第32話
夜風が紅月の頬を撫でる。眼下には、後宮の建物たちが一望できる。紅月は猫の姿になって宮殿を抜け出した。そして、前回のように玄牙の背に乗せて貰おうとしたのだが、玄牙は「しっかり捕まっていろ」と言うと、突然木に登り始め、その木からひらりと跳躍した。驚くことに、玄牙の体は紅月を背に乗せながらそのままぐんぐんと空中を駆けていく。
やがて、すっかり後宮を見下ろせるほどの高さまで浮き上がっている。
『どうだ、これならしっかり見張れるだろう』
これは鳥でもなければ見られない光景だ。本来なら夜も宮殿の光が見えるのかもしれない。だが、今は明かりも乏しく、しんとして寂しげであった。
紅月はその風景に目を奪われつつ、もし落ちたらひとたまりもないとぶるりと身震いする。自然に紅月の四肢の爪には力が入った。
『紅月、そんなに力まんでもいい』
笑いを含んだ玄牙の声がすると、紅月の体はふわりと浮かんだ。見れば、黒いものが紅月の体を包んでいる。玄牙が現れる時の靄だ。それは目の前で集まると、人の姿の玄牙となった。紅月は玄牙の手に包まれながら、彼の顔を見上げた。
『これならよかろう』
『……ありがとう』
紅月は再び眼下に目を落とす。
『確かに延滞全体を見ることは出来るけど、どこに人がいるかわからないわ』
『人を見張ることはない。あやかしの目を持って、人の動きを見て辿るのだ。その姿ならお前にもできるはず』
そう言われて、紅月は目をこらした。そうすると、うっすらとした光の波のようなものが、あちらこちらにあるのが見える。
『少しだけど、何か見えるわ』
『呪いがあれば強い感情が動く。それを見つけろ。現世の目を持つお前の方が、場所を特定しやすいはずだ』
改めて、玄牙とは見ている風景が違うのだと感じた。紅月と一緒に居るときの玄牙は部屋の様子も紅月や他の者の様子もわかっているようだった。それは紅月の現世の目が、彼に影響を与えているのだろうか。
『さて、やつが尻尾を出すまでじっくり待とうか』
玄牙はどうやって隠し持っていたのか、懐から酒瓶を取りだした。
『そんなもの持っていたの』
『いいではないか。お前もやるか』
『……私はいいわ』
器用に紅月を胸に抱きながら、玄牙は酒瓶の中身を呷った。
『うまいなぁ。確かに前のものより上等だ』
まるで水のように飲んでいるが、玄牙は特に酔った風ではない。あやかしだからだろうか。単純に味が好きなのだろうか。
『……ふう』
蠱師が動き出すのを待つ。その目的さえなければ、この風変わりな散歩は最高のものだった。すべてが片付いたら、こうして夜空をまた飛びたい。紅月はそんな風に考え、ふと玄牙に聞いてみた。
『玄牙はこの先どうしたいの』
『……なんだ唐突に』
『いや……聞いてみたいと思っただけ。蠱師の呪縛を解いて、私の体から体の一部を取り返したら、玄牙は自由でしょ。そうしたらどうするの?』
『……そうだな』
玄牙はそう言って黙り込んで、酒瓶に口を付ける。かなり長いことそうして黙っていた玄牙は、ぽつりと呟いた。
『同族を探しに行く……かもな』
『猫たちと暮らすってこと?』
紅月の問いかけに、玄牙は首を振った。その顔は少し悲しそうだった。
『ただの猫はだめだ。俺は同輩を殺しすぎた。自分が助かりたくて、仲間たちを殺し食い、猫鬼となった。仲間たちは俺の体の中にいるが、きっと俺を許さんだろう』
玄牙の一部が体を貫いた時の怨嗟と苦しみの声を紅月は思い出す。おぞましい生まれ方をした玄牙は殺す為の道具として操られていた。
『きっと……いるよ。玄牙の仲間も』
紅月は玄牙を不憫に思い、そう慰めるしかなかった。
『ん、動いた』
その時、玄牙がぴくりとして下を向いた。
見ると、粘ついた泥のようなものが、ずるりと後宮の真ん中に現れている。
『東側の宮の方に向かっているわ。あっちは下級妃が暮らしているところよ』
紅月は玄牙にしがみついた。
『お願い、玄牙。あれを祓いたい』
『そのうちに蠱師が逃げるかもしれんぞ』
『それでも……犠牲を出すことはできないわ』
『……わかった』
玄牙の姿が巨大な黒猫に変化する。そして紅月を乗せたまま、東の方へと駆けていった。
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