第34話

『どこ……?』


 あれだけ巨大な蠱毒が返ってきたのだ。術者にもなんらかの影響があるはず。紅月は猫の姿のまま宮殿の中を駆けた。


『あっ……』


 廊下に人が倒れている。紅月は慌てて駆け寄り、その顔を覗き込んだ。


『燕禹!』


 倒れていたのは燕禹だった。服はあちこち破れ、擦り傷だらけである。


「う……う……」


 意識はあるようだ。紅月はどうしようと考え、側の花瓶を倒した。ガシャーンと派手な音がなる。その音に気づいて人々が動き出す気配を感じて、紅月は部屋へと戻り、人の姿に戻った。


『あれは呪い返しなのかしら』


 紅月は動揺しながら玄牙に問いかけた。


『あの傷は蠱毒によるものだ。さっきのあいつの気配がした』


 ならば、これまでの蠱毒の事件は燕禹によるものだということになる。


(本当に……?)


 燕禹は金にがめつく怠けぐせがあって、そのくせ上昇志向があった。だけどそんな宦官はいくらでもいる。蠱毒を使って皇帝や妃を殺そうとするような大それたことをするような者とは思えなかった。


 でも……それも表向きの顔だったのだろうか。魑魅魍魎の蠢く後宮で、怨恨を腹の内に隠し、命を弄んでいたのかもしれない。


「失礼します。紅月様、怪我人がでまして……」


 扉の外から聞こえてきた雪香の声に紅月はハッと顔を上げ、彼女を中に入れると、医者と警備を呼ぶように指示をした。




「私ではございません! 私は何かに襲われて倒れていただけでございます!」


 悲痛な燕禹の叫びが宮殿内に響く。彼は両脇を警備に抱えられ、引きずられるようにして外に連れ出されていく。


「宮殿の中も検めさせていただきます」


 警備の宦官たちはそう言って各部屋を調べていった。


 ――その結果。燕禹の使っていた部屋から割れた蟲の入った壺と「後宮滅ぶべし」と書いた木簡が発見された。




 燕禹が逮捕されたことで、一旦外出禁止令は解かれた。


「紅月、よく来てくれた」


「凌雲様のお召しとあらば」


 この夜、紅月は凌雲の部屋へと呼び出されていた。こうしてきちんと訪問するのは久々だ。紅月は凌雲に会える嬉しさ半分、燕禹の一件で重苦しい気持ちが半分であった。


「でも……よろしいのでしょうか。私の関与も疑われているのでは?」


「ははは。初めからそなたは蠱師を探そうと無茶を重ねていたではないか。どこに疑う要素がある」


 凌雲は笑い飛ばしたが、紅月が心配しているのはそこではない。


「周りはそうは思いません」


「それも大丈夫だ。昼餐会でそなたも狙われていたことから疑っている者はいないと報告を受けている」


「そうですか……」


「そなたは潔白であると示す為にも今夜呼んだのだ」


 そこまで考えてくれたのか、と紅月は嬉しく思い、礼を述べようと顔を上げ、そして固まった。凌雲が笑みを浮かべつつも、厳しい目でこちらを見ていたからだ。


「凌雲様……」


「で、何をしでかしたのだ。紅月」


「あの……その……玄牙と空から蠱毒が動くのを見張っておりまして」


 凌雲は頷いた。そうして「それだけではないだろう」と耳元で囁く。


「その……蠱毒が東の宮を狙っているようでしたので、二人で撃退しました」


 そう言った途端、凌雲ががしっと紅月を抱き締めた。


「また危険なことを……!」


「いえ、私は動きを縛ったくらいで。獅子奮迅の働きをしたのは玄牙です」


 そう言っても、凌雲の手が緩むことはなかった。


「私は自分が情けない。私は玉座から離れられず、そなたを守ってやれない」


「もう大丈夫です。燕禹は捕まりましたし、これからは心配はございませんよ」


 凌雲は紅月の肩に顔を埋めたまま、そうだな。と言った。


「その玄牙という猫鬼に礼を言いたい。呼べるか?」


「え……ええ。できますけれど」


 紅月はしばし躊躇した。玄牙はあやかし。人の道理が通らないことはしばしばだ。鎖で繋いであったとて猛獣のようなものだとも思う。それでも、と凌雲が言うので、紅月は玄牙の名を呼んだ。


『なんだ。今度こそ交尾が見られるのか』


 姿を現した途端にとんでもないことを言った玄牙の足を、紅月は思わず強く踏みつけた。


「違います! 凌雲様があなたにお礼を言いたいそうよ」


『はあ?』


 玄牙は怪訝な顔をして凌雲の前に立った。


『なんでだ?』


「玄牙が蠱毒を撃退してくれたからよ。玄牙にそのつもりはなくても、皇帝と後宮の妃たちを救ったことになるのよ」


 紅月がそう言うと、玄牙はまるで苦いものを食らったかのような顔をして舌を出した。


「そこに……いるのか?」


「はい。目の前に」


「そうか。この度は蠱毒の脅威から我々を守ってくれて感謝している。元々は私を襲おうとしたあやかしと聞いているが……紅月にも手を貸してくれているようだな。何か礼の品を渡したい。何が良いか」


『……ふん。おい紅月。酒を寄越せと言っておけ』


「凌雲様、玄牙は酒が好きなのです。飲んだことのない酒がいいかと」


「なるほど、それでは銘酒を用意しよう」


 玄牙は依然、仏頂面をしているが、耳はひくひくと動き、尻尾が揺れている。どうやら喜んでいるようだ。


「良かったわね、玄牙」


『ふん……あとな。捕まえた蠱師の首をとっとと刎ねろ。俺の呪縛はまたそのままだ』


 紅月はそれをそのまま伝えるべきか迷った。その顔を凌雲が覗き込んでくる。


「なんと言ってる?」


「蠱師が死なないと……彼は完全に自由にはなれないのです。なので、早く首を刎ねろと。でも私は慎重に取り調べをするべきだと思います」


「……わかった。悪いが再び蠱毒の事件が後宮で起きぬよう、犯人の話を聞かねばならぬ。しばし待て」


 それを聞いた玄牙はふんと鼻を鳴らして消えてしまった。


「あ! ちょっと……」


「行ってしまったか」


「申し訳ございません」


 紅月は玄牙が消えて行った窓を開け、外を見たがもう姿は見えなかった。外には白く雪がちらついている。少し早めの初雪だった。


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