第35話

 少しずつ、日常が戻ってきた。ただ、凌雲の話では燕禹への聞き取りは苦戦しているとのことだった。初めは身の潔白を述べていた燕禹だったが、ここに来て、貝のように口をつぐんでしまったとのことだ。なので、燕禹の縁者に話を聞きにいったりもしているそうだ。凌雲は暗い顔で、このままでは手荒い取り調べもやむを得ないと呟いた。


『何をまだるっこしい。首を刎ねてしまえば蠱師であったかすぐわかるであろう』


 玄牙はそんな風に言うが、紅月は間違いがあっては取り返しがつかない、と彼を宥めた。




 そんな折であった。紅月を尋ねる者があった。高美人である。


「潘淑妃のことは本当に残念なことでありました」


 そう言いながら、高美人はさめざめと泣いた。


「お二人は仲がよろしかったものね」


「はい。それに、私はまだ恐ろしくて……またあんな事件が起きたらどうしようかと。後宮に入った身では実家に戻ることも出来ませんし……」


 高美人は多少まじないの心得があるだけに、今回の件に特別恐怖心を抱いたのだろう。と紅月は思った。


「それでは護符をお渡ししましょう」


「ありがとうございます。あと……」


 高美人は口元を押さえ言いよどんだ。


「なあに?」


「私のように怯えている妃が大勢おります。陛下にどうか目を配ってやって欲しいと……」


 ようは、何か気分の変わるようなことを催して欲しいとのことだった。


「わかったわ。お伝えはします」


 実際、後宮から逃げ出すこともできず、心を病んでいる妃は多くいるだろう。




 このことを凌雲に切り出すと、彼は少し考え込んだ後、頷いた。




「確かに、死人が出て宴というわけにもいかない。だが、何かしら気を紛らわせる必要があるな」


 紅月は静かに頷き、提案を続けた。


「では、高名な術士を呼んで、鬼祓いの祈祷をしましょう。その後に軽く食事をするのはどうかしら?」


 凌雲はその提案に頷く。


「良い考えだ。それなら皆も少しは安心できるだろう。しかし……複雑な気分だ」


「なにか」


「後宮をないがしろにしているのは私なのに、皆、私に助けを求めるのだな」


「それは皆……凌雲様の妃でございますから」


 紅月がそう答えると、凌雲はため息をつき、椅子に身を投げ出した。


「後宮がなくなればいい。そう思っていたのは私も、なのにか」


 その姿が、紅月には霜の花のように儚く見えて、そっと彼の手を取った。


「何故そのようにお思いになるか、お聞きしてもよろしいですか」


 凌雲が後宮を疎んじている理由を、紅月はずっと聞きたかった。政に専念したい、とは言っているものの、あまりに極端すぎる。いつもは深掘りするのを嫌そうにしていた凌雲だが、この日は様子が違った。


「話せば、お心が軽くなるやもしれません」


「私は……私の母は後宮に殺されたと思っているからだ」


 凌雲の表情は陰り、苦しそうでもある。それでも、彼は言葉を続けた。


「殺された……?」


「母は先帝の寵愛が薄れたことで気を病み死んでいった。私のことなど省みずにな。その後、皇太后の元に引き取られたが、私は彼女に心を開くことはなかった。誰も私を見ていないと思った。だから政で何か己の爪痕を残そうとしたのだ。だが、上手くいかなかった。私を誰も見ていないのではない。……私が、誰のことも見ていないからだ」


 凌雲の手が、紅月の手を握り返した。


「そのことに気づいたのは、紅月。そなたのおかげだ」


「私……ですか」


「そなたはいつも懸命で。私の為に尽くしてくれた。そなたを見ていたら私の認識の狭さを知ることとなった」


 そんなの、ただ当たり前のことを必死でやっていただけだ。紅月は凌雲の孤独を少しでも和らげたかった。その気持ちはどうやら伝わっていたようだ、と紅月の目には涙がにじんだ。


「こ……光栄です」


「紅月、近くに寄れ」


 凌雲に手を引かれ、紅月は素直に凌雲の側に寄った。


「感謝している」


 凌雲は紅月の耳元で囁き、その唇に唇を重ねた。


(えっ……)


 紅月の頭の中は真っ白になる。どんなに抱き締めても、髪を撫でられても、彼がそれ以上をしたことはなかった。


「え……えええ……」


 急に状況が生々しく感じられる。触れている唇は柔らかく、そっと離れた。


「紅月」


 低く甘さのある声で名を囁かれ、紅月は心臓が破れんばかりにどきどきとする。その次の瞬間、紅月は猫の姿になって逃げ出した。


「あ、おい」


「にゃあああ……」


「急にして悪かった。出ておいで」


 箪笥の横に逃げ出した紅月を、凌雲はそっと手を出して抱き上げた。


「紅月、そなたが妃であってよかったと思うぞ」


「……にゃあ」


 まるで叱られたかのようにしている紅月を抱き寄せて、凌雲は笑った。


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