなり損をするタイプだ。笑うととても可愛いし、今の僕には笑わなくても滅茶苦茶可愛く見えるけど。

 それまでの人生でも舞奈は多分、誤解されやすい容姿と口調でだいぶ損をしてきたんだろう。ちょっと抜けているところは確かに多いけど、おっとりしてとても優しい女性なのに。



 そして、舞奈と結婚して初めて分かったことはたくさんある。

 まず、男である僕には分からないようなことが、女性には山ほどあるのだということ。

 例えば、月のもの。毎月あそこまで大量の出血があるとは、舞奈と生活するまではまるで知らなかった。

 その量には個人差があり、舞奈の場合はかなり多いとも聞いた。酷い時は一番大きいサイズのナプキンを使っても2時間もたないし、当然痛みや貧血も酷い。

 1年前のつわりも本当に酷かった。食事を口にするたび数秒後に吐き出すといったことを繰り返し、しまいには水さえ満足に飲めなくなり、脱水症状と栄養失調に陥った。

 会社で何もなかったとしても、多分かなりの難産になっただろう。



 そんな状況でも僕は舞奈を放置し、会社勤めをそのままさせていた……

 それを知ると彼女のお母さんだけでなく僕の母まで、烈火のごとく怒っていた。

 僕は女性の身体の繊細さを何も知らなかったと、思い知らされた。


 舞奈は結婚してからずっと、会社で何かあるたびに愚痴っていたが――

 僕はパワハラと言われるほど深刻な状況だとも思わなかったし、彼女の身体についてもきちんと考えていなかった。いや、当時は考えていたつもりで、彼女の為になることなら何でもやったつもりだけど……

 所詮、「つもり」にすぎなかった。


 会社で酷いパワハラを受け、妊娠していた舞奈は身体を壊し、僕たちの子供は流産に至った。

 それが去年の今頃。


 僕は何も出来なかった。

 ただ、絶望にくれる舞奈のそばにいることしか。

 彼女はそれで充分だと言ってくれたけど、あの時の無力感は思い出したくない。


 その上、舞奈が会社に復帰したらさらなるパワハラを受けた。

 毎日毎日酷い顔で帰ってきては僕に愚痴を漏らし、出前が多くなり、風呂にも入らず服のまま寝ることも多くなり、時には頭痛や腹痛を訴えたり、吐いたり。

 元々仕事が忙しくなると身だしなみも体調も崩れがちな舞奈だけど、その頃はそれが一層酷くなっていた。


 そんな彼女を、僕はどうすることも出来なかった。

 舞奈の会社のことは、さすがに僕にも分からない。会社で何が起こっているのかは、舞奈が話してくれること以上は何も分からなかった。

 だから精一杯愚痴をきき、励まし、朝は子供のようにぐずる彼女を「頑張って」と起こすぐらいしか、僕に出来ることはなかった。



 舞奈にとって地獄そのものだった会社。

 僕が「もう行くな」と言えば、もしかしたら何かが変わったのかも知れない。

 だけど僕は言えなかった。いや、言わなかったんだ。

「もう行くな」と止めること自体、思いつかなかった。

 昔から、誰かの行動を止めたり誰かと喧嘩するのが苦手なのが僕だ。だから、舞奈を止められなかった。というか――

 仕事に行くことを止めさせる。その発想自体が、当時の僕にはなかったんだ。



 僕は舞奈の味方なんかじゃなかった。むしろ僕は、敵だった。

 彼女がつわりで苦しみながら出勤していたのを止めなかった時と、何も変わらない。

 味方のふりをしながら、優しい言葉をかけながら、ゆっくりと地獄に向かわせる悪魔だった。

 今ではそう思える。



 そんな中――



 唯一希望を与えるかのような存在。

 それが、コノハナ研究所だった。


 ……舞奈が起きてきた。

 明後日はコノハナ研究所に行くらしい。

 その話をする時だけは、いつも目が輝く。

 ――「ミタマプロジェクト」の話をする時だけは。




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