第14話
その夜、皇帝からのお召しはあったものの、寝室に凌雲はなかなか姿を現さなかった。聞きたいことも伝えたいことも沢山ある。紅月はやきもきしながら、一人訪れを待った。
「待たせた」
夜も更けた頃に現れた凌雲は、疲れた様子だ。紅月は彼の上着に手を添え、着替えを手伝った。
「酒でも飲もう」
凌雲は椅子に座り、杯を手にする。紅月が酒を注ぐと、彼はぐっとそれを飲み干した。
「凌雲さ……いえ、陛下」
紅月は酒器を置き、凌雲の前で手を胸の前で合わせ、頭を下げた。
「なんだ。改まって」
「本日、貴妃の位を賜りましたこと、誠に感謝申し上げます。光栄の極みであり、身に余る栄誉でございます」
「うむ」
顔を上げると、凌雲は微笑みながら紅月を見ていた。
「急に決めて済まなかった」
「いえ……聞いてもいいですか」
「なんだ」
「なぜ、私を今昇格させたのでしょうか。私はもう……猫にはなれません」
紅月がそう問いかけると、凌雲は何が可笑しいのか、くっくっと声を殺して笑っている。
「凌雲様、なぜお笑いになるのですか」
「そうかそうか」
凌雲は立ち上がると、紅月の手を取った。
「位を上げたのは、そなたが猫になるからではない。そなたは二度も体を張って私を守ってくれた。その恩に報いようとしたのだ」
なんだ、と紅月の体から力が抜けた。と同時にすうっと秋の肌寒い風が体を通り抜けたような感じがする。感謝の言葉は告げたし凌雲の意図も分かったのに、紅月の心は寂しかった。
「あり……がとうございます」
胸のわだかまりが喉につかえたまま、紅月はお礼を言った。
「紅月、眠ろう」
紅月の心を知ってか知らずか、凌雲はそのまま彼女の手を引き、寝台へと向かう。
「……どうした」
「いえ、やはり猫になれた方がよろしいのではないかと……何か方法を考えます」
「そのようなことはせずともよい」
「しかし……」
今晩も凌雲は紅月に添い寝をさせて眠るつもりのようだった。
(ああ、そうか。私はがっかりしたんだ。陛下は私を好いて貴妃にした訳ではないと知って……)
後宮の妃である紅月は凌雲の命には逆らえない。その手の導くままに凌雲の隣に横たわり、その胸の中に抱き締められた。昨日も今日も、彼は優しかったが、決してそれ以上何かをする素振りは見せなかった。ただ、そっと紅月の艶やかな黒髪を撫でている。
「紅月よ。私は後宮からは距離を置いている。そのことでそなたは一層、後宮の女たちから白い目を向けられることだろう。で、あればそれなりの待遇でなければならないと思ったのだ」
「なぜ……後宮を避けるのですか? 先日の皇后様のお誕生日も……お気の毒でした」
「……私はまだ即位して間もない。宮廷でも味方が少なく、政もままならないのだ。後宮に関わればそれがおろそかになる」
本当にそれだけが理由だろうか、と紅月は凌雲を仰ぎ見た。
「……そのうち話してください」
静かに、紅月がそう囁くと、凌雲はしばらく黙った後に「ああ」と答えた。
それからはお互いに言葉は交わさなかった。
紅月は凌雲の体の重みを感じながら、この腕の中から今すぐ逃げ出したいような、このままずっと居たいような、正反対の気持ちと戦っていた。
(ああ……私、いつの間にかこの人に惹かれていたんだわ)
なんて空しいことだろう、と思う。理由は教えてくれないが、彼は後宮の女を嫌っている。皇后をはじめとした妃たちがいくら寵愛を乞うても、凌雲の心は動かない。そしてその中のひとりには紅月もいるのだ。誰より近くに居て手に入らない愛を、紅月は欲しがっている。
(こんなこと、気がつかなければ良かった)
紅月の頬に、涙が一筋伝った。
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