第30話
「……もういいか?」
「はい」
紅月は人の姿に戻り、凌雲の夜着を身につけて衝立の裏から姿を現した。
「どうして来たのだ」
凌雲は少し怒っているように見えた。
「会いたかったからです」
「そなたが危険ではないか。心配をかけるな」
凌雲の言うことは間違ってはいない。紅月はぎゅっと唇を噛んだ。
「凌雲様がそうお思いになるように、私もあなた様が心配だったのです。こうして蠱毒の事件が立て続けに起きた。そうなれば最初に標的になった凌雲様が再び狙われるやもしれません」
「ここには結界を張ってあると術士は申していた。だから心配はない」
紅月はそっと玄牙を見た。彼はにやつきながら首を振る。
『蠱毒を弾くような結界ではない。ろくな術士がいないな』
「凌雲様、この結界には効果はありません」
「そんなことがなぜわかるのだ」
言うしかないか、と紅月は腹をくくった。
「凌雲様には見えないでしょうが、今、私の横には猫鬼がおります。その者が、この結界には効果がないと申しております」
「な、なに?」
凌雲はさっと身を引き、紅月の横あたりを見た。
「ご安心ください。危害は加えません。私がさせません。この身に変えても」
本当に心の底から玄牙が安全だとは紅月も思っていない。もし玄牙が心変わりをしたなら、紅月は差し違えてでも止めるつもりだった。紅月が死ねば、玄牙の身も傷つく。そうしてでも止めるつもりだ。
「高名な術士をお呼びください。もっと強力な結界が必要でしょう」
「……そのことを伝えにきたのか?」
「いえ……それは」
会いたいから。身がちぎれる程に心配で、とにかく側に居たかったから。そう口をついて出そうになるが、紅月は口をつぐんだ。凌雲は後宮を嫌っている。重荷だと思っている。そんな彼に思いを伝えるのは、怖い。
『紅月よ。この男に、まだ呪いの気配が漂っていると伝えろ』
「玄牙……それは本当?」
『ああ。強い怨念が残っている。そして……それは俺の鎖と繋がっているようだ』
「それは祓ったりできるものなのかしら」
『いや。これは人間の思いの残滓だ。悪さをするものではないし、俺にはどうすることも出来ない』
「そう……」
突然虚空と会話し始めた紅月を見て、凌雲は驚いた顔をしていた。
「びっくりさせて申し訳ありません。玄牙が……この猫鬼はあやかしなので、人の目には見えぬものが見えます。その者が、凌雲様には呪いの気配がまだ残っていると」
「そうなのか……」
「悪さはせぬそうです。ですが凌雲様を恨んでいる者が確実にいるということです」
「……わかった。城下に人をやって術士を探す。私の身はきちんと守るから」
凌雲は紅月を引き寄せ、腕の中に抱き留めると、あやすようにその髪を撫でた。
「だからそのような顔をするな」
私はどんな顔をしているのだろう、と紅月は頬を赤らめた。
紅月は凌雲の腕の中で少し落ち着きを取り戻し、彼のぬくもりに心を癒された。
「凌雲様、どうかご自分の身をお大事に。私はあなた様の無事を祈っております」
凌雲は優しく微笑み、紅月の頬に手を当てた。
「そなたもだ」
睫の震えすら捉えられる距離で、紅月は凌雲と見つめ合った。ずっとこうしていたい……が紅月の視界にはもうひとつのものが映っていた。玄牙のにやけ顔である。
「玄牙!」
『続けろ。人の交尾を見て見たい』
「こ……いい加減にしなさい!」
「だ、大丈夫か?」
凌雲の目が泳いでいる。紅月が猫鬼と話していることはわかっていても、やはり奇妙に見えるのだろう。
「だ……大丈夫です。それでは私はそろそろ行きます」
「そうか」
「これだけ警備もしているし、捜索もしているのでしょう? すぐに解決しますよ!」
紅月はそう言って、猫の姿に変化して、天穹殿を後にした。
だが、事態は解決することはなかった。妃が死んだ。再び事件が起こったのである。
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