第13話

 結局、紅月は一睡も出来ないまま、宮へと帰った。自室に戻ると、紅月の緊張の糸はぷつりと切れて、そのまま寝台に倒れ込む。


「紅月様、どうされました」


 雪香が驚いて駆け寄ってくる。説明する気力もない紅月は、しばらくそっとして欲しいと伝え、布団の中に潜り込む。すぐに紅月は泥のように眠ってしまった。


「紅月様! ……紅月様⁉」


 次に目を覚ましたのはそれから一刻ほど後だった。雪香が部屋の外から呼びかけてくる。


「……何?」


「ご使者が参りました」


 まだぼうっとしてだるい体を引きずって紅月が表に向かうと、燕禹とあの糸目の王安がいた。燕禹は気持ちの悪いくらいににこにことしている。


「紅月様、ご出世ですぞ! おめでとうございます」


「ええと……はじめから説明してちょうだい」


「この度、紅月様は貴妃となられました。つきましては本日のうちに宮殿を移られますようお願い申し上げます」


 貴妃! 紅月は大声で叫び出したいのをぐっと堪えた。貴妃は皇后に次ぐ位の妃だ。美しく、知性と教養を兼ね備え、良い家柄の娘たちが居並ぶ中をごぼう抜きしてしまったことになる。


「き、急ね……」


 今朝だって凌雲はそんなことを言っていなかった。全く眠れなかった紅月と違い、「よく眠れた」と清々しい顔をしていただけだ。


 紅月はちらりと燕禹の後ろにいる王安の方を見た。その視線に気づいた王安はこくりと頷く。


「陛下の連日のご寵愛ぶりから、いずれは……と思っておりましたので、密かに用意はしておりました。ご安心ください」


 何一つ安心などできるものですか、と紅月は思った。


 紅月と雪香はそのまま大きな宮殿へと移った。乾麗宮と呼ばれるそこは、いままでの住まいと段違いに広く立派で、そこには真新しく美しい調度が揃えられ、それぞれには鮮やかな衣、煌びやかな簪、紅に白粉とずらりと揃っている。


「贅沢過ぎるわ」


 紅月は思わず呟いた。


「いえいえ、貴妃様ともなれば、これぐらい普通ですよ」


 燕禹はまるで自分のことのように喜んでいる。だが、紅月はそう素直に喜べそうにはなかった。


「ほら、紅月様はお疲れです。そろそろお引き取りを!」


 浮かぬ顔の紅月を見て、雪香が燕禹を追い出した。


「……どうなさいました。紅月様も、このままご寵愛が続けばいずれこうなるのは分かっていたでしょう」


 二人きりになると、雪香は紅月にそう問いかけた。


「実は……猫に変身しなくなってしまったの。なのにこの待遇っていうのに戸惑っているのよ」


「それは……なんとも複雑ですね」


「猫として役に立てないのに、どうしてなのかしら」


「それは……紅月様にお心を寄せられているのではないでしょうか」


「……そ、そんなこと!」


 紅月は顔を真っ赤に染めながら首を振った。紅月と凌雲は添い寝するばかりで、夫婦らしいことはおろか、お互いのこともまだよく知らない。


「ま、その辺は陛下に聞いてみればよろしいかと。そもそも、妃は猫にはならないものですからね」


「それはそう……だけど」


 生身で凌雲に寄り添うのはとてつもなく気恥ずかしい。猫だから撫でられても抱き締められてもこういうものかと納得出来たのであって、人の身で触れる凌雲の肌は生々しく、紅月はいつまでもドキドキして、眠るどころではなかった。


 もしかしたら凌雲は、猫鬼の呪いを遠ざけたお礼のつもりなのかもしれない。どちらにせよ、ふた月後には薬を手に入れて、紅月の変身は治るのだ。


「紅月様、他の女官たちがご挨拶をしたいと」


「あ、ああ……そうね。呼んで頂戴」


 それからは忙しくしているうちに、紅月も物思いを忘れてしまった。




「ああ、せわしなかった。雪香、お茶をちょうだい」


 ばたばたとした日中を過ごし、そろそろ天穹殿に向かわなくてはならない時刻となって、ようやく紅月は一息つく時間を取ることが出来た。


「お疲れ様です。こちらのお菓子は頂きものだそうで」


 雪香はお茶と一緒に蒸し菓子を持って来た。


「どちらから?」


「潘淑妃からでございます」


「ふーん。耳が早いのね」


「この後宮で初めてのことですから、どなたも注目なさっているのではないでしょうか」


 宮を出るまでしばらく一人にして欲しいと雪香に伝え、紅月はゆっくりとお茶を飲んだ。そして菓子に手を伸ばし、一口囓った。


「うっ……⁉」


 紅月は思わず菓子を吐き出した。口の中がびりびりする。よく見ると中になにやら粒がぎっしり入っていた。


「山椒? 胡椒?」


 ひりつく口元を押さえながら、紅月は菓子のかけらを睨み付けた。


「これはわざとかしら……」


 自分はどれほどの女たちの恨みを買っているのだろうか。想像するとぞっとする。


「……とにかくふた月の我慢だから!」


 そうすれば凌雲の呼び出しもなくなるだろう。そうしたら自分のことなど皆忘れる。ただ、それを考えると少しさびしい気持ちになる。紅月は顔を振って暗い気持ちを振り払った。


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