第18話
紅月は今日何度目かのため息をついた。真新しい衣裳も、簪も、今はたた重苦しい。
「緊張なさってますか」
雪香に紅を差されながら問いかけられて、紅月はこくりと頷いた。
「ええ。それはもちろん」
「私もお姑さんは苦手でした。まあ、腹が立ってもしおらしくしておけばなんとかなります」
そう言う彼女は真顔のままで、相変わらず感情を読みにくかった。だが雪香は夫と死別するまで子が無かったと聞いた。さぞ、嫌みや重圧を受けていただろう。きっと、慰めてくれているのだ。
「ありがとね。がんばるわね」
もし、家族仲が良ければ、姉の星雨ともこんな話をしていたのだろうか。紅月はそんなことを考えながら、父の顔を思い浮かべた。
(手紙……書かなきゃ。色々なことがあったもの……)
紅月は複雑な思いを抱えながら、皇太后の元へと向かった。
「皇太后陛下。本日はお招きいただき、誠にありがとうございます。夏貴妃でございます」
紅月は深々と頭を下げた。
「よい、こちらへ参られよ」
その声に紅月が顔を上げる。皇太后はじっと紅月を値踏みするように見ていた。同様に、紅月も皇太后を見つめる。髪には白いものが混じり、体格はふっくらとしていたが、顔つきは上品で、先帝の治世で後宮の頂点として君臨してきた威厳がある。
「そちらにお座り」
その視線とは裏腹に、声色は優しい。
「はい」
目の前に出されたのはお茶と目にも美しい色鮮やかな菓子。それを見ながら紅月はあの香辛料入りの菓子のことを思い出してしまった。
「おあがり。わたくしはこれが好きなの」
そんな紅月の胸の内など知らない皇太后はひょいと菓子をつまむと口にした。紅月もおずおずとしながらそれにならって菓子を口にする。
「美味しい……。なんて口当たりが滑らかなんでしょう」
「気に入ったようで何よりだわ」
皇太后の顔に笑みが浮かぶ。そうするとえくぼが出来て愛嬌のある顔になる。不思議と人を惹きつける人なのだな、と紅月は感じた。
「そなたは、後から入った妃と聞いたが」
「さようでございます」
「ふむ……わたくしはそなたに礼を言わねばのう」
その言葉に、紅月は口にしていた茶を吹き出しそうになった。
「礼……ですか」
「陛下が後宮を避けておったのは知っておる。このままでは務めを果たすことが出来ないと気を揉んでいた」
「務め……」
紅月がぽかんとしていると、皇太后はふふふと口元を押さえながら、笑う。
「後宮の者の務めは世継ぎを産むこと。これより大事なことはないだろう」
「世継ぎ……そ、そうですね」
紅月はもじもじと手元をいじりながら下を向いた。
世継ぎを求められても、紅月と凌雲は添い寝をしているだけで男女の仲ではない。
「もう孕んでおるかもしれぬの」
「あっ、いやそれは時期早々かと……」
凌雲との本当の関係は知られてはいけない。そう感じた紅月は、口ごもりながらそう答えた。
「それはそうだの!」
皇太后は可笑しそうに笑いながら、そっと紅月の手を握った。
「頼むぞ、夏貴妃。早う跡継ぎを作っておくれ」
「それは……その、皇后様もいらっしゃるではないですか」
その言葉を聞いた途端、皇太后の顔つきが険しくなった。
「あの役立たずのことは良い」
「あの……」
戸惑いながら紅月が言葉を発すると、皇太后はハッとした顔をした。
「あの子は私の姪なのだ。皇后に据えたのも私の意向。しかし……若すぎたのやもしれぬ。あの子は面白うないかもしれぬが、そなたが気にすることはない」
「は、はい」
「何か困れば、わたくしにお言いなさい」
その言葉を、そのまま受け止めることは出来ないと思いつつも、紅月は頷くしかなかった。
「陛下も若い。政務で気苦労も多かろう。そなたが癒やしとなっておくれ」
「それは……はい」
紅月はそこだけは素直に返事が出来た。
「まったく、あの子は先帝の政を何もかも変えようとして。私の忠告を聞きやしないのだから」
皇太后は困ったことだ、と息を吐いた。その様はまるで普通の母親が子を案じているように見える。
「皇太后様は、陛下を心配なさっているのですか?」
紅月は思わずそう聞いてしまった。すると皇太后は虚を突かれたような顔をして紅月をじっと見た後、くくく……と袖で口元を隠しながら笑う。
「それはそうだの。陛下は亡き先帝陛下が皇太子を亡くしたわたくしに預けてくれた子。皇帝として恥ずかしくない方にお育てしたつもりだ。それでもあれこれ口を出してしまうのだよ。後ろ盾として……まあ、わたくしにも立場があるのだ」
紅月は余計に分からなくなった。凌雲は猫鬼を差し向けたのは皇太后だと考えている。つまり、自分を排除しようとしていると考えているのだ。だが、目の前の皇太后からはそんなそぶりはない。
(二人の間には溝がある……? それともどこかに嘘がある?)
皇太后が本当のことを言っている保証はない。やっと世継ぎの希望が出来て、紅月を手元に引き入れようと、耳障りのいいことを言っているだけかもしれない。
それを確かめる方法はひとつある。玄牙をこの場に呼ぶことだ。ただ問題は、玄牙がいきなり皇太后を殺してしまう可能性も捨てきれないということだ。
(説得は出来たと、思いたいけど)
紅月は口元を覆った。そしてその中で、小さく「玄牙」と呟いた。
『呼んだか』
たちまち一陣の風と共に玄牙が現れる。ここにはお付きの者も何人もいるが、黒い尻尾を振りながら部屋を闊歩する大柄の男に目を向けるものは誰もいない。
(本当に見えていないんだわ)
近づいていくる玄牙に、紅月は視線を送った。
『お前が言っていた、呪いの指示を出したかもしれない者はこいつか?』
玄牙が尖った黒い爪で皇太后を指さす。紅月は小さくこくりと頷いた。
「そなたはどこの出身なのだ?」
「恵照です。父は県丞をしております」
皇太后は玄牙に気づかないまま紅月に話しかけている。紅月は玄牙を目で追いながら、皇太后の質問に答えていた。
玄牙は皇太后の真ん前に立ち、身を乗り出してじっと見る。そして一旦黒い靄になると、巨大な黒猫の姿に変わった。
「そうです。趣味は占いで……けっこう当たるなんて言われていまして……」
紅月はそのまま玄牙が皇太后を食い殺さないかひやひやしながら見ていた。玄牙はぐるぐると皇太后の周りをうろついて、時々匂いを嗅ぐようなそぶりをしている。
『ふうん』
それはどういう意味なのだろう。だが紅月から問いかけることは出来ない。周りには玄牙の声も姿も見えないのだから。じりじりしながら紅月が玄牙を見つめていると、玄牙はにっと牙を見せて姿を消した。
(今の絶対にわざとだ……!)
ともあれ、いきなり皇太后を食い殺すようなことはなく、紅月はほっと胸をなで下ろし、皇太后との茶会を後にした。
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